第三幕
①
鬼か悪魔かと言われたら、多分魔王だと思う。
僕は地面にうつ伏せに倒れ込んだまま、飛びかけた意識の中でそんな事を思った。
「パームキン! へばるのが早ぇよ! まだ15分だぞ!?」
「
ジャネットにダイエット指導を頼み、数日。
真実の愛の為に鍛えてくれと言った僕に、彼は思った以上に紳士的だった。いや、騎士団の特訓はスパルタなので、僕には無理だと判断したのかもしれない。
僕は汗だくの体を仰向けに反転させ、肩で息をする。
今日のメニューは、ランニングメインだ。動きやすい服を新調してもらい、騎士団長にジャネットの休暇申請をお願いし、共に付き添ってもらっている。無理のない速さのランニングは、確かに大した運動量ではないのかもしれないが、普段が杖生活の僕には、あまりに困難極まりなかった。
だいたい、この巨体が揺れて転ぶのだ。まともに走って、十数メートルも進めない。
僕を見下ろすジャネットが、汗ひとつかかずに息を吐いた。
「大丈夫か? そんなんで本当にダイエット出来んのかよ?」
「うっ……、……ぼ、僕はやるんだよ……」
懸命に起き上がって、ヒイヒイ言いながら再び走り出す。脂肪が縦方向に揺れ、バランスが取れずにやっぱり転倒した。受け身もまともに取れず、顔面から地面にキスする僕に、ジャネットは短髪を片手で掻き乱す。
「パームキン、やっぱり足腰の前に、違う運動をするべきじゃねぇか?」
彼の至極最もな疑問に、僕は顔についた土を拭い、首を左右に振った。
恐らくジャネットの指摘通り、先ずは上半身の余計な贅肉を落とすべきかもしれないが、これは放っておいても、どのみち勝手に消費されていくのだ。であれば最優先事項はいざという時の為に、足腰の筋肉である。
ヘトヘトになっている僕を見下ろしていた彼が、ふと、目を瞬かせた。
「そういや、お前がイチコロになったご令嬢ってのは、どこの令嬢なんだ?」
「うん?」
「とぼけんなよ。お前が一人で勝手に飛び出していった時だろ? 視察先で会ったって言うが、どう考えたって不自然だ。俺もそこまで馬鹿じゃねぇ。俺を供に付けずに行ったって事は、いわゆる、お忍びってヤツか?」
「……君、結構……世俗的だよね……」
当たらずも遠からずな推理に、僕は苦笑してタオルで顔を拭った。ムッとした表情になるジャネットに、褒め言葉だと付け足す。
「そうだね……この国で最も尊いご令嬢だよ」
「はぁ?」
心底不可解だと言わんばかりのジャネットに笑って、僕はふらつきながら立ち上がり、ランニングを再開する。息苦しさで目が回りそうだが、必要投資だと思えば、自然と地面を踏み締める足も前を向けた。
暫く、休憩を挟みながら訓練場の一部を行ったり来たりし、僕の体力の限界でお開きになった。
部屋に戻り、城内を回っている使用人に入浴の準備を願い、汗を流した後、疲労で痙攣する足取りで椅子に腰を下ろす。頃合いを見て戻ってきてくれたジャネットが、同じく椅子に腰を落ち着かせた。
「お前の希望通り、足腰を鍛える運動からやって、腕の筋力もつけた方がいいな」
「うん、よろしく頼むよ」
「それから、さっきシェフに頼んできたが、食事も改善しねぇと」
「そうだよねぇ……」
改めて言われると、確かに必要なことだ。
今まで余計な脂肪を蓄える為に、贅沢三昧に味をしめていたが、この先は必要ない。栄養価の高い物が中心になるだろうが、食事も改善し、勝手に燃焼されていく脂肪を筋肉に変えなくては。幸い、国王陛下から賜った食材が多くあるし、城の料理人達はみんな腕がいいので、良い料理を提供してくれるだろう。
真面目に考える僕に、ジャネットの反応がないので視線を向けてみれば、彼の呆けた顔と目が合った。
「……真実の愛ってのは、人を変えるんだな……」
「失礼なんですけど?」
すまんと一応謝るが、どこか感激している彼を、半目で睨みつめる。まぁ、気持ちは分からなくもないが。
トレーニング内容を確認していた彼は、椅子の背に背中を預け、室内を見渡して目を瞬かせた。
「……マウエラとラトリアはどうした?」
いつも僕の側に居てくれる、侍女二人の姿が見当たらない事に気がついたらしい。
僕はといえば、親友に茶菓子も出してなかったと、どっこいせと席を立つ。
「今は任務中……って言ったらいいのかな。デビュタントに向けて、ご令嬢に稽古をつけてもらっているよ」
彼女たちが普段用意してくれているティーセットに近寄り、戸棚から菓子箱を引き寄せる。木製の丸い容器に菓子を並べ、小さなトレーにカップ二つと供に置くと、ゆっくりと席へ戻った。
今は紅茶を淹れられないので、水で我慢してもらうことにしよう。水差しを取りに戻ろうとすれば、ジャネットはポカンと口を開けた顔をした後、慌てて僕を引き留めて席を立った。
「近衛騎士に第三王子手ずから茶菓子を出すヤツがあるか! 侍女が居ないなら居ないって先に言えよ! 俺が用意してやるから!」
「うわぁジャネットが優しい。あ、でも、僕はお菓子食べられないや」
水差しを持ってきてくれた彼は、盛大なため息を吐き出して、カップに水を注いでくれた。
椅子に座り直し、髪を片手で掻き乱して頬杖をつく。
「つーかよ、いつもの魔法で全部済ませりゃいいじゃねーか」
「今は休業閉店中なんだ」
「なんだって?」
「水が美味しい……」
常温に近づいてしまったが、ほっとする心地よさだ。あからさまに話題を切り捨てた僕に、ジャネットは胡乱気な顔をしていたが、再度の溜め息をついて肩を竦める。
「侍女が任務中って言っていたが、この国で一番尊いご令嬢ってのは、デビュタント前に稽古が必要なのか?」
「うん。そういう教育を受けられなかったから」
「……もしかして俺は今、あまり聞いちゃいけねぇ話に首を突っ込んでるか?」
「いや、君には首を突っ込んでもらわないと困るって言うか……僕の近衛騎士として、しっかり役目を果たしてもらわないと」
少しばかり含みを持たせた言い方に、彼の表情筋が強張ってますます凶悪面になる。本当に見た目だけは、騎士団内でも一、二を争う強面だ。
僕は素知らぬ顔で水を飲み干し、早速筋肉痛を訴え始める両足を摩った。
本心としては、ジャネットを巻き込みたいわけではない。しかし彼は、メイデンスの呪いが蔓延る城内で、僕が最も信頼できる人間だ。
もちろん、彼だってメイデンスの魔法にかかっているし、僕は彼に魔法石を渡しているわけではない。本当の意味で味方ではないだろう。
けれど、彼には抜きん出た才能はなくても、第三部隊副隊長としての実力がある。
彼は僕らの切り札。最終局面で必要になる武力なのだ。
僕の様子に何か察したのか、ジャネットは深い追求をやめたらしく、代わりに先ほどの疑問とは違う事を口にした。
「……ドレスはどうすんだ?」
「ドレス?」
「デビュタントに参加する令嬢には、男から贈られたドレスが必要だろ? お前がエスコートしたい令嬢は、そもそもエスコートする男が居なかったようだしな。ドレスは用意してあるのか?」
さすが子爵家の男。僕では気がつかない、貴族の慣わしに敏感だ。そしてさり気なく、僕に話を合わせてくれるところも、やっぱりいい奴だった。
僕は指先で頬を掻き、カップをソーサーに戻す。
恐らく彼女は体型が変わるので、あまり早い段階でドレスを見繕うのはまずいかと思うが、貴族社会的にドレスを贈る時期としては遅いくらいだ。デビュタントはどこの貴族も気合いを入れて参加するし、ドレスもオーダーメイドが主流である。
もうデビュタントまで三ヶ月を切っているのだ。通常ならオーダーメイドは難しい。
「うーん……魔法でどうにかなるし、最悪当日でも……」
「あのな、お前、一目惚れした相手に、魔法でどうにかなるって考えはよくねーんじゃねぇか?」
「え?」
呆れた調子のジャネットに、僕は驚いて顔を上げる。
「確かにお前なら当日に、魔法でドレスも宝石も、なんなら従者や馬車だって用意できるだろうが、女が喜ぶもんってのはそうじゃねーだろ」
意外な意見で、けれども至極当然な言葉だった。僕は目から鱗で、暫し、返答が出来ずに声を詰まらせる。
僕たちにとって、デビュタントは決戦当日だ。エラ王女が成人を迎え、いよいよ呪いを返す舞台が整えられる。教会内で根回しは進んでいるし、キルジット義兄上にも動いてもらっていた。
あとは僕が順調に呪いの解除に勤しめば。そんな事ばかり脳内を巡っていた。
けれども、ジャネットの言う通りだ。
15歳で参加するデビュタントは、貴族社会に認められた成人の儀式であって、庶民から見ても憧れの舞台であって、そして同時に、──エラ王女の誕生日でもある。
こんなだから僕は師匠に、人間としては半人前だ、なんて言われるのだろうな、と自嘲が溢れた。
「……そうだね、ありがとうジャネット。さすが既婚者は違うなぁ」
「俺の事はいいんだよ」
いつも僕の用件に付き添ってもらっているので忘れていたが、彼は超絶可愛い幼馴染みのハートを射止めた既婚者だった。だから女心にも心得があるのだろう。後で奥方にもお礼のケーキを贈呈しなくては。
僕は再度礼を言って、少しばかり軽くなった気持ちで口端を緩ませる。
師匠譲りの輝く笑顔で喜んでくれれば良いと、そう祈るのだ。
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