第3話
パリ軍政部民政局の職員は軍人ではなく、元々ドイツ国内の各省庁に勤めていた官僚や役人である。彼らは軍属の身分を与えられているが本質的には民間人だ。その民間人で、尚且つフランス暮らしをしていたシュミットまでがフランス人を見下している。リヒャルトは遣りきれない気持ちだった。
自分が南部の田舎町で世間の流れに背を向けるような生活をしている間に、ナチスの選民思想はドイツの隅々にまで行き渡り、完全に浸透していたのだ。
リヒャルトは自分が反ナチスだとは思ってはいない。ただ疑問なのだ。本当にアーリア人が世界最優秀民族ならば、何故自分のような者が存在しているのか。その疑問が解消されない内は、心の底からジークハイルを叫ぶことはできない。当然彼は、この気持ちを他人に打ち明けたことは1度もない。
ハンスが通訳業務に加わってからは随分と楽になった。今のリヒャルトの仕事は翻訳業務の方が多くなっている。
軍政部が発令する命令書やフランス人との会議に使用する資料などをフランス語に変換し、フランス人が提出する様々な文書や、軍及び他の部署が翻訳を依頼したフランスで発行している新聞、雑誌などをドイツ語に変換するのだ。幸いタイプライターがあるので、ある程度は楽な仕事だ。
そのようにしてパリに来て2週間が過ぎた頃、昼食後にシュミット課長がリヒャルトを呼びつけた。
「20区のベルヴィルで酔っ払った戦車兵が操縦する戦車が事故を起こした。行ってくれ」
「事故はパリ警察の管轄でしょう?」
「確かにそうだが、軍部が起こした事故だから現場には治安部隊が行っている。パリ警察や住人との意志疎通が必要だから依頼があった」
「わかりました。その代わり自動車を貸してください」
パリの東端にある20区のベルヴィルはマジェスティックホテルのある8区からは一番遠い。急ぎの用件ならリヒャルトの要求は当然だ。シュミットもそれは理解していた。
「もちろんだ。鍵を渡す。念のためにハンスも連れて行ってくれ」
シュミットは自分のデスクの抽斗を開けて車の鍵をリヒャルトに手渡した。
ハンスを伴ってルノー製の自動車に乗り込んだリヒャルトはベルヴィルに向かった。
「ベルヴィルかあ。あまり良い所じゃないですよね」
助手席のハンスがドアのウインドウを開けてそこから街並みを眺めながら気の進まない様子で呟いた。
「昔から下層民が住んでいた地区で、今もあちこちから来た難民が住み着いている。行ったことはないのか?」
「僕がパリに居たのは本当に子供の頃で、両親からはベルヴィルには絶対に行くなと言われていましたから」
「俺は学生だったから友達と良く行っていたよ。いかがわしいが安い飲み屋が一杯あった。皆、カネなんてなかったから、そういう店で夜通し飲み明かしたな」
リヒャルトはパリに留学中は自分が貴族出身であることを隠していた。平民の多いパリの大学で貴族だと知られると仲良くしてもらえないと思ったからだ。彼の予想通りパリっ子の学生たちは時代遅れの貴族を嫌っていたし、身分を伏せたリヒャルトには仲の良い友人が何人かできた。
それにしても、こうしてパリで初めて車を運転したが、行き交う自動車は本当に少ない。軍政部がパリ市民に自動車の所有を禁止したからだ。走っているのは殆どがドイツの軍用車と、物資を輸送しているトラックで、普通の自動車に乗っているのはリヒャルトのようなドイツ人か、特別に許可を得たドイツに協力的な1部のフランス人だけだ。戦前のパリの賑わいを知っているリヒャルトは寂しさを感じた。
しばらく車を走らせて、リヒャルトとハンスはベルヴィルに到着した。
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