第8話
パリ警察に電話したリヒャルトは軍政部の名前を使って被害者の遺体を確認できるように交渉した。その希望はあっさりと通り、その日の内に面会が可能になった。
不安を抱きながらパリ警察に行ったリヒャルトを迎えたのは事件担当者のベルメールという警部だった。
ベルメール警部は40がらみの太った中背の男で、ヘビースモーカーらしく煙草の臭いを身の回りに撒き散らしていた。普段から煙草を吸わないリヒャルトは初対面でこの男を嫌いになった。
警部はリヒャルトを地下の遺体安置所に案内した。階段を降りていく途中で彼が言った。
「あんた、殺しの被害者を見たことはあるか?」
「いや、初めてだ」
「前もって言っておくが、酷い有り様だ。ここで吐くなよ。それから当分の間、飯が食えなくなっても知らんぞ」
2人は遺体安置所の床に立つ。そこにはキャスター付きの鉄製のベッドがあり、ベッドの上には遺体が置かれているが、今は全身に白いシーツが被せられていた。
ベッドに近寄りシーツを捲り上げるベルメールの隣でリヒャルトの心拍数は一気に上がった。その間、心の中で懸命に祈る。
頼む、別人であってくれ。
シーツを取り去った後に現れた顔を見て、リヒャルトは呻いた。
「シモーヌ……」
10年の歳月のせいで多少大人びた顔立ちになっていたが、それはリヒャルトがよく知るシモーヌ・クロベールだった。彼が留学していた頃、シモーヌはまだ小学生だった。当時から可憐な美少女で、近所では評判の看板娘だった。大学の講義を受けて夕方に帰ってくるリヒャルトは、花のような明るい笑顔で彼を迎えてくれるシモーヌを見るだけで、その日の疲れや嫌なことは簡単に吹き飛んでしまったものだ。
静かに両目を閉じて安らかに眠っているように見えるが、胸の中央から下腹部までは深く大きく長く切り裂かれており、しかも同じ切り裂き傷が3本もあった。白く形の良い両の乳房は無傷だが、それだけに内臓まで見える程の深い3本の切り裂き傷は、より無惨だった。
「知り合いか?」
ベルメールの問いに微かに頷く。警部はベッドから少し離れた所に立ち、説明を始めた。
「遺体発見現場はピガール広場近くの裏道。あの辺は売春宿が多く、被害者もそこで寝泊まりしていた。発見時間は一昨日の真夜中0時頃。死因は胸部から下腹部に受けた外傷による出血性ショックだ。おそらくは即死だっただろう。こうして静かな顔をしているが、発見時は両目と口が大きく開かれていた。余程怖い思いをしたんだろう。死後硬直が起こる前に、鋭い悲鳴を聞き付けた第一発見者のドイツ兵士が今の顔に直してくれた。あいつらもたまには良いことをするんだな」
「何故裸なんだ。何か着せてやれ」
「今まで検屍をしていたんだ。埋葬する時は服を着せるよ」
「両親には知らせたのか?」
「両親はもう死んでいる。他に身寄りはいない」
「亡くなった?どうして?」
「確か父親は戦死、母親は病死だったな。花屋だったようだが、娘は跡を継がなかったらしい。もっとも、こんな世の中で花屋なんかやっても生きていけないだろう。食い扶持を得るためにドイツ兵に身体を売るようになった。そういう女は大勢いる」
「……犯人の目星は?」
「今のところさっぱりわからん。目撃者もいない」
「この傷から何かわからないのか?」
「凶器は鋭い刃物だと推測される。現場周囲からは発見できなかった」
「こんなに深く大きく切り裂ける刃物があるのか?しかも3回も」
「一番不可解な点はそれだ。これ程の切り傷は見たことがない。3回切りつけた意味もわからない。1回目で死んでいるのに」
ベルメール警部はここで思い付いたように言った。
「日本のサムライが持っている剣なら何でもよく切れるかもな」
ベルメールは小さく笑った。それを見たリヒャルトは我慢できずに大声を上げた。
「悪い冗談だ!さっきから投げやりな物言いだが、本気で捜査する気があるのか!」
ベルメールはあっさりと答えた。
「ないね」
「何だと!」
激昂して自分に詰め寄ろうとするリヒャルトを両手で制し、ベルメールは悪びれもせずに言う。
「戦争が起こる前から、娼婦が殺される事件は時々あった。ましてや今のパリはドイツ軍に支配されていて治安は最悪だ。殺しなんて毎日のように起きている。その全部を捜査する力なんて今の俺たちにある訳がない。今回もそうだ。俺たちにとっては数ある殺人事件の1つに過ぎない。物理的に無理なんだよ」
今のパリ警察はドイツ軍にほとんどの権限を奪われている。人員も減らされて銃の所持も禁止されている。まともな捜査などできる状態ではない。ベルメールはそう言っているのだ。
「それに、俺たちは今、大きな事件を追っている。プショーという連続殺人犯だ。こいつはフランス人で、しかもパリ警察の監察医であるにも関わらず大勢のパリ市民を殺害している。ヴィシー政府が統治している南部に逃がしてやると言って、被害者から多額の手数料を騙しとり、手続きのためと招いた自分の屋敷で毒を飲ませて殺害し、全財産を奪い取った。その後は言葉にできない残虐な方法で遺体をばらばらにして隠蔽している。被害者は少なくとも50人は超えている。人数が足りなくとも、警棒しか持ってなくとも、こいつだけは絶対に俺たちの手で捕まえてみせる。だから、あんたには悪いが他の事件を捜査する余裕は無いんだ」
ベルメールの黒い瞳には断固たる執念の炎が燃えていた。それを見てとったリヒャルトは警部から1歩下がる。
「……そのプショーという奴が今回の事件に関わっている可能性は?」
「奴じゃないね。手口がまるで違う。それにプショーはパリから逃亡している。それは確かだ」
リヒャルトはベッドの脇に戻り、シモーヌの白い顔を見つめた。
自分がパリを去ってからクロベール家は悲劇に見舞われた。両親を失ったシモーヌは娼婦に身を窶した。そして、こんなことに……。
世話になった人たちが辛い目に遭っていたのに自分は何も知らなかった。何もしてやれなかった。ならば、せめて……。
リヒャルトはシモーヌ殺害の犯人を突き止める決意をした。
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