第5話
その壁は両脇に立つ家屋よりも若干低い位で、良く見るとそれらの建物の裏側にも続いている。つまり老人の家屋が潰れる前は、街並みに隠されて外の通りからは見えないようになっていた。ティーゲル戦車は老人の家屋を突き破ってこの壁に衝突したらしい。壁の中腹には大きなへこみがあり、そこから放射状に数本のヒビが壁全体に走っている。
リヒャルトは傍らの老人に訊ねた。
「あの壁は何ですか?随分古いものみたいですが」
老人は唖然とした様子で首を横に振る。
「わからない。あんな壁が立っていたなんて。俺は20年前にあの家を買っただけで、先祖代々住んでいた訳じゃないからな。前の持ち主も何も言ってなかった。この辺りは100年以上前からずっと今のままで、その間に何回も住人が入れ替わっていたから、多分誰も知らないだろう……」
「まさか、古代ローマの遺跡じゃ?」
ハンスの言葉をリヒャルトは否定する。
「古代ローマ時代の遺跡はシテ島の周辺にあるだけだ。ここは遠すぎるし、そこまで古い壁じゃない。精々数百年前くらいだ」
「じゃあ何だ?」
今度は老人がリヒャルトに問いかけた。
しばらく考えた後、彼には思い当たるものがあった。
「……徴税請負人の壁だ」
「徴税請負人の壁?」
ハンスと老人が同時におうむ返しをする。
「18世紀末に、当時のパリ市内に入る物品に税金をかけるためにパリ市全体を囲んで造られた壁だ。壁の周りには幾つかの門があって、どんな者もこの門を通らなければパリに入れない。門の前には徴税請負人が居て、入ってくる者の荷物が課税対象ならその場で税金を取る仕組みだ」
「へえ、そんな壁があったんだ」
ハンスが壁を見上げて小さいため息を吐いた。
「確かに、この高さをよじ登るのは無理だなぁ」
「徴税請負人の壁の外側では税金を取られることはないから、そこでは安いワインや食べ物を売る闇市が自然発生した。多くのパリ市民はわざわざ壁の外側にやって来て、飲み食いをしていた。ベルヴィルはそうやって生まれた街だ。ところが、壁が完成してからわずか数年後にフランス革命が勃発した。この壁は当時のブルボン王朝による、民衆弾圧の象徴みたいなものだったから、圧政に怒り狂っていたパリ市民は、この壁を破壊してしまった。全て無くなったと思っていたが、1部の壁は生き残っていたんだ。革命後のパリには更に人が集まり、この辺にも住人が増えていった。壁に沿う形で多くの家屋が建設されて街ができて、いつの間にか壁のことは忘れ去られてしまった」
老人が感心したようにリヒャルトに言う。
「あんた、ドイツ人なのに詳しいな。学者かい?」
リヒャルトは慌てて顔を横に振る。
「俺は大学中退ですよ。専攻も歴史じゃない。学生だった時に興味本位でパリの歴史書を多少読んだだけで……」
リヒャルトの大学時代の専攻は経済学だった。傾いた家の財力を少しでも盛り返すために役に立つだろうと思っての選択だったが、肝心の彼自身に商才がなかったので、エルンバイスト家は未だに貧乏貴族のままだ。
「とにかく、この壁は貴重な歴史遺産だ。シュミット課長に報告して、軍政部として保護してもらうように提案しよう」
しかし、リヒャルトの言葉にハンスが水を差した。
「でもあの壁、今にも倒れそうですよ」
戦車の衝突でできたヒビは止まることなく広がっていき、今や無数のヒビが壁全体に伸びていた。それに加えて事故で受けた衝撃が壁そのもののバランスを崩したらしく、微かに前後へ揺れている。揺れに合わせてヒビは深い亀裂に成長して、そこから細かい砂れきが滝のように流れ落ちていく。リヒャルトたちが遠巻きに見守るなかで、徴税請負人の壁はとうとう地面から崩壊してしまった。
轟音と土煙が辺りを覆う。野次馬たちが悲鳴を上げる。その煙はしばらくの間続いた。
やがて土煙が晴れると、それまで壁が立っていた場所に思ってもみなかった物が現れた。
それは巨大な獣の姿をしていた。
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