④
私の一番古い記憶は、腹回りが膨らんだ母上に、そっと寄り添い心音を聞いた記憶だ。
片耳をマタニティドレスにつけ、息を潜めて聞いていれば、何かが動く音がした気がしたのだ。
「ははうぇ! いまのわかった? けりました!」
「ええ、今、蹴ったわ。きっと早くキットに会いたくているのね」
「ほ、ほんとうですか?」
「もちろんよ。早く会いたくて待ち遠しいのは、この子もキットも同じなのよ? 母上は魔女だから、そういう幸せなことは、すぐ分かっちゃうの」
真っ青な雲一つない空が、窓枠の向こう側にあった。見上げた先にいる母上は、日の光を浴びて輝いて見える。けれどもその顔は少し朧げで、しかし愛ある眼差しで私を見下ろしていた。
部屋の扉を叩く音が聞こえ、執事と近衛兵を伴い誰かが入ってくる。顔は、よく思い出せない。けれど、威厳がありながらも、温かな印象を受けるその人は、私と母上を抱きしめた後、優しく母上の大きな腹を撫でた。
「辛いところはないか、リアリタ」
「もちろんよ、ジョージ。それにキットが守ってくれるもの」
ジョージと呼ばれたその人が、私の父上なのだと、思う。父上は母上の言葉で笑顔になり、私を抱きしめ誉めてくれた。
「偉いぞ、キルジット。いいか、お前が生まれてくる子を守るんだ。お前は兄になるのだからな」
「はい!」
「いい子だ。さすが我が子だな」
暖かくて優しい、柔らかで愛おしい記憶。
美しい母上に、優しい父上。幸せだった。今思い出しても胸の奥に勇気が湧くような、幸せな時間だった。
しかしその記憶も、溢れるほどの幸せの上から、呪いによって黒く塗りつぶされていた。
私の記憶は、何もかも色褪せた、人形のように順応な毎日を消費する中にある。
物心がついた時には、周りの全てに関心が湧かなかった。
王座でふんぞりかえる国王にも、私に性的な関心を寄せる皇后にも、いつ生まれたのかも分からない、弟という名称の第二王子にも。
言われた事に順応し、反発する気力も湧かず、思考回路も機能しない。自分の意思とは無関係に、何も考えられなかった。ただ、父母だと思っている卑しい男と女に付き従い、弟だと誤認しているアレと、仲の良い兄弟を演じていた。
皆が一様に私の将来に期待し、同時に皇后メイデンスの傀儡になることを望んでいた。
今思えば、あまりにも不自然に塗り替えられた記憶で、城内も、城下も、この国も覆われている。
母上である、“導き”の魔女、リアリタ・シルダー女王陛下──この時には既に、メイデンスの呪いで王座を引きずり下ろされていたが──が亡くなった時も、それは変わらなかった。
気高く美しき魔女の存在は、もちろん知っていた。だが、メイデンスが頑なに私に会わせようとしなかった。我が家族が受けた呪いの事を考えると、直接会わせた方が呪いの威力が増すのではないかと思うが、メイデンスはそうしなかった。
私が母上に近寄り、心を取り戻す事を恐れたのだろう。もしくはあまり考えたくないが、私を異性と認識しているあの女は、母上の美しさを妬んだのかもしれない。
だから母上が亡くなって、形ばかりの葬儀に参列した時も、私はリアリタ様が母だという意識がなかった。
隣で私の手を引く国王と皇后が、悲しみの裏で喜んでいた事を知っている。知っていながら、私は何も考えていなかった。その時の私にとってリアリタ様は、ただの魔女であったからだ。
その後すぐ、“導き”の魔女の唯一の弟子、パームキンが王家と養子縁組みを結び、城へやってきた。
彼は国王と母上が取り交わした契約の元、召し上げられた第三王子。第二王子デイルは猛反発し、メイデンスも苦言を呈していたが、厳格な契約の元に取り交わされたものらしく、国王は渋々パームキンを迎え入れた。
「キルジット義兄上、僕の師匠をご存知ですか?」
ある日、私が図書館で本を探している時に、パームキンがやってきた。
私はその時、彼の事は邪険にもしなければ関心もなかったので、手伝うという彼に曖昧な返事をし、そのままぼんやりとしていた。
私はその図書館が好きで、今でも時間を見つけては足を運んでいる。当時は特にその図書館にいると、何か分からないものから解放されたような、安らかな気持ちになれたのだ。
そうして呆けている私に、侍女二人と共に本を探していた彼は、問いかけたのである。
「“導き”の魔女だろう。宮廷魔法士の後ろをついて回っている」
「……そうですね。……実は師匠から、キルジット義兄上の話は聞いていたんです」
「そうか」
「魔法を扱う事は出来なくても、魔法学を一生懸命学んでるって」
パームキンの視線は本棚に向いたままだ。だが、小声で話す彼の声は、ゆっくりと耳に残った。
私に魔法の才能はない。
それでも学問としての魔法は、教育の一環としてだけではなく、強く惹かれる興味があった。
魔法学を学ぶほど、温かな物が自分の中で培われていく感覚がする。当時の私は、成績が良いと国王が褒め、皇后が得意な顔をするから、子供ながらに承認欲求が満たされていると感じていたが、きっとそうではない。
その証拠に、ずっと何かを追いかけている焦燥感が、脳内に付きまとうのだ。
魔法学が、魔法の扱えない私には直接必要のないものであることは、承知していた。
ではなぜ学ぶのか。
なぜ必要としたのか。
その瞬間の私はまだ、胸に渦巻く感情の正体を理解していなかった。
「私が魔法を学ぶのは、自分のためだ」
「……自分の、ですか?」
「そうだ。ひいては国の為になる」
無表情で説明する私に、パームキンは目を丸くした後、小さく吹き出して笑みを見せる。
「国の為に勉強して、ひいては自分の為になる、じゃないんですか?」
「……そうなの、だろうか」
人の気配が遠くに感じる図書館で、パームキンの声だけが、緩やかに空気を振るわせた。私が虚な双眸を向ければ、彼は目尻を下げて暫し無言になった後、懐かしさが滲む声音で呟く。
「……君はジョージに似ているね」
パームキンが息を吸い込み、一度、床を踏み鳴らした。
刹那、それまで微かに聞こえていた雑踏が、一切の音を無くしたのだ。
「……っ」
突然静まり返った辺りに、さすがに動揺して視線を彷徨わせる。この場にいる二人だけが投げ出されたような無音に、鼓動が脈打つ音がいやに大きく聞こえた。恐ろしいという感情以前に、この状況に戸惑った。そして次第に早くなる動悸に、苦しさのあまり片手で胸を押さえつける。
恐怖でパニックになっているとは、明らかに違う。自分の中で何かが蠢き囁くような、耐え難い不快感と息苦しさだった。
パームキンが私の前にかしずき、そっと私の片手をとる。
「突然のご無礼をお許しください、キルジット殿下」
「……お前、は」
「この場所はこの城内で、一番あの魔女の魔法が効きにくい場所のようなんです。きっと無意識に、君はここを選び、魔女の呪いから自分を守ろうとしたんでしょう」
意味の分からない言葉を羅列するパームキンが、安堵が浮かぶ双眸を微かに滲ませた。
「やっとお会いできましたね。師匠から、──君の母君から、我が子を守りたいという願いに導かれて、参上いたしました」
ははうえ。
目の前が砂嵐のようにぶれて、立っていられなくなる。崩れ落ちるように膝をつく私を支え、パームキンが小さな赤い石を差し出した。
「君を守るものだ。肌身離さず持っていてください」
「お前は、なんだ」
「“導き”の魔女の弟子ですよ」
「違う。そう、ではない。違う、……違う、違う、私は、お前はなんだ、私は、っなんだ?」
頭が割れるように痛い。汗が噴き出すほど熱いのに、指先が冷えて冷たくなっていく。過呼吸に歪な音が喉を裂いて、痛みと苦しみが心を蝕んでいく。
恐ろしかった。今目の前にいる彼がではない。耳を塞げと叫ぶ脳が、心を閉ざせと嘲笑う意識が、まるで自分のものではないようで、心の底から恐ろしかった。
呻き這いつくばらんとする私の胸元に、パームキンは赤い石を押しつける。
「引きずられないでください、キルジット殿下。君の意識はここにあるんだ」
押し付けられた箇所から、末端の神経まで、身を焦がすような熱が伝導していく。
何かが押し寄せてくる。何かが視界を黒く塗りつぶしていく。
何かが私の大切な家族を、奪い去っていく。
記憶の奥底で虐げられた幼い私が、悲鳴を上げた。
それは私の口をついて溢れ、絶叫する。
断片的な記憶が一気に、幾重にもなる濁流のように押し寄せた。記憶を司る脳の器官が壊れる恐怖に、混沌とした渦に声が引き攣れる。
目の前で命を奪われた父上。一人で立ち向かい痩せ細る母上。命懸けで生まれてきた小さな……妹のエラ。
衝動で胸を掻きむしろうとする私の両手を押さえつけ、パームキンと私の間で、浮き上がった赤い宝石が輝きを増す。
「気をしっかり持って。大丈夫、エラ王女は無事だ」
在りし日の、敬愛する父上の言葉が蘇る。
── いいか、お前が生まれてくる子を守るんだ。お前は兄になるのだからな。
「……エラ……ッ!」
名を呼んだ瞬間、心が自分の中へ戻ってくる感覚がした。
私は赤い石ごと胸を押さえつけ、その場に蹲ると、汗だくになりながらパームキンを見上げる。彼は静かな双眸で私を見下ろし、優しく私の背中をさすってくれた。
肩を激しく上下させながら、私は気力を振り絞って上体を起こし、そのまま震える足で立ち上がる。
無理矢理蓋をされた記憶に翻弄され、意識が散り散りになりそうだった。けれど、倒れてはならないと必死で繋ぎ止め、目を細める。
パームキンは私の前で膝をつき、捧げるように頭を垂れた。
「…………貴殿は、……」
「どうぞ、パームキンとお呼びください、キルジット殿下。手荒な真似をし申し訳ありません。……ご無事で何よりです」
ゆっくりと顔を上げ、彼は穏やかに笑う。その表情を見ると、胸を渦巻いていた気持ち悪さが、徐々に波を引いていった。そして代わりに込み上げる熱が、視界を滲ませて頬を濡らす。
ひくりと、喉が震えた。
私から見れば彼はまだ年下の子供で、それでも握られた手の平に、記憶の奥で微かに揺れる残像と重なる。
「……よく頑張ったね」
労う言葉に、私は必死に声を殺した。戦慄く唇は涙で濡れて、何度拭っても溢れてくる。衝動に我慢が効かず、嗚咽を零して、再び赤い石を握りしめる。
それは確かな心を満たす、安堵だった。
「私は、っ妹を守らねば、ならなかった」
「……うん」
「それなのに、何も考えず、ただ生きて、ただ、生かされて、っ母上が側にいて下さったのに、私は何もしなかった。あれほど側にいたのに、何もだ……!」
「それは君のせいじゃない。……メイデンスの呪いによるものだ。どうか自分を責めないでください」
彼は混乱する私に、少しずつ状況を教えてくれた。
家族の呪いがどういうものか。私の立場が今、どうなっているか。彼がどのような準備を進めようとしているのか。
そして妹が今も尚、教会で保護されながら呪いと戦っている事を。
「……キルジット殿下。気をしっかり持って。大丈夫、このパームキンがお力になります」
静謐な緑の双眸が、情けない私を見つめていた。
あの魔女の呪いに襲われた幼い私は、我が家族に降りかかった全てを覚えている訳ではない。それが悔しく胸を苛んで、呼吸をすることすら苦しめる。
側にいたのに、何も出来なかった。父上の力になることも、母上を救うことも、自分自身を守るためにも力がなかった。
今のままでは、たった一人の愛する妹すらも。
私は爪が食い込むほど拳を強く握りしめ、震える喉を抑えて顎を引く。
「……私の力になってくれ、パームキン。……私は、どうすればいい」
絞り出す声は懇願に似ていて、パームキンは目尻を緩ませると、しっかりと双眸を交え頷いてくれた。
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