第4話

 小高い丘の上にあるベルヴィルには古い木造の家屋が立ち並び、そこにはパリの労働者たちやヨーロッパ中から流れてきた難民などが集まっている。戦争が始まる直前まで、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人たちもこの地域に住み着いていた。

 今、彼らはどこにもいない。ドイツ軍がパリを占領してから1年間で市内のユダヤ人たちは徹底的に狩り出され、列車に乗せられて東欧にある強制収容所に送られていった。それを実行したのはドイツ軍と、ゲシュタポと、パリ警察だ。

 リヒャルトはルノー車を徐行させて事故現場を探した。前方に数台のキューベルワーゲンとパリ警察のパトカーが停まっており、その向こうに人だかりが見える。どうやらあそこらしい。パトカーの後ろにルノー車を停車させて降りると、ハンスと並んで人だかりに近づいた。

 他の民家と同じような黒い木造2階建ての建物に、巨大な迷彩色の鉄の塊が頭から深々と突っ込んでいた。ドイツ陸軍の主力戦車、ティーゲルⅠ型だ。砲身を後ろに向けて、そのエンジンは止まっている。

 パリ警察は戦車と野次馬たちの間に立ち、彼らを近寄らせないようにしている。治安部隊はティーゲルの周りで戦車に向けて大声で語りかけていた。

「民政局の通訳です。何かお困りですか?」

 リヒャルトは治安部隊の隊長とおぼしき中年の少尉に声をかけた。

「壊れた建物の中に人が居る。外に出てくるように言ってくれ。戦車が発車したら建物が潰れて下敷きになる。俺たちが何を言っても伝わらないんだ」

 リヒャルトは建物の中へ、少尉の言葉をそのままフランス語で語りかけた。しわがれた老人の声が応えた。

「倒れた柱に脚が挟まって動けない。さっきからそう言ってるのに誰も助けてくれない」

 リヒャルトは老人の言葉を少尉に通訳した。

「そうだったのか。それはパリ警察にやらせる。あいつら、分かっているのに動かないんだ」

 リヒャルトは警察官の1人に言った。

「建物の中の老人が助けて欲しいそうです」

 すると警察官が苛立たしげに答えた。

「知ってるよ!だけどドイツ兵が戦車に近寄らせてくれないんだ。爺さんを助けるためには必要なことだが、何を言っても通してくれないんだ」

 リヒャルトはため息を吐いた。こんな些細な行き違いで何も事態が進まない。お互いに相手の言葉を少しでも学べばいいのに。結局リヒャルトが治安部隊とパリ警察の間に立ち、老人の救助はどうにか成功した。幸いにも大きな怪我はなく、建物に他の人はいない。

 少尉が戦車に向かって大声で言った。

「おい、もう戦車を出して良いぞ!」

 ティーゲルの砲塔上部にあるハッチが上に開いて戦車兵が顔を出した。

「さっきから何を言っているんだ?」

 その顔は真っ赤に染まり、明らかに酒に酔っていた。そして明らかに20歳にもならない少年だった。ハンスとそれ程変わらない歳だろう。

 こんな子供が重戦車のティーゲルを動かしているのか。

 リヒャルトは心底驚いた。ドイツの人手不足は彼が思っていたよりも遥かに深刻だった。

 少尉は怒りを滲ませて再び叫ぶ。

「とっとそこからケツを退けろと言ったんだ!」

 少年戦車兵はようやく頷くと、戦車下部に何かを命令した。直後、ティーゲルのガソリンエンジンが大きく唸りを上げる。黒い煙を上げて57トンの巨体が微速後退を始めた。ティーゲルの動きに合わせて壊れた古い建物は徐々に内側に崩れ落ち、戦車が完全に抜け出ると同時にこれも完全に潰れてしまった。

「下がれ!下がれ!」

 少尉は警察と野次馬たちに向かって叫んだ。

 即座にリヒャルトがフランス語に直して伝える。ハンスも彼に倣った。100人はいるだろう野次馬たちは慌てて後ずさる。

 ティーゲルは10メートル程後退すると前進を始め、石畳の道を移動していく。その車体は全くの無傷だ。少年戦車兵はハッチから上半身を出して、軍帽を右手に持つと小さく振った。感謝の意らしい。あの少年はこれから上官にこってりと絞られるだろうな。戦車を見送りながら右手を振り返すリヒャルトはそう思いながら、彼がこれ以上事故を起こさないことを祈った。

 いつの間にか救助された老人がリヒャルトの脇に立っていた。彼はリヒャルトに言う。

「壊れた家は軍政部が弁償してくれるんだろうな?」

 どうだろうか。多分無理じゃないかな。リヒャルトは思ったが、取り敢えずパリ警察に相談してくれと伝えた。

 その時、ハンスの声が聞こえた。

「リヒャルトさん、あれ」

 ハンスは倒壊した建物の方を指差している。そちらに目を向けたリヒャルトは息を飲んだ。

 黄土色をした中世のものと思われる古い壁が瓦礫の奥に立っていた。

 明らかに、それまでにあった木造の建物の1部ではなかった。

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