第6話

 野次馬たちの悲鳴はどよめきに変わった。鋼鉄の獣であるティーゲル戦車が破壊した壁の中から、また別の巨大な獣が出現したのだから無理もない。だが、その獣は4本足で屹立したまま全く動こうとしなかった。その状態が数十秒経過して、人々はそれが剥製だと知った。どよめきは安堵のため息に変わった。

 獣が剥製であることはわかった。だが、それでも疑問は残る。あれは一体なんの動物だ?

 初見ではそれは熊のようだった。それくらいの大きさだからだ。だが、その体は赤黒い毛で覆われている。ヒグマにしても赤すぎた。そしてその四肢は熊よりもかなり細く、鼻面と尻尾は明らかに長かった。上半身の方が下半身よりもやや大きく、逆三角形の体型だ。全体像は敢えて言うなら狼に似てなくもない。しかし、狼にしてはあまりにも大きすぎる。一体これは何だ?

「何だよこれ……!何でこんなものが出てくるんだ?」

 ハンスが驚愕の声を上げる。それはその場に居る全員を代弁していた。

 リヒャルトの頭はフル回転していた。徴税請負人の壁の中に入っていたのなら、壁が造られるよりも前にあの正体不明の獣は既に剥製にされていた筈だ。あの時代に起こった出来事で、この剥製に関係していそうなものは……。

「ジェヴォーダンの獣……」

 リヒャルトの口から小さく漏れ出た言葉をハンスが聞き返した。

「ジェヴォーダンの……何です?」

 リヒャルトはハンスを見た。彼がパリに住んでいたのは子供の頃だというので、知らないのも当然だ。リヒャルトは説明した。

「ジェヴォーダンの獣だ。1760年代、ジェヴォーダン地方の山地で正体不明の巨大な獣が出現して、住人を襲う事件が続発した。そばに家畜が居るにも関わらず、人間を狙って襲撃しているので人喰いの猛獣であるとされた。鉄砲を持った住人たちが何度も山狩りを行ったが、発見した獣に銃を撃っても死ぬことはなく逃げられた。王国は始め無関心だった。事件が起こっているのはパリから遠く離れた辺境で、被害者も平民ばかりだったからだ。しかし被害が拡大する中で、獣の噂は周辺諸国にも拡がり、王国の威信にも関わる程になった。国王ルイ15世はようやく軍隊を出動させた。大規模な討伐が行われた結果、狩猟の名人フランソワ・アントワーヌが獣を仕留めた。獣は剥製にされてパリに送られることになったが、その後も獣は出現して殺戮を繰り返した。この獣は地元の猟師ジャン・シャステルが射殺して、以後は獣の襲撃は起こらなかった。これによりジェヴォーダンの獣事件は終結したが、それまでに殺害された被害者は100人以上に及んだという」

「うげえ、そんなことがあったなんて……」

「パリに送られた獣の剥製が、その後どうなったかは誰も知らない。フランス革命による混乱で消失してしまった。だが、理由はわからないが、こうして徴税請負人の壁に埋め込まれて隠されていたんだ。おそらく王家が……」

 しまった!

 ここまで一気に話を続けたリヒャルトは、遅まきながら自分の犯した痛恨のミスに気が付いた。

 事情を知らないハンスに説明していたつもりだったが、無意識にフランス語を使っていたのだ。

 いつからだ?徴税請負人の壁が発見された時からか?破壊された家屋の主人である老人とハンスの2人と喋るためにフランス語を用い、それ以降はドイツ語に切り替えていない。

 リヒャルトは弾かれたように背後を振り返る。そこには暗い表情で剥製を見つめる野次馬たちがいた。

 全て聞かれてしまった!

 リヒャルトの背筋に冷や汗が流れる。

 フランス人ならば、ジェヴォーダンの獣のことは誰でも知っている。彼らにとっては不吉や災厄の象徴とも言える、その獣が約200年の時を経て再び現れたのだ。彼らが受ける衝撃は計り知れない。4年に渡るドイツによる占領で、パリ市民の胸の内には不安と不満が溜まりに溜まっている。そんな彼らをこれ以上動揺させるのは絶対にまずい。

 獣だってよ……。

 ジェヴォーダンの獣……。

 あれがジェヴォーダンの獣……。

 野次馬たちの間で、そんな言葉がさざ波のように拡がっていく。

 リヒャルトは大声で懸命に呼び掛けた。

「なんの根拠もない想像です!あくまでも私の個人的な想像です!」

 だが、彼の弁明は誰の耳にも入ってはいなかった。

 リヒャルトは辺りを見渡した。戦車が去ったので、ここでの任務は終わったと判断したのだろう。いつの間にか治安部隊は引き揚げていた。

 野次馬たちと同じような面持ちで剥製を見ている警官たちに駆け寄り、リヒャルトは叫んだ。

「今すぐに野次馬を解散させろ!ここに誰も近づけるな!これは軍政部としての命令だ!従わない者は厳罰に処す!」

 これを聞いて警官たちは慌てて野次馬たちを追いたてていった。いつになく激しいリヒャルトの言葉に驚いた様子のハンスに向かって言う。

「この剥製を至急回収しなければならない。乗ってきた車では小さすぎるからトラックを持ってくる。それまでここを頼む。剥製に誰も近寄らせるな!」

 それだけを伝えてリヒャルトはルノーに飛び乗ると、全速力で来た道を戻っていった。

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