第2話 女ヴァンパイア、ジュエーヌ
アントニー・フェルデス・ブランバッシュは、ずっとこの地を見守ってきてくれた。デネブルの配下の、劣等種のヴァンパイアや血に飢えた魔犬から。
ウィルトンは思う。子どもの頃からの深く強い思いだ。
ヴァンパイアの貴族の青年は、気に入れば《血の契約》を交わし共に戦うという。
また、自分をヴァンパイアにした暗黒城の城主を倒すのを望みとしており、共に戦えるだけの力を持つ者が現れるのを待っているとも言われていた。
ウィルトンは直感していたのだ。自分こそがその『力を持つ者』だと。
先祖代々伝わる槍。魔力を持つ槍だ。
ウィルトンの腰の高さまでしかないが、念を込めると、先端から槍と同じ銀色の光の刃が放たれる。この槍は、現在はウィルトンにしか扱えなかった。
暗黒城の城主を一人で倒すのを考えたこともあった。犠牲に供された乙女の母親の泣き叫ぶ声を聞いたこともあった。
妹がさらわれるまで、結局何もしなかった。出来なかった。
「ああ、くそ。俺はなんて無力なんだ」
誰かを助けて倒していれば。その時に立ち上がっていれば。
妹はさらわれずに済んだ。
思いにふけるウィルトンは我に返った。アントニーが軽く自分の右肩の上に手を置いたのに気が付いたからだ。
「周囲に気を配って。ここで考え事は危険ですよ」
「考え事か。何も考えてなどいない。ただ後悔だけだ」
「さらわれた乙女たちがすでに殺されたと思うのなら、それは早計です。あなたの妹も含めて、まだ生かされているかも知れません」
「生きているかも知れない。そうだな、確かに可能性はある」
ウィルトンは、それ以上何も言わない。短い黒髪が微風にそよぐ。目も同じように闇空の色をしている。
その視線は今は、ただ暗黒城の三本の塔をじっと見上げていた。塔の上に満月が見える。紅い月と銀の月が見える。もう深夜なのだ。
今立つこの場所には、銀と赫(あか)とが入り混じる。銀細工とルビーが溶かされて薄れて、混じり合っているような、そんな夜。
「希望を持って、裏切られたときが怖い、ですか?」
ウィルトンは青年の方に向き直った。
「すでに絶望した後だ。再び希望を抱くのは難しい。妹は死んだと覚悟している。生きていたなら、その時は喜ぼう」
「生きているよう祈っています」
「祈る?」
意外な言葉だと思った。すでに人間ではなくなって久しいこの青年が、一体誰に祈るというのだろうか。
「ネフィアル女神に、ですね」
「へえ、それは意外だな」
古の大帝国、《法の国》。ネフィアル女神に捧げられた帝国。偉大で広大で、強大であったその国も、今は滅び去った。ネフィアル女神への信仰も、滅びたのだと思っていた。
「ネフィアルは正義と公正なる裁きの女神だったのです。今は忘れられていますが、でも私はそのうち、誰かが女神の教えを再び広めるのだと思っています」
「正義の女神か。正義なんて信じているのか」
「私は信じています」
「俺には正義なんて信じられない」
「正義なんてエゴイズムの裏返しに過ぎないと言うわけですか?」
「それより悪い。正義感が強い、心の正しい者から死んでいったり、生きていれば損をするだけなんだと思っている。だから正義の女神なんて信じられないよ」
「ええ。そうしたこともよくありますね」
アントニーは素直に認めた。
それきり彼はそれについては何も言わなかった。
「ほら、あそこに。見えますか?」
見えた。銀細工とルビーの月明かりが夜目の利かない人間の目にそれを見せてくれた。
黒い犬が三頭いる。どれも狼くらいに大きく、燃える石炭の色の目を爛々と光らせている。
「石炭は希少だが、木炭より良い燃料になる」
この場ではどうでもいいようなことをウィルトンはつぶやいた。
「こちらに来ます」
言われずとも分かった。大きな猛犬は長い舌を出して駆けて来る。牙と赤い舌、赤赤と燃える二つの目。
「来る前に仕留めるさ」
ウィルトンは槍を構えた。切っ先から銀色の刃が飛ぶ。槍の先の刃と同じ形の光の塊(かたまり)が。
先頭を走る一頭の両目の間に命中した。巨犬は一瞬怯(ひる)んだ。怯む犬の両側を、他の二頭が駆け抜ける。
甲高い女の笑い声がした。犬の後ろに黒いドレスを身にまとった女が現れた。女は自分の身の丈の分だけ宙に浮いている。深い栗色の髪に、翡翠色の目の、美しくも妖しい雰囲気を醸し出す若い女だ。
「こいつもヴァンパイアか」
「おそらくは」
女は短いドレスから長い脚を見せていた。白く、形の良い両脚。太腿の上辺りまでしかドレスの丈は届かないようになっていた。
そのドレスの裾が、にわかに吹き付けてきた風を受けてまくれ上がる。扇情的な赤い腰巻きが黒いドレスの下から覗く。
「あれは、まさか」
近づいてくる女の顔には見覚えがあった。あまりにも雰囲気が変わっているので気が付かなかったのだ。
「妹の前にさらわれた娘だ」
すでに三頭目に光の刃を放ち足止めしていたが、女に攻撃を仕掛けようとして、ためらった。
「そうでしたか。でも充分考えられたことです」
そう言って、アントニーは前に進み出た。
「あなたには無理だろうと思います」
何が、とはウィルトンは聞かなかった。
宙に浮く美女は、妖艶な笑みを浮かべてウィルトンを真っ直ぐに見た。
「何故私を助けてくれなかったの?」
元々は清楚な乙女だった。名はジュエーヌ。
「何故貴方は私を見捨てたの」
女は近づいてくる。ウィルトンは視線を逸らせなくなったことに気が付いた。
美しい。ヴァンパイアになる前よりもずっと。
そう思った。
ふらふらと足が前に進む。自分の意志ではなく、夢遊病のように。実際、半ば夢見心地だった。
「ウィルトン、駄目です」
気をしっかりしろ、とその声は告げていた。夢見心地の中でもウィルトンは思い出した。ジュエーヌを助けるために暗黒城に向かった三人の若者がいた。ウィルトンよりも八歳から七歳も若い青年たちだった。彼らは戻らなかった。
ウィルトンは共に行くと言わなかった。
「ウィルトン、愛してる。私はずっと貴方が好きだった。さあ、貴方も私たちの仲間に」
ジュエーヌ、あの三人はどうした?
そう聞きたかったが訊けない。
だから、正義の女神など俺には信じられない。
俺には正義なんて信じられない。
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