増田朋美

今日はなんだか曇っていて、寒い日だった。一応暦の上では春ということになっているけど、まだまだ寒いというのが本音のところだった。時折道路に咲いている梅の木がところどころ花をつけているのはわかるが、それもなんだか寒くて可哀想に思ってしまうほどの寒さである。

そんな気候であるが、そういうときになっても、水穂さんの世話だけはしなければならなかった。春であろうが夏であろうが、いつでもなにか食べさせるということはしなければならないのだが。

「あーあ、困ったな。」

杉ちゃんは、お皿を眺めてそういった。

「どうしたの杉ちゃん?」

製鉄所の利用者がそうきくと、

「ほらあ、みてくれ。」

杉ちゃんは、嫌そうな顔でそういった。確かに、お皿の中には、おかゆがたくさん入っている。

「ああ、また食べないんですね。水穂さん、春には疲れてしまうんですかね。確かに暖かいし、過ごしにくくなるのかな。あたしも、不安障害がひどかったときは、春って過ごしにくいなと思ってましたからね。」

「そうだねえ、お前さんの言うことも一理ある。」

杉ちゃんは彼女の言うことを聞いて、大きなため息をついた。

「でも、食べないと、体が余計に弱ってしまうと思う。」

それもまた事実ではある。

「だからなんとかして食べさせないと。無理矢理でもいいから、食べてもらわないとさ。もう白粥ではだめってことかな。なんか工夫して食べさせるようにしなくちゃ。」

お皿に乗っているのは白粥であった。人は待たせても粥はまたすなというほど、おかゆは繊細な料理だった。体の悪い人でも、栄養を取ることができるので、それは便利である。

「それなら、よく栄養価が取れる卵のお粥さんを作ればいいんじゃないかしら。卵は、寺村輝夫さんの童話にもあったように、すごく貴重な食べ物だった時期もあったもんね。」

と、利用者が言った。製鉄所と言っても、鉄を作る工場ではなく、家に居場所がない人たちが、勉強や仕事をするために利用している福祉施設であった。日帰りで利用する人が多いが、間借りという形で、住み込みも受け付けている。水穂さんは、それで製鉄所に住んでいた。

「まあ確かに、卵のおかゆを作るのは、問題ないけどさあ。卵だって、気軽にホイホイ手に入ることは入るけど、こう、全く食べないでいるのも嫌だよなあ。」

杉ちゃんは嫌そうに言った。

「でも食べさせなくちゃいけないのもまた事実よねえ。」

杉ちゃんと利用者が、そう言いあっていると、

「ただいま戻りました。」

と、小さな声で、玄関の引き戸を開ける音がした。

「そういえば、昨日から、新しい利用者が来ているんだっけ?」

利用者が言うと、

「ああそうだ。新しい利用者が来てるんだ。ちょっと、厄介なところがある子だけど、僕らは、彼女を立ち直らせなくちゃいけないのでね。」

杉ちゃんはそういった。

「えーと、名前は何だっけ。新しい利用者さんの名前よ。」

利用者がそう言うと、

「ああ、西村奈美恵さんと言うそうだ。富士宮に住んでいるそうで、今、富岳館高校の一年生。」

と杉ちゃんは説明した。

「まあ、あんないい高校に通っているなんて、素晴らしいじゃない。」

利用者は羨ましそうに言った。

「そうなんだけどね。お前さんたち若い人の感覚ではそういうことを言えるんだろうが、古い考えの人だと、あそこは、富士宮農業高校でしょ。ここらへんで言ったら、偏差値がとても低い高校だ。それで馬鹿にされちゃって、学校にいけなくなっちまったみたい。それで、ここに来ているんだけど。」

杉ちゃんが説明すると、

「はあ。もったいないわ。あそこはいい学校で有名なのに、偏差値が低いなんて差別するなんて、周りの大人も、厳しいというか、呆れてしまうわね。」

利用者がそういった。

「じゃあ、お前さんも、そういう思いがあるんだったら、彼女をそうやって励ましてやってくれ。そうしないと彼女はいつまでも自信をなくしてしまうだろうから。」

杉ちゃんがそう言うと、奈美恵さんは只今戻りましたと言って、食堂に戻ってきた。なんだかとても力が抜けてしまっているようで、顔に表情がなくぼうっとしている女性だった。これは、立ち直るのにはかなり手間がかかるのではないかと、すぐ想像できる顔だった。

「おかえり奈美恵さん。お昼は、冷蔵庫に入っているから、温めてから食べろ。」

と、杉ちゃんがいうと、奈美恵さんは、

「わかりました。あまり食べたくないんですけど。」

というのだった。

「でも、食べないと、体力がなくなっちまって、何もできなくなっちまうぞ。」

杉ちゃんがそう言うと、奈美恵さんはそうですねといった。そして一応冷蔵庫に入れてあった、カレーライスを取り出したが、レンジで温めることもなく、一口二口食べただけで、ごちそうさまといった。

「おい、それだけでいいのかい?たくさん食べないと、体力が得られないぜ。」

杉ちゃんができるだけ明るくそう言うと、

「ごめんなさい。今日は、なんだか、食欲が無いんです。」

と奈美恵さんは、お皿を片付け始めてしまった。

「いつもそのいいわけだよな。そうじゃなくて、食べ物を美味しく食べてもらわないと、こっちも困るんだけどな。せめて、僕が作ったカレーくらい、食べてくれると嬉しいんだがな。」

と、杉ちゃんがいうが、奈美恵さんは、ごめんなさいしか言わなかった。

「謝って済む問題じゃないの。お前さんは、心療内科で、検査でも受けたんだっけか。薬飲んでも、ご飯を食べなければ効かないぞ。やっぱり、どんな病気でも、食べれるようにならないとね。」

「そうですね。自分が病気なのか、考えてもわからないんですけど。」

と、奈美恵さんは言った。精神疾患というのは、体が痛いとか、そういう症状があっても、病気だと自覚しにくいのも特徴だった。食事をする気がしないのを、病気だと自覚できないので、なかなか薬を飲んでどうのというところにたどり着けない。

「まあそうかも知れないけどさ。僕にしてみればご飯を食べないというのはれっきとした病気だぞ。美味しくて楽しく食事ができないと、正常では無いと思うよ。」

杉ちゃんはそういった。

「最も、精神疾患というと、腫瘍があるとかと、わけが違うから、原因を取り除けばいいっていうわけじゃないけどね。お前さんの原因は何にあるんだよ。」

「もうそれは、富岳館なんていうおかしな高校に行ってしまったからよ。それで私は、最低だもの。偏差値が一番低いって、家族からさんざん馬鹿にされているし。」

と、奈美恵さんはそういったのである。

「いやねえ、富岳館高校って言ったら、精神疾患のある生徒さんにとっては、救いの神様みたいな学校よ。偏差値が低いとか、そういうことは関係ないの。そうじゃなくて、あそこの高校で、救ってもらったという生徒さんが大勢いるのよ。あなたもそれに甘えて、助けてもらっちゃいなさいよ。」

利用者がそう言うと、奈美恵さんは、

「でも、家族は先生に迷惑かけるなって、そういうことしか言わないし。」

と言った。

「生徒が先生に迷惑かけるのは当たり前じゃないか。そんな事気にしなくていいんだよ。そういうことは、誰にでもあることだから、迷惑かけたんなんて思わなくていいの。」

杉ちゃんがそう言うが奈美恵さんは答えなかった。

「なんとも言えない古い概念に支配されているようだね。お前さんの家族構成は?」

杉ちゃんがそう言うと、奈美恵さんは、父と母と祖父と妹といった。

「そうか、お年寄りがいるんじゃ、たしかに、発言しにくいかもしれないね。」

奈美恵さんは小さな声で頷いた。

「でも、妹さんがいるんだったら、親の関心とかも、分散されるのではないの?」

と利用者がそう言うと、

「違う!絶対そんな事無い。妹は、しっかりしていて、偏差値もそれなりにあって、いい学校に行けるって、学校からも塾の先生からも散々言われてて、本人もその気でいるから、有名な高校に行けるって、親が言ってた。私は、そうじゃないから、何をするにも妹はできるのにって、言われる。特に祖父や、母などは、ずっとそうよ。だからあの家で私は一人ぼっちなのよ!」

と、奈美恵さんは金切り声で叫んだのだった。それに対して、杉ちゃんたちは、何も態度を変えなかった。そう怒鳴って態度を変えてしまうのではなく、彼女の話をひたすらに聞くことが大事なんだと杉ちゃんたちは知っている。大体の人は、怒鳴ったり、叫んだりすると、それが露呈しないようにするのであるが、そうするのは帰って逆効果でもある。

「どうしてみんなはずっとここにいるの?私だけ一人ぼっちなの?嫌よ。私だけ一人ぼっちなのは!嫌!一人ぼっちは嫌!」

奈美恵さんはテーブルを叩いて怒りを現した。家族の人であれば、急に彼女が怒りを現したので、驚いてしまうのだろうが、杉ちゃんたちは、驚かなかった。ただ包丁などを持ち出して、大暴れでもしてしまうようなこともありえるので、そこは注意しなければならなかったが。

「わかりました。一人ぼっちは寂しいですものね。ここにいる人達も、その悲しさは知っていると思いますよ。だから大丈夫です。気にしないで、怒りを表現してください。」

そう言いながら、四畳半から水穂さんがやってきた。水穂さんは確かにものを食べていないせいで、げっそりと痩せていたけれど、そういうセリフを言えるのは、水穂さんにしかできないセリフかもしれなかった。

「一体どうしたんです?学校で何があったんですか?それともお宅で、お年寄りになにか傷つくセリフでも言われたんですか?」

水穂さんは、細い声で言った。

「あたしから見たら、富岳館高校なんて、すごいいいところにいけてて、幸せものだと思うけどな。」

と、利用者がいうが、水穂さんはそれを制した。

「もしかしたら、彼女には、そう思えない理由があるのかもしれません。それをまず聞き出しましょう。」

「ごめんなさい。私は、妹が憎かった。なんでも、彼女が、勉強もできて、運動もできるから、いつも妹は優等生だと言われて、私はそれに継ぐ存在で、お父さんにもお母さんにも、愛されて貰えなかった。私はどうしても、学校の授業にはついていけなかったし。なんで、あんな答えしか出ないのか、不思議で仕方なかったのに妹は、平気で答えが出て。なんで私が、そういう目に合わなくちゃいけないんだろう。」

奈美恵さんは、涙をこぼしていった。

「でも、彼女のお母さんに話を聞いたことがあるが、彼女を差別したということは全くしていないと言っているんだけどなあ。」

杉ちゃんはぼそっと言った。

「確かに、親御さんにしてみれば、そう感じているのかもしれません。でも、人間ですから、それぞれの人によって感じることは違います。彼女は、そう思っているのかもしれません。まず、それを僕らが受け入れて上げることだと思います。」

水穂さんに言われて、杉ちゃんはそうだねえといった。

「わかりました。まず、あなたの主張を受け入れることにしましょう。どんなに否定しても、彼女にはそう見えたのですから、まずそれを、受け止めてやらないと、彼女は前に進めませんよ。」

「そうかあ。それかあ。あたしがいくら、富岳館高校に行けたから幸せじゃないかって言っても、だめだったのは、そこだったのね。水穂さんに、また大事なこと教えてもらったわ。ありがとうね。私、カウンセラーを志望しているから、それも勉強になったわ。」

と、利用者は、そう言って頷いた。中には、そういう援助者になりたいという人もいる。試験の難易度が高いなどして、狭き門でもあるのだが、本人がそういう職業を志望しているのであれば、杉ちゃんたちは邪魔しないようにしてあげている。

「そうですか。妹さんがそんなに、にくい存在だったんですね。それに、姉妹ですから、切り離すというわけにも行かないでしょうし、答えは、このまま一緒に暮らしていくしか無いのでしょうけど、でも、辛かったですね。」

水穂さんがそう言うと、奈美恵さんは、わっと泣き始めた。それが、もしかしたら、彼女の心に住み着いている悪性腫瘍と似たようなものでもあるのかもしれない。そして、大事なのは、悪性腫瘍は手術をすれば取ることができるのかもしれないが、心の悪性腫瘍というのは、大体が生きている人間であるということで、手術をすれば取れるかというと、そうは行かないということだ。

「周りの人間は変えられない、自分が変わるしか無いと偉い人はいいますけど、それだって、自分の主張がまず受け入れてもらえる存在がいなければできやしないです。それについて、劣等感を持つことはありません。忘れろとか、意識から切り離せとか、偉い人は、そういうことを平気でいいますが、でも、それができる人ばっかりじゃないです。だから、それができないからと言って、悩む必要は何も無いんです。」

「よく言えるな。そういう事。そういう事言えるんだったら、ご飯を食べてくれ。そうやって人を励ませるのは、お前さんだけだ。僕らにはできないことだから。そういうふうに必要な人間でもあるってことをちゃんとわかってくれよ。」

杉ちゃんがそう言うが、水穂さんは疲れてしまったのだろうか、いきなり床に座り込んで、咳き込み始めてしまった。利用者が、ああやっぱり、食べないから、そういうことになるのよと言いながら、水穂さんの背中を擦ったりしてあげたのであった。それと同時に、

「こんにちは。宅急便です。受け取りのサインをお願いします。」

と、間延びした、宅急便配達の声がした。杉ちゃんでは文字を書くことができないので、代わりに利用者が玄関先に行き、急いで荷物を受け取った。割れ物在中、取り扱い注意と書かれた荷物を持って、利用者は、食堂に戻ってきた。すぐにハサミで箱を切って開け、中身を確認してみると、

「あら、ホロホロチョウの卵だわ。岩橋さんが、ホロホロチョウの卵を送ってきたのね。ああ、ここに手紙があるわ。なになに、またホロホロチョウが卵を産んだので、送ります、皆さんで食べてくださいか。岩橋さんも、すっかり牧場の事業主ね。」

利用者が、箱の中に入っていた手紙を見ながら言った。箱の中身は大量の卵が入っている。奈美恵さんはそれを何の卵だろうという顔で見ていた。

「ああ、お前さんは、ホロホロチョウの卵というものを見たことがなかったのか?ホロホロチョウの卵は栄養満点でものすごく美味しいよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「私、これでなにか作りましょうか。私、勉強はできないんですけど、料理だけは自信があるんです。富岳館高校でも、それにまつわる授業があって時々、献立を作ってみようとか、パンを焼いてみようとかそういう実習がよくあります。」

と、奈美恵さんが言った。

「おう、それなら、ぜひ作ってくれ。それを水穂さんに食わせよう。できれば卵のおかゆさんを作ってくれるとありがたい。」

話にすぐ乗ってしまう杉ちゃんがでかい声でそう言うと、奈美恵さんは、

「それでは、ホロホロチョウの卵でおかゆを作らせてください。」

と言った。そう言って、すぐに米びつからおこめを出して丁寧に研いで、それを鍋に入れて水を張り、グツグツと煮込み始めた。確かに、彼女の手付きはとても鮮やかだった。本人が、料理だけは自信があるというのは本当で、菜箸の持ち方も自信が見えていた。

「何だ。できることあるじゃないかよ。それを自分の糧として、それを生かしていきていこうという気にはならんのかよ。料理ができるんだったら、偏差値が低いということは関係ないと思うけど。」

咳き込んでいる水穂さんの代わりに杉ちゃんがそういうことを言った。

「もっとお前さんは自分のいいところに気が付かなくちゃな。」

「そうね。富岳館高校は、きっと色んな人がいると思うし、別の意味で人生について学べるいい学校よ。そんなところを偏差値が低いなんて言っちゃだめよ。」

杉ちゃんと利用者は相次いでそういったのであるが、彼女が真剣に料理しているのを見て、それ以上のことは、言わないことにした。きっと彼女も、そのうち気がつくはずだ。そして、富岳館高校の学校生活を楽しもうという気になってくれることだろう。それに気がついてくれれば、ご飯だってきっと食べてくれるようになると思う。

「食べてください。水穂さん。ホロホロチョウの卵が入ったおかゆです。」

水穂さんの前に、おかゆのお皿が置かれた。黄色の卵で色付けされた、全粥に近い粥で、とても柔らかくて食べやすそうだった。水穂さんは、仕方ないと思ったのか、それとも食べたくなったのかは不明だが、西村奈美恵さんが渡したお匙を受け取って、おかゆを口にした。

「どうだ。彼女の手料理は、うまいか?」

杉ちゃんがぶっきらぼうにそうきくと、

「はい。」

と水穂さんはその一言だけ言った。

「じゃあそういうことなら、もっと感想を言ってくれよ。作った人にハイだけで済ますのは失礼だぞ。」

杉ちゃんがそう言うと、奈美恵さんは、

「それだけでも十分です。私の話をああして嫌がらずに聞いてくれたのは、水穂さんだけですから、水穂さんに私の料理を食べていただくだけで、私はとても幸せです。」

と、にこやかに笑っていった。

「それなら、お前さんも、早く体調を回復させて、学校で勉強するようになってね。」

杉ちゃんが負け惜しみを忘れずにそういうことを言ったのであるが、彼女は嫌そうな顔もせず、にこやかに笑って、

「わかりました。あたしも、こういう人がいてくれたことを忘れずに、しっかりと自分の人生に着いて考えてみます。」

と答えた。まあそれなら良かったなと杉ちゃんがでかい声で言う。

「なかなか人の考えることって、難しいものね。あたしも、それを、よく知らされた一日になったわ。」

利用者は、大きなため息をついた。

外はまだ寒かったけど、少しずつ、花が咲き始めているようである。もうすぐ、梅の花が咲くだろう。春というのは、なにか楽しいことが起こりそうな季節でもある。それを楽しみに待っているのも冬の楽しみ方なのかもしれない。


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増田朋美 @masubuchi4996

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