#13 残り香
「——ソフィー……?」
いつもよりずっと早いペースで、ソフィーは俺の少し先を歩いていく。
刻む歩幅は、彼女の小さい背丈に比べれば、ずっと大きいもので。
「……だから、さっきは普通にクラスメイトの相談に乗っていただけで……」
——“あの、ヒトは……?”
再び、先ほどのソフィーの表情がフラッシュバックする。
何度説明してもなお、彼女は振り返ることすらせず、立ち止まりもしなかった。
彼女にしては珍しく強情で、いつもよりずっと無口だ。
カッカッカッ、と。短い間隔で、彼女の靴がアスファルトを叩く。
ジー、ジー、と。昼も近いせいか強さを増した日差しの中、蝉は鳴き続ける。
幾度かすれ違った学生、微かなそよ風に擦れる木の葉、落ちた蝉は、時々羽をバタつかせる。
けれど、そんな夏の喧騒から、どこか抜け落ちてしまったような気がして。
今まで経験してきた中でも、よっぽど酷い沈黙だった。
アスファルトの照り返しは、相変わらず眩しいはずだったのに。俯いたところで、今の狭まったような視界じゃちっとも気になりはしない。
何だか憂鬱で。そして、不思議でもあった。
——なぜ、ここまで強く、彼女のことが気にかかるのだろう。
初めて会ったときからずっと、胸にあった疑問。
普段は——梨久を相手にしている時ですら——何かしら取り繕おうとしていたはずなのに。彼女に対しては、なぜか慎重になってしまう。
それこそ、友人以上の、もっと近しい相手と接しているようだった。
仮に前世で俺たちが師弟関係を結んでいて、一緒に生活していたとして、それだったらきっと、関係性は家族に近いものだったのだろうか。
だとしても、今の俺にそんな記憶はない。俺——青木 楓という人間にとって、ソフィーはまだ、三日しか一緒に過ごしていない女の子に過ぎない。
その点を踏まえれば、不思議なことこの上ないはずだったのに。記憶の残滓というものが実に性質の悪いこともまた、俺は知っていた。
どれだけ遠ざかろうとも、夏の残り香はずっと胸に留まり続けていた。
仮にそれと同じものだとして、今もまだ、夢だとか、脳の深層部分だとか、そんなところに前世の記憶が欠片でも残っていて——それが、影響を及ぼしている。そんなことが、あり得るのだろうか。
結局、妙に曖昧な答えを抱えたまま、気づけば歩幅は少しだけ広がっていた。
考え込んで、俯いている間にも開いていた距離は縮まっていく。
そして、もうすぐでソフィーに追いつくかどうかというくらいに、彼女の背中が近づいてきた時だった。
「——わかっています」
普段よりもずっと遅くなった返答が、ようやく沈黙を打ち破った。
「そんなに説明しなくても、問題ありません。別に、カエデとあのヒトが友人であることくらい——わかっています」
けれど、返答の中身とは裏腹、まだ、彼女の声音は掠れていた。
何か、取り繕わなければならない気がして。
つっかえそうになりながらも言葉を絞り出そうとしたせいで、一瞬だけできた間。
それに被せてくるようにして、不意に彼女は声を上げた。
「……でも、知らないのですっ!」
珍しく、それは荒げられたものだった。
そして、彼女が僅かに振り向いた時、俺を映す瞳は、確かに潤んでいた。
それ以上は、何も口にできなかった。
「……本当に、知らないのです。カエデに非はありません。声を荒げてしまったことは謝ります。でも——今は、一人で行かせてください」
捲し立てるように残りを口にして、彼女はまた背を向けると、今度は、さっきよりもずっと早いペースで駆け出す。
——“知らないのです“。
一体、何のことを指していたのだろう。
彼女の言葉を反芻し続けても、その意味がわからなくて。呆然としている間にも、差は再び開いていく。
その時だった。
ほとんど麻痺したような感覚の中で、辛うじて機能していた部分が、危うさに気づいた。
地面を踏む音が、さっきよりもずっと不規則になっていて。
彼女の背中は、歩幅の不規則さについていけず、大きくブレ始めていて。
『その——どうしても、以前の背丈だった時のことが、まだ感覚として残っていて』
時間にしてみればつい一時間ほど前、彼女が口にしていたことが脳裏をよぎる。
「ソフィ——っ」
声をかけつつ、俺も後を追おうとして——でも、その時にはもう、遅かった。
ぐらりと一度崩れた体勢は、俺が声をかけようとも直ることなく、ぴくりと一度声を震わせたのを最後に、呆気なく彼女は転んでしまった。
「大丈夫かっ!?」
駆け寄り、声をかけてすぐ、彼女は顔を上げた。
けれど、その表情は大きく歪められていて。そんな中でも、彼女は強がるように小さく首を縦に振るのみだった。
「……取り敢えず、見せてみろ」
背中に手をかけ、体を起こしてみると、真っ先に映ったのは膝小僧にできた擦り傷だった。
それも、相当に大きなものだ。真っ白な肌に対して、流れていく血はなおさらはっきりと映る。
表情を見ても、傷を見ても、とにかく痛々しい。せめて、何か塞げるものはないか——と、ポケットを弄っていた時、不意に、たった一つだけ、布の感触が触れた。
それを、そのまま取り出して。
「——っ」
一瞬、俺は固まってしまった。
赤いリボン。間違いなく、朝、慌ててポケットに捩じ込んでしまったものだった。
思わず、息が詰まる。
あの夏を——忘れたくてもこびりついていたものを、形として明瞭に呼び覚ますもの。
とにかく、視界に入れたくないはずだった。
反射的に、それを再びポケットに捩じ込もうとして。
けれど、そうする直前、別の何かがそれを妨げたのを感じた。
それは、曖昧で、薄らいでいて、ちっとも輪郭が捉えられないもので。
それでも、伝えてくる衝動だけはやたらと強い。
「……応急的なやつ、だけど」
痛みのせいか歪んだ表情も、潤んだ瞳も、膝にできた傷も——とにかく、この場においてソフィーを放っておくのだけは憚られた。
半ば、そんな衝動に従うままに。
リボンを傷口に当てるようにして、少しだけ血を拭き取ってから、少しきつめに彼女の膝へ巻き付け、結ぶ。
「……少しは、マシか?」
彼女は、再び頷いた。
とはいえ、血は布に滲み、まだ十分痛々しさを感じさせる。
「……一人で歩くんじゃ、結構痛むよな」
彼女は、少しだけ考え込むように、視線を逸らして、それから首を振った。
けれど、同時に強く唇を噛み締めてもいた。
「だから、無理はしなくてもいいって。……あんまり、大きく動くなよ」
「カエ、デ……?」
そこでようやく声を発したソフィーは、声に困惑こそ滲ませてはいれども、先ほどのような荒げた態度は特に見せなかった。
——人をおんぶするのなんて、どれくらいぶりだろう。
そんなことを考えながら、彼女の体温を背に、バランスを整えるため、二、三度、足踏みをする。
特に彼女は抵抗もせず、少しばかり慣れていないようではあったけれども、しばらく位置を探すように手を遊ばせ——最終的に、それは肩で落ち着いた。
リボンを見た時と同じ。遠ざかった記憶でも、こうして何かがキーになってしまえば、人をおんぶした時の記憶だって簡単に蘇る。
本来は、全てが閉じ込めておきたい記憶に紐づいたものであるはずだった。
とはいえ、今は“彼女のため”という目的があるせいか、胸を蝕むものは、普段よりもずっと抑えられていて。
師弟関係だとか、家族だとか、恋人だとか——俺と彼女の関係性は、今の俺にはどれでも表せない。はっきりと刻まれた記憶の中で過ごした時間を考えれば、むしろ他人に過ぎないのだから。
だが、例え曖昧なものだったとしても構わない。
防衛本能が働いたのか、それとも、ただ上書きしてしまいたかっただけか、それはわからなかったけれど。
今はただ、その残滓とやらに縋っていたかった。
「……ししょー、なるべく急ぐから、少し我慢しててくれ」
小さな震えと共に、彼女が小さく頷いたのを感じる。
額に滲む汗を、軽く首を振って払い、深く息を吸って、俺は歩き出した。
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