第9話

 パリ警視庁を出る前にリヒャルトは、シモーヌが寝泊まりしていた宿の住所をベルメール警部に訊ねた。手帳にその住所を書き込んでいるリヒャルトを見て、ベルメールは言う。

「あんた、妙なことを考えてないか?」

「妙なことって?」

 手帳を上着のポケットにしまうリヒャルトに、ベルメールはため息を吐く。

「さっきは怒らせることを言ってすまなかった。俺たちフランス人はドイツ軍には逆らえない。だからあんたみたいな軍人じゃないドイツ人を見て、つい嫌味な口を叩いちまった。この事件の犯人は普通じゃない。下手に探ればあんたの命も危ないかもしれない。大人しくしているんだ。俺も時間が許す限りは調べてみるから」

「ご忠告ありがとう。無茶はしないよ」

 リヒャルトの言葉の裏にある思いを察したベルメールは彼に名刺を渡した。

「俺のデスクの電話番号だ。何かあったら知らせてくれ」

 リヒャルトは頷くとピガール広場を目指した。

 留学が決まった直後、リヒャルトは自分の住みかを見つけるために1度パリを訪れている。しかし、前の戦争が終わってから15年しか経っていない当時、パリ市民のドイツ人に対する印象は悪かった。

 リヒャルトがドイツ人だとわかると、誰もが部屋を貸すことを断った。貸すとしても高額な家賃を要求する者ばかりで、学費を工面するだけで精一杯の貧乏貴族にはとても払えない。

 滞在期間一杯、何十件もの下宿屋を訪ね歩いたが徒労に終わり、明日には故郷に帰らなければならないという夕暮れ時、コンコルド広場の噴水の縁に1人腰かけて落胆しきっていたリヒャルトに声をかけてくれたのがクロベール一家だった。

 その日は偶然店が休みで、家族揃って出掛けていた帰り道に、シモーヌがリヒャルトを見つけた。あまりにも絶望を絵に描いたように肩を落として項垂れている彼を放っておけず、シモーヌが話し掛けてくれた。

 どうしたのと訊ねる少女に、簡単に事情を打ち明けたリヒャルトを、クロベール夫人は憐れんで、家の屋根裏部屋を貸してやったらとクロベール氏に相談した。クロベール氏はリヒャルトに家賃は幾ら払えるかと聞き、彼が支払えるぎりぎりの額を答えると、大学が休みの日に店の手伝いをするなら部屋を貸してやると言った。

 それまで散々多くの人に冷たくあしらわれてきただけに、思いがけず触れた人情にリヒャルトは思わず泣き出してしまった。号泣するリヒャルトと、困惑しつつ握手を交わしたクロベール一家は半ば呆れ顔で彼を抱きしめた。涙でぐしゃぐしゃになったリヒャルトの顔にシモーヌはけらけらと笑い、両親を見上げてこう言った。

「新しい家族ができたね」

 その時の、夕陽を浴びて柔らかく光る蜂蜜色の髪をしたシモーヌを見て、リヒャルトは天使だと思った。

 クロベール夫妻はまだ若く、前の戦争には従軍していなかった。それが幸いしたのだろう、ドイツ人に対する偏見は持っておらず、下宿生活をしている間、一家との関係は極めて良好だった。卒業こそできなかったが、充実した留学生活を送れたのは彼らのおかげである。

 それだけに、こうして再びパリに舞い戻ったリヒャルトはクロベール一家を訪ねることに躊躇していた。

 今の自分がどのような顔をして彼らの店に行けようか。

 軍政部の仕事をする中で嫌と言うほどフランス人たちの心情はわかった。クロベール一家と再会してもお互いに気まずく、居たたまれない気持ちになることは容易に想像できる。だからリヒャルトはかつての下宿先に行くことができなかった。

 しかし、自分がぐずぐずしている間にシモーヌはこのような悲惨な最後を遂げてしまった。もしかしたら、思いきって早めに彼女に会っていれば、その行動に変化をもたらして、こんなことにはならなかったかも知れない。仮定の話をしても意味がないと知りつつも、リヒャルトはそう思わずにはいられなかった。

 彼らには計り知れない恩がある。それを返すことは最早不可能となったが、シモーヌを手にかけた憎むべき犯人を探し当てることはできるかも知れない。リヒャルトはそう考えていた。

 心の中で色々なことを思い出し、考えている内に、リヒャルトはベルメール警部から教えてもらった住所にたどり着いた。

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