執務室に側近しかいない事を良い事に、思い切り溜め息を吐き出した。眼下のデスク上には、お粗末な稟議書が並び、片手で目を覆い椅子の背にもたれかかる。


「……大丈夫ですか、キルジット殿下」


 同じく厳しい表情で書類を眺めていた宰相が、控えめに声をかけた。それに小さく首を振って、再度となるため息をつく。


「大丈夫なものか。皇后陛下の私的な高級品を公費で落とす稟議書など、大丈夫なわけがないだろう」


 とん、と軽い音を立てつつ、指先で書類を叩いた。


 国王が実現を求め、第一王子である自分に提出してきた稟議書は、あまりにもお粗末なものだった。

 王家は、皇后メイデンスの金バッジ授与による祝賀会を、今年のデビュタントと共に執とり行いたい意向がある。その点についてはいい。城下の皇后人気は異質なほど絶大だ、否を唱える人間はいないだろう。


 だが、皇后の私的な高級品を、公費で落とすのは問題だ。


 王家が公費とのたまうのは、国税のことだ。公的な式典や、城下街を含む建造物の修繕。区画整備、学校の補助など、国税の役割は多岐に亘る。だが、それは国民に納得される使い道だから行えるのであって、公私混同して良い金銭ではない。

 あの女は自分を煌びやかに着飾り、金バッジを授与した力ある魔女だと、皆に知らしめたいのだろう。


 実は王家はもともと、私的財産が他国の王族に比べて潤沢ではなく、贅沢品の数も少ない。というより私の両親は、贅沢品など特に興味がなかったらしい。母上は特に飾り気のない人であったし、着飾らなくとも十分に美しい人だった。

 だから今の王室も、それほど贅沢三昧はできない。豪商に毛が生えた程度だ。今の王室はそれに不満もあったが、これほど向こう見ずな提案をする事など、今までなかった。

 流石の側近たちも、どうしたものかと頭を悩ませる。


「経費で落とすのは流石に難しいですが、国王が関与している事業も順調ですし、そちらで浮いた資金を流用しても、問題ないのでは? デイル殿下の管理もありますし。それに……第三王子殿下がいれば、事業も順風に進むでしょう」

「……」


 この国の資産・資金運営は、宰相と第二王子デイルが行っている。デイルのことは信用も信頼もしていないが、宰相の仕事ぶりは正確で細やかだ。国王が隣国と行っている事業の交渉も順調で、宰相の言う通り少し資金繰りを考えてやれば、皇后が買いたいという高級品、他国が高額な関税をかけて輸出している宝石に、手が届かなくもない。


 しかし、だ。


 私は机に散らばる書類を眺め、眉を顰める。

 国王が関与する事業が順風なのは、パームキンがいてこそだ。


 パームキンが入城してから、王家のする何もかもが、うまい具合に好転する。思いつきで発案した事業は大当たりし、斡旋した業者の仲介で他国の珍しい調度品の輸入を独占できたり、挙げ句の果てに魔法石の鉱山を買ったら、世界最大級と謳われるほどの、大きく貴重な魔法石が発掘されたり。

 やることなすこと全てが上手くいって、最初は彼を邪険にしていた国王皇后も、今では『幸運を呼ぶ招き猫』と歓迎しているくらいだ。


 しかし裏を返せば、パームキンが居なくなれば、その風向きが変わるかもしれない、ということになる。

 先の未来はまだ分からない。だから節制を第一に、余計な出費は抑えたい。


 大切な妹が戻った時に、この先も豊かな日々を過ごせるように。


 私は頭痛のする頭を指先で押さえつつ、パームキンが差し入れてくれたクッキーを手に取る。爽やかな柑橘類の皮が練り込まれたそれは、少し柔らかな食感でとても美味しい。様々な悩み事に休息を与えてくれる味だった。

 肩の力が抜けるのも僅か、執務室の向こうが騒がしくなり、私は眉間の皺を深めて顔を向ける。扉が叩かれ、近衛兵が私に許可をとり開けると、笑みを浮かべた皇后が姿を見せた。


「キルジット、ワタクシのお願いは見ていただけて?」

「……ええ、皇后陛下」


 寒色系の落ち着いたドレスを見に纏う、皇后メイデンスに、宰相がソファーを勧める。それに礼を述べて微笑めば、室内の側近たちは皆一様に惚けた顔で、メイデンスに視線を向けた。

 私は表情に出さないが、その異様な光景はいつ見ても不快で、吐き気がする。


 メイデンスは私に目を向けると、そっと憂い混じりに首を傾けて見せた。


「無理なお願いなのは承知ですのよ、キルジット。でも、我が王室は私的に使えるお金が少ないでしょう? それでもワタクシ、どうしても今回だけはワガママを言わせてほしくて」

「……ええ」

「本当に嬉しいのよ、この金色を教会から頂けて。最高の名誉だわ」

「……」


 メイデンスは立ち上がると、私の背後に周り、白い腕を首に絡ませる。鼻腔に漂うのは、不愉快な香水の香りだ。胡乱げな視線で横目に見上げれば、メイデンスは私の耳元に唇を寄せた。


「ワタクシの愛するキルジット。母上のお願いを、叶えてくれるでしょう? ……ねぇ?」


 鳥肌が立ち、目の前が赤く点滅する。首から提げる赤い魔法石が、この女の特殊な魔法を跳ね返すように熱を持った。細い指先が私の腕をなぞり、私は込み上げる胃液を堪えつつ、片手を上げてメイデンスを退ける。

 この女が私に向ける視線が、母子の情ではないことなど分かっている。私とこの女は赤の他人だ。それを教えられたあの時から、自分に向けられる視線の正体など、とっくに分かっていた。

 私は触れられた箇所を掻きむしりたい衝動に駆られつつ、視線を外して書類に戻す。


「ご要望には、可能な限り尽力致します」


 私の返答に満足したのか、メイデンスは満面の笑みで執務室を後にする。

 あの魔女の色香に当てられ、すっかり毒の侵された側近たちは、魔法がかかったように心ここにあらずだ。大体、先ほどの光景になんとも思わないあたり、相当、あの魔女の魔法は厄介だった。


 けれどもう二度と、私はあの魔女に屈するわけにはいかない。


 衣服の上から魔法石を握りしめ、願うに似た仕草で奥歯を噛み締める。

 この石が自分の正気を繋いでくれていた。これがなければ、またあの人形のように無感情、無感動な毎日に逆戻りだ。考えただけでも恐ろしい。もしパームキンの助けがなければ、今頃、あの忌まわしい女の腹に、自らの種子を植え付けていたかもしれない。


「で、殿下、お加減が悪いのでは? 真っ青です」


 焦る宰相に片手をあげ、少し休息すると言い残し、執務室を退出する。

 メイデンスに接触されると、いつもこの調子だ。最悪の未来が脳内に渦巻き、あまりの気持ち悪さに、自分の内蔵を引きずり出したいほどの衝動に駆られる。


 私は壁伝いによろけながら、片手で口を覆い、吐き気を抑えつけた。


 この症状はあの魔女に対抗するための、一種の副作用なのだとパームキンは言っていた。私に巣くうメイデンスの呪いはまだ、完全に解けたわけではない。全ての安心を得るためには最愛の妹、エラの力が必要だ。


 中庭に出て、柔らかな季節を感じさせる風に触れれば、少し気分も落ち着き息を吐く。

 脂汗の浮かんだ額を無造作に拭い、ぼんやりと庭園を眺めていれば、視界の端の方で動く影と、素っ頓狂な声が聞こえ、思わずそちらに顔を向けた。


「ダイエットだぁ!? お前が!?」

「そうだよ、ジャネット。僕は痩せて鍛えた体を見せたいんだ」


 慣れ親しんだ声に安心し、しかし不穏な単語に気が急いで、私は早足で二人のいる東家に近寄った。


「どうしたんだ?」


 姿を見せた私に、トゥーベルが自然な動作で立ち上がり頭を下げる。しかしすぐに切り替わり、木椅子にゆったりと座るパームキンを指差した。


「聞いてください、キルジット殿下! こいつの口からダイエットって!」

「ダイエット?」


 何をどうしてそんな話になっているのか分からず、探る目をパームキンに向ける。


 確か彼は昨日、妹に会ってきてくれたはずだ。メイデンスの呪いに打ち勝つために、エラがデビュタントに参加するよう説得すると言っていた。恐らく、私たちシルダー王家の話もしてきただろう。

 しかしそれが、どうダイエットという単語に結びつくのだろうか。


 私の困惑を受けてか、パームキンは目尻を下げ微笑んだ後、両手を握りしめた。


「義兄上! 僕は真実の愛に目覚めたのです!」

「真実の愛」

「そうです。昨日、買い付けに行った先で、とても親切なご令嬢と出会いまして。彼女の微笑む様の可憐な事と言ったら……! 僕はあの瞬間、恋という物を学んだ気がしました。彼女の話を聞いたら、なんと、今年のデビュタントに参加するご令嬢だというのです。しかし彼女はその境遇から、同伴者を務める男性がいないとのこと。なので僕は決心しました。ダイエットをしてカッコイイ男になり、彼女の輝く笑顔をエスコートし、デビュタントに連れて行くんです……!」


 芝居がかるパームキンに、トゥーベルはもはや引いている。しかし私は彼の言葉から、エラがデビュタントに行く決心がついた事を察した。今、パームキンの周りに侍女二人が居ない事も、その証拠だろう。そしてエラを城に連れてくるには、魔女の呪いを食い止め、解除を進める必要がある。

 ダイエットというのはつまり、──母上と同じく、命を削るということだ。


「……っパーム」

「その為にジャネット、君に協力してほしいんだ。君は脳筋だけど、騎士団のトレーニング方法は頭に叩き込んであるだろう? それで僕を鍛えてくれ」


 私の言葉を遮ったパームキンが、視線をトゥーベルに移して、そう願う。トゥーベルは心底怪訝な顔をしていたが、熱意が伝わったのか、よし、と片手で膝を打った。


「お前にそこまで熱意があるなら、親友としてやってやろうじゃねーか。根を上げるなよ? 根菜王子様よぉ」

「ひっどいな、ジャネットの不敬加減が加速してるんだけど?」


 二人で楽しげに笑い合っているが、トゥーベルは諸事情を知らないからだ。

 彼は未だ、メイデンスの魔法にかかったまま。彼にとったらパームキンの言葉など、本当に言葉通りの意味にしかならない。


 だが、危険だ、駄目だと止める事が、私にはできない。


 呪いに苦しむエラを救えるのは、私ではない。親代わりを務めてくれた司教様でもない。魔法使いが祈りを捧げ拠り所とする、女神マリア・トリジアでもない。

 私の愛する妹を救えるのは、他の誰でもないパームキンだけなのだ。


 押し黙った私に、パームキンが再度微笑んだ。そして私の片腕を軽く叩き、大丈夫、と頷いてみせる。


「ジャネットに鍛えてもらうので、心配には及びません。最後に可憐な少女一人を抱えられるくらい、鍛えてもらいます。……大丈夫ですよ、キルジット義兄上」


 私は知っている。彼が約10年、余計な肉を身につけていた理由を。

 私は知っている。彼が呪いの解除を進めると同時に、身体を鍛えねばならない理由を。


 彼は母上と同じように、エラの痛みや苦しみを、全て肩代わりするのだという事を。


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