第6話 瘴気
暗黒城の裏手に廻るのに一刻ばかりを歩いた。裏手は木々が少ない。葉もなく、立ち枯れた姿が並ぶ。何羽ものこうもりがぶら下がり、時折羽ばたいて、何処かへ飛び去った。
霧の代わりに瘴気が渦巻いている。瘴気は闇の中でも薄白く浮かび上がって見える。薄白い瘴気は月の光をも遮り、見上げても二つの月は朧(おぼろ)にしか見えない。
「薄気味悪い場所だな」
「この瘴気は人間にとってはとても有害なので、あなたは長くはいない方がいいでしょう」
「そうはいくか。ひょっとしたら上手く忍び込んで、じじいの寝首を掻けるかも知れないんだぞ」
言うまでもなく、正面から正々堂々と、などどいう考えはない。あのヴァンパイア相手にそんな騎士道は有害無益だ。
「城には、隠された逃げ道や下水道が地下を通って内部に通じている場合もありますが、この城に限ってはそんなことはなさそうですね」
「逃げ道も造ってはいないわけか」
「おそらくは」
「畜生! いや、いい。じじいが何処にも逃げないってことだからな」
「逃げる必要はない、と考えているから、でしょうね」
「へえ。じじいは、上空へならこうもりになって飛べるが、俺たちはそうはいかない。ジュエーヌと犬たちは、正面の門から出て来たんだろうが」
「空へも逃げる気はないのでしょう」
「何故分かるんだ?」
「今のデネブルに唯一弱点があるとしたら、暗黒城と呼ばれる城に固く縛りつけられて動けないことです。おそらくは、今となっては決まった時間に黒こうもりか黒狼の姿となって出てくるのが精一杯なのでしょうね」
「よく分かるんだな」
「以前の行動と異なる点を考えれば、それが妥当だと思います」
「こうもりか狼の姿で出歩くのが精一杯と言ったって、その『精一杯』でも俺たちは酷い目に遇わされるわけだがな」
「そうですね。おそらくは後(あと)一千年も経てば、力は全く衰え、消滅するかも知れません。肉体は永遠の若さを保てても、精神の方はそうはいかないからです」
「一千年か。俺はそんなには待てないな」
それは冗談だったのだがアントニーは笑わなかった。
「一つだけ約束してください。他の旧種から永遠の命と大きな力を得て、デネブルと戦おうなどとは決してしないと」
「なるほどな、その手があったか。良いことを教えてもらったな」
ウィルトンはにやにやとしてみせた。アントニーはやはり笑わなかった。
「悪かった。最近冗談の切れが悪いんだ。これも感性の衰えのせいかも知れない」
「あなたの感性が衰えているとは思いませんが、冗談は面白くはないですね」
アントニーの物言いは素っ気ない。
「この瘴気には、今のところ大丈夫だ。瘴気は城の中にも満ちているのか」
「いいえ」
「それならよかった」
「この瘴気自体は近くにある沼のせいで、デネブルの魔力によるのではありませんが、《法の国》時代に消滅させられたと思われていた瘴気の沼が、今やあちらこちらで復活しつつありますね」
「悪いがその話は後だな。何もかも一度には出来ない」
そもそも生きて城を出られるかも分からない。
「大丈夫だ、俺は何ともない」
言ってから暗黒城の城壁に歩み寄る。近寄るにつれ、立ち枯れの木々さえまばらになり、こうもりの不気味な姿も見えなくなる。瘴気の靄(もや)はますます濃くなる。
背後からアントニーが来てくれているのは分かっていた。振り返らずにそのまま足早に歩いてゆく。
「この穴は? 何かの罠か。そんな気がする」
ウィルトンが立ち止まった先には、屈(かが)めば入れるほどの大きさのひび割れがあった。漆黒の城壁に空いた穴の向こうには、壁のこちら側の夜よりも濃い闇が広がっているようだ。だが、確かに瘴気の靄は見えない。ひび割れから中には侵入しないようだ。
「瘴気も避ける暗黒城か。中には瘴気より恐ろしい何かがあるんだろうな」
「ここからは何も見えないですね」
「お前の目でも何も見えないのか」
「はい、何も」
「ここから素直に入る気にはなれないな。絶対に罠だとしか思えない。もし俺が冷酷で手段を選ばないのならば、誰かを連れてきて入ってもらう。それで中を探るのさ」
アントニーはじっとウィルトンの目を見つめた。
「それも面白くない冗談なのですか?」
「正義なんて信じないが、やりたくはない。だけど自らそうすると誰かが言ってきたら? なあ、今日は偵察だけなんだろ。戻ったら村の仲間に話そう。俺たちにとっても、生きて帰れるか分からない戦いになるんだからな」
アントニーは軽く肩をすくめた。
「人間が行くよりは、私が行った方がいいでしょう。ですが、先に城壁の他の部分も見てみましょう。何もなければ、どちらにしてもここから入るしかないでしょうからね」
ウィルトンに背を向けて、城壁に沿って進む。
「前に地面に穴を掘って中に入ろうとしたんだ。俺と村の者たちで。俺以外皆、瘴気にやられて死んだ。俺も危うく死ぬところだった。瘴気は、地上より地下に濃く入り込んでいたんだ」
「そうでしたか」
「これは冗談じゃない。本当のことだ」
「ええ、分かりますよ」
瘴気は進むにつれ、少し薄れてきた。重々しい空気はそのままだ。春が近く夜の風も生暖かい。野犬の吐く息のような湿った暖かさだった。
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