#2 魔女様は、はるばる遠くから。

「んぅ……」


瞳が瞬いた。

青く澄んだそれに俺の姿が映り、それを認識したかのように数度、瞳はぱちぱちと、何度も瞬きを続ける。


エレベーター前で妙な格好の少女と遭遇し、倒れ込まれてすぐ、体温の高さと顔の赤さから、熱中症らしいことに気づいたために、部屋に運び込み、精々学校の授業とネットから仕入れた知識程度ではあったが、クーラーを点けつつ、氷を首や脇に当てて、応急処置は済ませた。


救急車を呼ぶかどうかは迷ったものの、本人に関しては完全に意識がなかったわけではなかったことと、水分補給はある程度できる状態にあったことから、しばらく様子を見ることにした。

やがては、顔色も幾分かマシになり、だんだんと呼吸も整い——やがては寝息に変わったためしばらく様子見をして——二時間ほどが経ったろうか。


どうやら目が覚めたらしい。

しばらくは眠たげな瞳ではあったものの、顔色といい、こちらを見つめる視線といい、ある程度意識ははっきりとしてきたようだ。


「その……体調、大丈夫か?」


それに対して、しばらくじぃっと俺を見つめると、彼女はこくりと頷く。


「取り敢えず、水でも飲む?」


それにもこくりと頷いたのち、彼女は体を起こすと、視線を巡らせ——今度は、首をこてんと傾げた。


「……ここが家、ですか?」

「まあ、一応。一人暮らし、してるから」


簡単にではあるが説明をしつつ、グラスに水を注いで彼女のところまで持っていく。


「……これは……?」

「水、だな」

「いえ……水の方じゃなくて……これ——硝子、ですか?」

「……そう、だけど」

「随分と透明ですね……魔法でも生成できないくらい。もしかして——弟子、今世は相当な上流階級です?」


最初はふざけているのかと思った。

元々、服装だってローブにとんがり帽子——魔女ごっこ、だとか。そういった遊びの延長線に俺も巻き込まれているだけかと思っていた。

けれど、彼女の声音からはそんな含みなんて一切読み取れなかった。


まるで、初めて透明なグラスを見たかのような純粋な反応。



そして——エレベーターの時の微かなものとは違って、はっきりと聞き取れた『弟子』の二文字。



「——っ」



どこか……どこかそれが、深い場所と繋がったような気がした。


閉ざして鍵までかけた引き出しを無理やり開けようとするような——もっと言ってしまえば、もう忘れてしまった夢の内容を無理やり思い出そうとするかのような——そんな強烈な不快感が、不意に俺を襲った。


「——弟子? ……弟子……? どう、したの……」


が俺を呼ぶ。その瞬間に、朧げだった輪郭が像を結ぼうとする。



「——っはあ」



吸い込んだ空気に、思わず咽せる。酷く熱い。喉が焼けそうだ。


視界は次第に狭まり——その癖して、残った中で見える景色はあまりにも眩しい。


体も熱い。まるで、強い熱に晒されているようで——一体、何が……起きて——?



「弟子、これを——嵌めてくださいっ」



突然、俺の指先にただ熱いだけじゃない、温もりが触れた。

その直後、確かに指に嵌まったのを感じる冷たい感触。


視界が、広がった。

体から熱が失せる感覚と共に、冷気が肌に触れる。


掴みかかっていた輪郭は再び霧散して、どこかに消えてしまった。


「はぁ——はぁ……」


無理やり落ち着かせるように、胸一杯に息を吸い込む。

——冷たい。

何ともない、いつも通りのクーラーから吐き出された冷気だ。

それを認識して、ようやく荒くなっていた呼吸は多少落ち着いた。


「……ごめんなさい。すっかり、失念してしまっていて……そこまで記憶がなくなっているとは、予想外でした」

「今、のは……? それに——弟子って、君は……一体……?」


俺の手を取り、彼女は先ほど触れていた薬指を確認する。

そこには、銀色のリング——シンプルな見た目の指輪が嵌められていた。


「制御……できているはずなので問題ない……でしょう」


少しだけ俯いて。

でも、それも短い時間だった。すぐに俺を見据えると、彼女は口を開く。


「単刀直入に言います。私は——前世で、あなたの師匠をしていた、です」


……前世? ……師匠? ——魔女……?


立て続けに並べられた言葉の数々に、思わず目眩がするのを堪える。

今起こった出来事は、確かに異常だった。

妙な夢を見ることは今までも確かにあったけれど、今のは白昼夢とかそんなレベルじゃない。あまりにも鮮明な感覚だ。


処理が追いつかないくらい大量の情報を、無理やり咀嚼し飲み込んで。


けれど、まだ辛うじて働いた理性が囁いてくる。

あまりにも非現実的すぎる、と。


「ちょっと待て、前世って……それに魔女って……一体、なんの……?」

「そのままの意味です。魂は、存在しています。そして、こことは違う異世界も。あなたは元々そこの住人で、私もそこにいました」


彼女はいつの間にか、手元に短い木の枝のようなものを携えていた。

それを一振りした途端、足元からいくつかの光球が浮かび上がり、宙に浮いたまま動きを止める。


「今のは……?」

「魂の痕跡です。ほら、この場所だけでこんなにも。この世界も、そこそこ長い歴史を刻んできたのですね」

「魂って……それに、なんで……こんなにたくさん……?」

「それ相応の処置が施されていないからです。……なるほど。この世界の人たちはまだ、魔法の扱い方を知らないのですね? それで、その分、別のものが発展した……と」


彼女は枝先でコツン、とグラスを叩く。

まだ軽い手品だとか、そう言った線で話を片付けることはできそうだったけれど。そんな風にあっさりと隅に追いやることができないくらい、完全に俺は彼女のペースに呑まれていた。


「……つまり、君は科学……とかじゃなくて、魔法が発展した世界で……?」

「“カガク”……というのですか。まあ、それはさておき——魂を扱う術についてはまた別ですが……おおむね、それで違いありません」


科学の代わりに魔法が発展した異世界。彼女は、そこから来ていて——俺も、前世はそこの住人で、彼女の弟子で。

相当に馬鹿げた話なのに——わかっているのに、なぜだか腑に落ちてしまう。

一蹴するのはきっと、簡単だろう。

けれど、それを止めるように指輪は未だ、光球の照り返しを見せていた。


……例え、それが本当だったとして……彼女は一体、何がしたいのだろう。

どれくらい難しいことかは知らないが、俺の感性じゃ到底、異世界からこちらに来るのが簡単なことだとは思えない。

仮に信じたとしても——そこまでしてまで、彼女が果たしたいこと——つまるところ、目的が知りたかった。


「仮に、そうだとして……それで……何で、君はここに……?」

「ああ、そうでした。大変だったんですよ? そもそも理論を完成させるのもですし、魔力も大半を失ってしまいました。それに、反動で体も幼くなってしまいましたし。それこそ、暑さにすら耐えかねないくらい弱いものに。——それでも、……守って欲しかったんです」


彼女は、一つ一つ噛み締めるように、少しだけ俯きながらぽつり、ぽつりと呟く。


「約、束……?」

「……ええ。その昔、あなた——弟子と、私が結んだもの、です」


揺らいだ瞳に俺が映る。

それが、躊躇われるかのように何度か瞬いて。


そして、彼女は少しだけ弱々しく見える笑みを浮かべると、ようやくそれを口にした。



「……約束、です。……弟子。——を、教えてください」

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