第7話

 軍政部に引き返してトラックを貸して欲しいと言った時、シュミット課長は何事かと怪訝な表情をしていたが、リヒャルトの蒼白な顔を見てただ事ではないと判断した。どうにかトラックを手配して手の空いてそうな職員に同行してもらい、ベルヴィルに戻るまで3時間程かかった。

 警官たちは仕事をしたようで、野次馬たちは消えていた。

 剥製を見て気味悪がる職員とハンス、リヒャルトの3人がかりでそれをトラックの荷台に積み込む。トラックに職員が乗り、ルノー車にリヒャルトとハンスが乗って逃げるようにベルヴィルを去った。

 再び戻ってきたリヒャルトが持ち帰った獣の剥製を見たシュミットは一瞬驚いたが、それが伝説のジェヴォーダンの獣だとは思わなかった。

「よくある贋作さ。どこかの貴族か金持ちがパーティーで客を驚かすために職人を雇って作らせたんだ。皆さん御覧あれ、これがかの有名なジェヴォーダンの獣です!とね。余興の見せ物だよ。飽きたか邪魔になったから壁の材料として棄てたんだ。大体こんな獣が実在するわけないだろう」

 それを聞いたハンスと職員はああそうかと納得したが、リヒャルトは心の中で否定した。

 ただの酔狂で作った贋作をわざわざあんな壁の中に棄てる必要がどこにある?邪魔になったのなら焼き捨てるなり土の中に埋めてしまえばいい。

 壁の中から獣が出てきた時、その表面には土や泥の付着が一切なかった。それは、あの剥製を無造作に壁へ塗り込んだのではない証拠だ。おそらくは先に木の板等で空間を設けてから剥製を入れて、外壁で蓋をしたのだ。

 ただ棄てるだけのものにそこまで手をかける理由がない。何か大きな事情があったから、あの剥製を徴税請負人の壁の中に隠したのだ。そしてそれは、壁の中にあった代物が贋作などではないことを示している。

 しかし、ここでシュミットに反論しても何の意味もない。リヒャルトは黙っているだけだった。

 急速に興味を失ったシュミットは、発見物の処遇をリヒャルトに任せた。担当者になったリヒャルトは、剥製を取り敢えずセーヌ川沿いにある軍政部専用の倉庫に保管することにした。

 獣の剥製を目撃したパリ市民が、そのことによって今後どのような影響を受けるのかはリヒャルトにもわからない。彼らの抱える不安が一時的に増えただけで、すぐに日常に戻ることを願うのみだ。

 こうしてベルヴィルでの騒動は一段落した。

 翌日のリヒャルトの仕事は相変わらず翻訳業務だった。

 シュミットは余程ハンスを可愛がっているらしく、パーティーや懇親会に彼を連れ回している。賑やかな場所が苦手なリヒャルトにとっては自分がシュミットの同行者ではないことは好都合だった。

 その日は他部署からの依頼でパリ警察からの報告書を翻訳していた。

 リヒャルトが留学していた頃と比べてパリの治安はかなり悪化していた。盗み、恐喝、強盗等は毎日何十件も起こっている。そして反独レジスタンスによる破壊工作も至る所で発生していた。彼らは時々ドイツ軍人の暗殺も行っている。そんなことが書かれた報告書の束を1枚ずつめくる度にリヒャルトの気は暗澹としていくのだった。

 ムーラン・ルージュ前での強盗事件に関する報告書の翻訳を終えて、次の報告書に移る。

 フランス人娼婦の殺人事件についてのものだった。ざっと目を通したリヒャルトは被害者の名前を見た瞬間、心臓が凍りついた。

 シモーヌ・クロベール。

 留学時代に下宿していた花屋の一人娘と同じ名だった。

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