第2話
リヒャルトの予想通りハンスの勤務初日はそれ程忙しくはならなかった。ただし役所勤めの経験があるリヒャルトは別だ。仕事内容の簡単な説明を受けただけで早くも実務をすることになった。
他の職員から研修を受けているハンスを総務課に置いて、リヒャルトは軍政部とパリ代表の会議、打ち合わせ、商談などの通訳をするためにマジェスティックホテル内の部屋から部屋へと移動した。そういった仕事は初日以降も続き、他のホテルや会館を使っての折衝やパーティーへも参加して通訳をおこなった。そして数日が過ぎた頃、彼はこの仕事がすっかり嫌になっていた。
殆どのドイツ側の軍人はフランス語が喋れなかった。海軍ならともかく陸軍の軍人は一言も喋れない。そしてパリに駐留しているのはほぼ全てが陸軍だ。
彼らはフランス人を未だに仇敵と思っているらしく、敗戦国の言葉など喋れるか、お前らがドイツ語を話せといった態度でいる。
それを肌で感じているパリ代表のフランス人は多少のドイツ語を用いるが、やはり片言レベルで重要な会議では使い物にならない。
双方の齟齬を無くすために、リヒャルトは1つの会議が終わるまで通訳として喋りっぱなしだった。そのような会議が一日に数回、そして何日間も続けば舌の根もとが痛くなり、喉も枯れる。だが彼が本当に嫌なことは、肉体的な苦痛などではない。
それはドイツ人とフランス人の関係性だ。
ドイツ軍人は勝者、征服者の立場を隠そうともせずに尊大な態度でフランス人に命令してくる。一方のフランス人は謝罪の言葉と言い訳を並べ立てて、とにかく相手の機嫌を損ねないことに懸命になっている。
これが自由と自立を何よりも愛し、常に自信に溢れていたフランス人、パリ市民だろうか。
揉み手をしながら作り笑いを浮かべて媚びを売り、ドイツ軍人が去っていく後ろ姿を恨めしそうに見送る彼らにはかつての姿は微塵も垣間見得ない。こんな卑屈なパリ市民を、リヒャルトは見たくはなかった。
戦争に敗けるとはなんと残酷なことだろう。そして彼らをそんな風にしてしまったのはドイツであり、そこには自分も含まれている。
肩を落として項垂れて帰っていくフランス人たちを見送りながら、リヒャルトは後ろめたさを覚えた。
通訳業務で忙しい合間に総務課の自分のデスクで短い休憩を取っていたリヒャルトに、2人の人間が近づいてきた。上司のシュミットとハンスだ。シュミットはリヒャルトより10歳以上年上で総務課の課長だ。彼は満面の笑顔でリヒャルトに話しかけた。
「ご苦労だったねエルンバイスト君。今までハンスに、業務に必要な予備知識を教えていたために君一人に仕事が集中してしまった。だが、もう大丈夫だ。これからは私とハンス、他の職員も加わる。取り敢えず今日は文書翻訳の仕事をやってくれ」
椅子から立ち上がり、それを聞いたリヒャルトは安堵のため息を吐いた。
「良かった。実のところ、こちらから話をしようと思っていたんです」
「すまなかった。この数日間で君もわかったと思うが、フランス語を話せるドイツ人は実に少ない。だから我々みたいな者は忙しい。それにハンスとは久しぶりに会ったので、仕事以外にも色々と積もる話をしてね。そのせいで研修が長引いてしまった」
「ハンスと知り合いだったんですか?」
シュミットは先程からハンスの肩に手を置いている。確かに親しげに見えた。その問いにハンスが答える。
「シュミットさんは父の昔の仕事仲間なんです。戦争前にパリで一緒に商社をやっていて、その頃に僕も顔を覚えてもらって」
「あの小さかったハンスと共に仕事をするなんて、思ってもみなかったよ。ああハンス、次の会議の準備をしてくれ。私も後から行く」
ハンスが去っていった後、シュミットはリヒャルトに向き直った。
「エルンバイスト君、顔色が良くないね。仕事疲れだけじゃなさそうだ。何かあったのか?」
「いや、別に……」
シュミットは一瞬床を見てから再びリヒャルトに顔を向けた。先程までの笑みは消えていた。
「エルンバイスト君、君は確かに貴族だが、今は私の部下だ。上司として忠告する。フランス人に同情するな。無駄なことだ。自分が傷つくだけだぞ。世の中は変わったんだ。我々アーリア人は彼らよりも上の存在なんだ」
リヒャルトはその時に、シュミットの左胸にナチスの党員バッジが光っていることに気がついた。
ああ、この人もそうなのか……。
リヒャルトは何も言わずに無言で頷くことしかできなかった。それを見たシュミットも小さく頷くと、足早に去っていった。
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