悪魔は悲鳴を上げて飛び退き、噴き出す血を片手で押さえつけながら、瞠目する。そして扉を開け姿を見せた人影に、焦りに震えながら大きく息を吸い込んだ。


「キルジット……!」


 激しく咳き込む僕を片腕で支えたキルジット義兄上が、痛ましげに相貌を歪ませる。それになんとか笑みを見せ、僕は片手を上げた。


 キルジット義兄上は今日、本来ならデビュタントに向けての準備で、地方貴族の屋敷へ外泊予定だった。けれど状況が悪くなる予感に、急いで使いを出して引き返してもらったのだ。

 流石のデイルも、義兄上が戻るとは思わなかったのだろう。狼狽えた様子で半歩身を引いた。 


「キルジット義兄上……すみません……」

「呼び戻してくれて感謝する、パーム。……これが私に託された使命なのだな」


 後ろ手に扉を閉め、剣についた血を振り払う。僕を背に隠したキルジット義兄上は、凍えるような瞳でデイルを射抜いた。

 それは悪魔すら恐れ慄く、絶対零度の眼光だった。


 デイルは頭を振り、腰に差していた剣を抜いて、構えながら吐き捨てる。


「っ……テメェが来たところで、悪魔と渡り合えると思ってんのか? 大した自信だなぁ、父親も母親も守れなかった、可哀想なお坊ちゃんのくせによ」

「……、……そうだな。確かに悪魔と渡りあうのは初めてだ」


 安い挑発に乗る素振りも見せず、彼は静かに対峙した。闘志が体の外側に立ち上るように見え、その威圧に悪魔が気圧されて更に後へ下がる。


 キルジット義兄上に魔法石を渡したあの日。僕は彼に、デイルと相対する結末を望んだ。

 この悪魔はいずれ、邪魔な僕を殺しにやってくる。その時、僕が魔法を使えるとは限らない。だから彼に、この悪魔を退ける術を、エラ王女を護る力を、身につけて欲しいと願ったのだ。


 悪魔は舌打ちを重ねると、身体は徐々に形を変え、人ならざる怪物へと変容していく。

 人間と形容するには歪で、鱗の張り付いた体は細長く、けれども腕や脚は太く筋肉質になる。顔の造形も爬虫類のように変化して、丸メガネが音を立てて折れた。

 咆哮を上げる様は、異形と言って差し支えない。動物的な眼光がこちらを見据え、剣を振り上げた。


 キルジット義兄上は、顔色ひとつ変えず、体勢を低く屈めると一気に地面を踏み抜く。閃光は瞬きすら許さず、変形した悪魔の腕を吹き飛ばした。

 大ぶりに振り下ろされた剣など、当たるはずもない。

 大理石の床を蹴って、身を捩りながら壁を駆け上がり、遠心力に任せて剣を振るう。切っ先は悪魔の肩口を裂いて、べったりとした肉が飛び散った。


 デイルが奇声を上げ、背後に延びる尻尾を、義兄上に向けて叩きつける。凄まじい力に床が陥没して石が飛び散るが、彼は涼しい顔をしたまま、片足を軸に飛び去った。そして再び悪魔に狙いを定める。


 人間の限界を超えているのではないかと、そう思うようなスピードで、キルジット義兄上は次々と攻撃を避け、切り付けていく。

 あれで魔法を使用していないというのだから、まったく舌を巻いてしまう。

 あのデイルという悪魔だって、けして弱い部類ではないだろう。しかし見るからに一方的な暴力は、ひとえに彼の努力の賜物とも言えた。


 僕は体勢を直し、扉に寄りかかりながら眉尻を下げる。


 魔法など使えなくとも、彼は強い。

 愛する両親を奪われた彼の、全ての原動力が激しい憎悪にある事を承知している。

 ヒトは憎しみで身を滅ぼすだなんて言うけれど、そんな綺麗な言葉で正せるほど、僕は一連の出来事に寛容になれなかった。


 この悪魔を殺す役割を担うのは、彼でなくてはと、思う。

 実力で頂点に上り詰めた、王立騎士団。この国の第一王子、キルジット・シルダーでなくてはと。


 明らかに劣勢の悪魔が、後ろにひっくり返って片手を突き出した。


「おいおい、兄貴様よぉ! 可愛い弟にそりゃねーんじゃねぇの!? 今までオレと仲よ、ギャァあッ!」


 台詞すら全て伝えることも許さず、キルジット義兄上の剣の切っ先が、うるさく喚く喉をつらぬく。

 パクパクと口を開閉させる悪魔に、彼は双眸を剣呑に細めた。


「私には、妹だけだ」


 剣の切っ先を縦に、肉を切り上へ上へと力を込める。悪魔が濁った悲鳴をあげ、剣を止めようと刃を握りしめるが、意にも介さず剣が脳へ向かって顔面を裂いていく。


「お前が、私の大切な家族を奪った元凶なのだろう」


 助けて、許して、と悪魔が泣きながら許しを乞うた。それでも剣は止まらない。存在を維持する器官の中枢、頭蓋骨で守られた脳が、引き連れた痛みに侵食されているのが見えた。


「私に許しを乞うな。神が許しても、私は地獄の底までお前を殺しにいく」


 僕の場所からは、キルジット義兄上の表情は見えない。けれど、顔色を無くして泣き喚く悪魔の様子から、容易に想像はついた。


「お前に、──っ、お前に、私の家族をこれ以上貶める権利などない! 今までも! この先も永遠にだ!」


 怒りで声が震えた次の瞬間には、剣は悪魔の頭を真っ二つに割り、激しい血飛沫を散らしながら、デイルの姿は消滅する。

 断末魔すら許さない、完全な消滅だった。


 僕は少し楽になった体で、足を引きずりながらキルジット義兄上の元に急ぐ。彼は血溜まりの中、呆然と立ち尽くしていたけれど、すぐに振り返って僕を支えてくれた。


「パーム!」

「……よく、今まで耐えてくれました」


 労いの言葉に、キルジット義兄上は言葉を詰まらせた後、小さく頷く。準備が整うまでは、手を出さないでほしいとお願いしていたのだ。

 彼は強い。いつだって、どんな瞬間だって、あんな悪魔など容易く消滅させられる。けれど、メイデンスを城に閉じ込めるまで、デイルを殺すわけにはいかなかった。我慢を強いられる日々は、酷い苦痛であっただろう。


 僕はキルジット義兄上の頭を撫で、踵を返そうとして、そのまま転倒した。あれ、と疑問に思う前に、冷たい感触が肌を伝って、体が細かく痙攣する。


「っパーム!? しっかりしろ、パーム! パームキン!」


 義兄上の声が、膜がかかった外側で聞こえた。血溜まりへ足を取られただけなのに、どうやらそうではないらしい。まずいかなと思った意識の中で、義兄上に向けて笑おうとしたけれど、そのまま視界は闇に飲まれていった。

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