Tropical Evening

Tropical Evening

「東京は常識外れに暑い」。実家に住んでいた時に姉から何度も聞いていた言葉だ。そんな格言かくげんを、わたしは「大げさだなぁ」なんて漠然と考えていた。


 だって、そう言っていた姉は所詮しょせん夏に2回東京旅行に行った程度だったし、幼いころはエアコンがいらなかった地域だったけど地球温暖化のせいで地元もそれなりに暑かったし、「常識外れ」なんていう仰々ぎょうぎょうしい前置詞ぜんちし誇張表現こちょうひょうげんと信じて疑っていなかった。今日までは。


「暑い…」


 夕方に突っ立っていた白銀しろがね先輩を「寒そう」と心配してから2週間しか経っていない六月のはじめにしては暑すぎる。東京は常識外れに暑い。


 白銀高校がある白銀台しろがねだいからわたしが住んでいる天寺町あまじちょうまではそれなりに距離があり、涼しい路線ろせんバスで移動できるから楽なのだけど、問題はバス停のある天寺駅からマンションまで徒歩10分ほどあることだ。 


 徒歩10分の道が東京都民は「遠い」と思うらしいけど、わたしからしてみれば果てしなく近いと思う距離だった。今日までは。


 スクールバッグにブレザーという手荷物がとても重い。高層こうそうビルに反射した日差しは的確なまでにわたしを狙っていて、ひたいを汗が通る感覚が不愉快ふゆかいだ。徒歩10分は遠い。


 愚痴ぐちをいくら言ったとしても距離は短くならないし、涼しくもならない。さっきコンビニで買った冷たいお茶だけを頼りに歩き慣れたと感じ始めた道をゆく。


 なんてことを考えながら歩いていると、100メートルほど先にいるおばあさんの姿が目に入った。


 かなり重そうなリュックにスーツケースと、明らかに「遠方からやってきました」なんていうその風貌がやけに気になる。


 すれ違う瞬間。おばあさんが異常なほどに汗をかいていることに気づいた。


「大丈夫ですか?」


 色々考えるよりもはるか先に出てきた心配の言葉だったけど、顔を近づけて杞憂きゆうではないことがわかった。汗が異常なまでに流れていて、呼吸が荒い。


 遠目では気づかなかったけれど、このおばあさんかなり厚着だ。ブラウス姿でもそれなりに暑いのに、冬に着てもそれなりに暖かそうな厚手の服。


「大丈夫だよ」


 元からかもしれないが、なんだか声が弱々しい。「大丈夫」なんて言っているけれど、全然そんな風には見えない。


「お節介かもしれない」なんて言ってられない。


「せめて、なんか飲み物とか…」


「大丈夫、大丈夫。気持ちだけで…」


 そんな風に言われてしまったら、尻込しりごみしてしまう。


 尋常じんじょうじゃない汗の量や白くなっている顔色は熱中症の初期症状しょきしょうじょうのように見えるし、このまま放置していたら最悪の事態すら想像できてしまう。


 無理やりにも何とかすべきだと言うべき?


 いや…でも…


「いやぁ、大丈夫には見えないっすよ」


 戸惑い、自分がどうすればいいのかわからなくってあたふたしているわたしに助け船を出してくれたのは、近所の私立中学の制服を着た女の子だった。


「熱中症は危ないですよ。死んじゃう可能性もあるんですから」


 その姿がとても理路整然りろせいぜんとした対応は大人びて見えて、年下の中学生に関心を覚えてしまった。


 それなりに人通りがあるけれど、助けてくれたのはこの子だけ。そういうところも勇気があって、かっこいい大人って感じだ。


「大げさだよ。熱中症だなんて、まだまだ春なんだから」


「いやいや、季節なんて関係ないと思いますよ。ですよね、お姉さん?」


「お姉さん」なんて言われるのが違和感ありありで、一瞬自分のことを指していることに気づけなかった。


「そうですよ。冬に暑い室内で熱中症になったりもするらしいので…」


「……そうかい」


 今日くらい暑いのならば、六月だったとしても熱中症になったとしてもおかしくはない。わたしが挙げた例はかなり意味不明で的確ではなかったような気がするけれど、おばあさんは理解してくれたようだ。


 ともかく、解決の方に物事は進んでいきそうで本当によかった。中学生ちゃんには感謝せねば。


「おばあさん、どこに行こうとしてるの?」


「白銀台だよ」


「白銀台っすか…歩いていける距離じゃないっすね」


 ここから歩くとなるとかなりの時間がかかるし、この暑さの下ならなおさらだ。


 中学生ちゃんがおばあさんと話している間に近くの自販機で冷たいお茶を買って渡すと、それを飲み始めた。やっぱりそれなりに喉が渇いていたようだ。


「それなら、いつもわたしが使ってるバスがあるよ。ここから駅まで歩くことになるけどね」


「いいですね!おばあさん、駅までなら大丈夫そうですか?」


「駅までね。いいよ」


 おばあさんもわたしたちに対する態度が柔和にゅうわになっているし、なんとかなりそうでよかった。


 駅までの道はまっすぐ行くだけでわかりやすいものなのだが、何となく話の流れでわたしもついていくことになりそうだ。


 正直に言うと「面倒だなぁ」と思う気持ちもあるけれど、乗りかかった船だし、自分のことを善人だと信じてついていくことにしよう。


 駅までの道を歩き始めると、おばあさんのほかに中学生ちゃんもなぜかついてきた。不思議に思ったけれど、助けてくれたので「どうして?」とは聞けなかった。


「おばあさんはどうして白銀台に行きたいんすか?」


「娘の家に住まわせてもらうことにしたんだよ。独り暮らしはもうきつくってね」


 まあ、中学生ちゃんがいてくれたらわたしは会話しなくて済むので楽は楽なんだけどね。


 夕焼けはどんどんとあかみを増し、夜のおとずれを思いださせる。さすがに寒くなり、ブレザーを改めて着直す。


 やがてたどり着いた天寺駅は帰宅中であろうスーツの男性たちで賑わっていて、制服姿の自分が浮いているように思えて居心地が悪い。


「バスはここです。……あと五分くらいで来ますね」


「ありがとうね、二人とも。もう大丈夫だよ」


 中学生ちゃんとわたしに。おばあさんは浅く礼をする。


 わたしは…何かできただろうか。


 結局お茶のお代も受け取ってしまったし、礼をされてしかるべきような行動をしたとは自分で思えない。


 そんなわたしと違って中学生ちゃんは冷静で、適切な対応ができていたと思った。感謝されて当然の、かっこいい対応だ。


「……」


 おばあさんから離れ、少し遠くにあるベンチの上でぼんやりとバス停を見つめる。この時間のあのバスは混むこともないだろうし、あとは降りる場所さえ間違えなければ大丈夫だろう。


 ため息をく。もう涼しくなってきた街は、ひどくうるさい。


 ここから自分の家までの帰路をもう一度下る面倒くささを考えてしまっているわたしは、とことん人助けというものが向いていない。


「隣、いいっすか」


 ぼんやりとしていたわたしに話しかけてきたのは、さっきの中学生ちゃんだった。


「…いいよ」


 断る理由もないので許可すると、中学生ちゃんがベンチの端に座った。


 互いに端と端、出会ったばかりで当たり前だが、わたしたちの間には距離がある。


「すごいね。冷静で」


 ぽつりと呟いたわたしの言葉に、中学生ちゃんは過剰に反応した。


「えっと…部活のおかげで熱中症になっちゃった子の応対は慣れているので」


 なるほど。あんな風に適切な行動ができたのは、過去にも似たような経験があったからか。


 他愛のない会話。おかしなところがあるとすれば、わたしたちの物理的な距離が先ほどよりも縮まっているということくらいか。


 わたしは相も変わらず端に座っているので、近づいているのは中学生ちゃんということになる。


 別に、その行為は嫌ではない。ただ、意味のないことだは思ってしまう。


 自分から話しかけて無責任だけれど、わたしたちの間には「同じおばあさんを助けた」という共通点以外はない。距離を詰めたとして、その浅い共通点では会話が発生しようがない。


「ええと…お姉さんもすごいですよ。お姉さんが最初にあのおばあさんに話しかけなかったら、ボクは気づけなかったかもしれないので」


「……そうかな」


「礼をされるようなことをしていない」。そう思っていたわたしにとって、その言葉は意外なもののように思えた。


 しかし、なんだかその優しさに似た言葉が心地よく聞こえ、自分という存在の全面的な肯定に思えた。


 ……でも、ダメなんだ。


「わたしは、何もしてない。何かしてても、それは自分の為だから」


 言い終わり、気づく。こんなことは今言うべきことじゃない。


 おばあさんを助けたのも、白銀しろがね先輩に缶コーヒーを渡したのも、本を拾って渡したのも。すべては結局わたしの為。


 真に誰かの気持ちを理解したうえで、「選ばない」という選択肢を取ってしまうわたしは…みにくい人間なんだ。


「お姉さん?」


「え?」


 考え込んで嫌な方へ自分から入ってしまったわたしを引きずり出すかのような呼びかけに、視界は現実に戻る。


 視界の端ではバスが少し早めに到着したバスにおばあさんが乗り込んでいた。


「帰るかな」


 中学生ちゃんの問いかけを無視するような形にはなってしまったが、自分の感情を優先して口に出す。


 なんだかこの場所は鬱々うつうつとしていて嫌なことばかり考えてしまう。


 だから逃げようとして立ち上がると、当然のように中学生ちゃんもついて来ようとする。


 正直に言うと一人になりたいからついてこないでほしかっけれど、指摘できるほどの度胸もなく、ただついてくる中学生ちゃんを受け入れる。


「そういえば、お姉さんのその制服…白銀高校ですよね?」


「えっと…まあ、そうだね」


 白銀高校はやっぱりそれなりに名の通る学校なので、制服を着ているだけでもかなり目立ってしまう。特に天寺町に住んでいる生徒は少ないので、この周辺では特に感じることが多い。


 目立ってしまうのは仕方がないし、少し嫌だけど許容きょようはできる。


 こうやって面と向かって言われるのは初めてなので不思議な感覚だ。


「ボクの親友が白銀高校志望なんですよね。今めっちゃ勉強してるんですよ」


「そうだね…入試はほんと大変だったよ…」


 特に、わたしは進学校にいたわけでもないので果てしないほどの勉強を要したのを今でも忘れられない。


 しかし、中学生ちゃんの親友が同じ中学ならば、通っているのは白銀高校への進学者も多い私立の進学校のはずだ。わたしほどは苦悩しないだろう。


 わたしたちの間にそれ以外の大した会話はなく、気まずいままさっきおばあさんを介抱した場所までやってきてしまった。


 そこから少し歩き、分かれ道に着いた頃中学生ちゃんは「ボク、こっちなんで」と言った。


 今更だけれど、リアルなボクっは意外と違和感がない。中学生ちゃんがそれなりに可愛いおかげだろうか。


「あっ!お姉さん!」


 やっと一人になれるなんて考えながら別の方向に歩いていこうとすると、結構な大声で引き止められる。


「えっと…名前、なんていうんですか?」


「名前、わたしのか。池野いけのはれる」


 伝える意味があるのか分からない自分の名前を正直に答え、「ボクは海原かいばら姫恵ひめっす!」なんて言葉を受け取って遅すぎる自己紹介を終える。


 海原さん、姫恵さん…仰々しい呼び方よりかは「姫恵ちゃん」といった呼び方のほうが彼女には似合っているように思えた。呼ぶ機会があるならばだけど。


「ええと……なんて言えば……は、はれるお姉さんは頭いいんですか?」


 答えにくい質問が少し離れた距離から飛んでくる。


 周囲には偶然わたしたち以外の人がいなくて、静かだからか極端に大きな声を出さなくても言葉が届く。


「まあ、白銀高校に合格できるくらいにはね」


「だ、だったら!これからボクに勉強を教えてください!」


 予想外。勉強を教えてほしいと言われ、思考が硬直こうちょくする。


 世間の高校一年生から相対的に見て頭がいい程度のわたしは人に勉強を教えてあげられるほど賢くはなく、そのような経験はない。


 だけど、不可能かどうかと聞かれればどうだろうか。


「……どうして」


「理由次第では」。わたしがそのような態度を見せたからか、姫恵ちゃんの表情が目に見えて明るくなる。


「ボク、いつもは親友の子にテスト勉強に付き合ってもらってたんですが、受験に向けて忙しそうなその子にお願いするのはなんだか心苦しくって…あ、もちろん対価は…」


「お金?だったら家庭教師でもいいんじゃない?」


「あ、それと白銀高校に行きたい親友の為にいろいろ教えてもらいたい的な下心も…」


 なるほど。


 白銀高校について聞くなら、白銀高校生に。とても理にかなっているように思える。


「自分の勉強の為」。最初はそう言っていた姫恵ちゃんだったけれど、わたしから見れば正直なところ下心の方が本心のように読み取れた。


 下心とはいえ、親友の為の優しい下心。


「いいよ。でも、お金は無しかな。わたしが教えられることは大そうなものじゃないし」


「いや、悪いですよ!絶対に対価は払います!一時間二千円!ボクのお小遣いから!」


 トラブル回避を理由に言ってみたものの、姫恵ちゃんは「お金を払う」ことは意地でも譲らないようだ。


「じゃ、折衷案せっちゅうあん。勉強するときは喫茶店で、ドリンク一杯で一日ってのはどう?」


「それなら…ありがとうございます!」


 対価を得ている。その二つが対して変わらないような気がするけど、なぜかわたしの中に満足という感情が生まれる。


 それからは、距離を詰めて勉強についてのあれこれを決定する。


 週に一度。テスト前は増やす可能性あり。姫恵ちゃんは部活が忙しくって詳しい曜日は決められないようで、開催日は一日より前にわたしに報告。開催場所は喫茶店。


 こういうのは意外と楽しいもので、いろいろすり合わせながら決定していくうちに「帰りたい」と考えていた気持ちが消えていた。


「あとは…連絡手段、交換しましょう」


「了解」


 スマホを重ね、友だちになる。


 姫恵ちゃんのアカウントのアイコンは自撮りで、彼女以外にもう一人の女の子が写っている仲の良さげなものだった。


 金髪で碧眼。明らかに外国人の女の子。この子がさっき言っていた親友だろうか。


「…はれるお姉さんのアイコンの子、可愛いですね」


「しまった!」


 姫恵ちゃんが指摘したわたしのアイコンは、今見ている漫画の女の子。つまり、アニメアイコン。


「この女の子…見たことある気が…」


 ヲタク趣味のないようなタイプの子とヲタクの間に生まれるこの時間、嫌いだ。もういっそのこと殺してくれ。


「この漫画、マイナーだしたぶん勘違いじゃない?」とは言えず、姫恵ちゃんの言葉を無視して自分の言葉を強引に差し込む。


「わたしは!暇だから気軽に連絡してね!分かんない問題とかあったら写真送って、ね!」


「は、はい…」


 もうアイコン変えよ……


 なんて思っていると、わたしたちの間に立っていた電柱に備え付けられた電灯が灯った。


「ああ、もうそんな時間か」とどちらが言ったわけでもないが、解散の流れになって別々の道へわたしたちは歩き始めた。


「じゃあ、バイバイ。気軽に連絡していいからね」


「はい!…ええと、はれるセンパイ!」


「センパイ?」


「ダメですか?」


「別にいいよ。好きに呼んで」


「はい!」


 それだけ言い残し、姫恵ちゃんは暗くなってきた夜道を駆けて行った。


 ……そっか、センパイ。


『はれる先輩』


 …


 ……


 嗚咽おえつを抑え込み、忘れたいと身勝手に願う。

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