第11話

 翌日になって、マジェスティックホテル1階にある民政局のデスクでリヒャルトは、天井の1点を見つめながら考え込んでいた。

 昨日、シモーヌのアパートを出た彼は通りを行くドイツ兵たちに聞き込みをした。

 複数のドイツ兵からの話によると、シモーヌと謎の女はしばらく売春街を歩いていたが、やがて表通りに出ると路上に止まっていたトラックに乗り込み、何処かへ走り去ったという。

 そこから先の足取りはわからない。だが、シモーヌが深夜の売春街の一角で殺害されたことから、少なくとも再びこの街に戻ってきたことは確かだ。その間に起こったことは、今は考えないでいいだろう。

 おかしいのはシモーヌの留守中に訪れたフランス人の少年の方だ。事件当日に売春街にいたというドイツ兵は沢山居たが、その誰一人としてフランス人少年など見ていないのだ。無論、売春街に繰り出すドイツ兵は殆どが酔っぱらいで浮かれており、女のことしか頭にないだろう。他のどのような人間が通りを歩いているかなど気にする筈もない。

 しかし、だからと言って只の1人も見ていないなどあり得るだろうか。リヒャルトは昨日、夜遅くまで聞き込みを続けた。その人数は100人近い。その全員が揃って、フランス人少年など見ていないと言うのだ。

 アパートの管理人だけが見たというフランス人少年。こうなると、管理人の記憶違いも考えられる。あの髭面男は見た感じ、常時酔っぱらっているようだった。本当はそんな少年は存在しないのではないか。もしくは別の日に訪問していたのでは。パリ警察もフランス人少年については大して気にはしていなかったというし、このことは除外してもいいのでは。

 その一方で謎の女については大勢の目撃者がいる。そして、シモーヌ殺害の直前もこの女が一緒にいた可能性は高い。やはりこの女の正体を突き止めることが先決だとリヒャルトは判断した。

 メッツ中佐のことも気になる。昨日の聞き込みでは、この男は治安部隊の中では女たらしで有名で、今までの赴任地では現地の若い女と片っ端から関係を持ち、その全てに結婚を持ちかけていた。しかし実は既婚者であり、ドイツ本国に妻子がいるというのだ。シモーヌにも結婚の話をしている。もしも彼女がメッツの話を本気にして、彼に結婚を迫ったとしたら、この下衆男はシモーヌの扱いに手を焼いた挙げ句、何かをしでかした可能性はある。

 シモーヌはドイツ人を憎んでいた。その彼女がドイツ軍人との結婚を望むとは考えにくいが、相手が百戦錬磨の女たらしならば、その気持ちが揺らぐこともあり得るかもしれない。

 昨日、アパートの管理人が言っていた。ドイツ軍人ばかりのこの街で殺しが起これば、犯人はドイツ軍人だと。

 メッツ中佐と話をしなければならない。だが、どうやって?

 民政局の一職員に過ぎない自分には、佐官クラスの軍人と口を利く接点も権限もない。やはり再びピガール広場に赴いて、メッツが現れるのを待つしかない。

 しかし、ここで問題が起きた。抱えている文書翻訳の締め切りが今日だったのだ。思えば昨日はシモーヌの件を知ってからは、外出したままで仕事の方は手付かずのままだ。これを今日中に片付けなければ勤務態度が劣悪とシュミット課長に判断されて、最悪の場合他の土地に飛ばされかねない。そうなったらシモーヌ事件の調査ができなくなる。

 おまけに今日渡された文書の量もかなりある。これらの仕事は、絶対に今日中に終わらせらければならない。

 リヒャルトは覚悟を決めて翻訳に取りかかった。午前中に昨日の分を終えると、午後からは本日分の翻訳に集中する。それでも大量の文書に手こずり、全てを終えたのは夜の10時を回っていた。

 リヒャルトは疲労困憊していた。ただでさえ人並みの体力を持たない彼は、これ以上は何もできなかった。

 仕方ない、今日はまっすぐ部屋に帰って休もう。メッツ中佐のことは明日の仕事終わりからだ。

 リヒャルトは疲れた足を引きずりながら、家路に着いた。

 次の日、出勤したリヒャルトは衝撃を受ける。

 メッツ中佐が殺害されたのだ。

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