1944パリの獣

@me262

第1話

 ジェヴォーダンの獣:

 18世紀のフランス、ジェヴォーダン地方に出現した未知の獣。地域住人を繰り返し襲撃し、死者は100人以上に及ぶ。最終的に退治されたが、その正体は今なお謎に包まれている。


 1939年ナチスドイツはポーランドへ侵攻、これに対してイギリス、フランスが宣戦布告して欧州大戦は勃発した。翌1940年6月、ドイツは戦車と航空機を連携させた電撃戦を以てフランスに勝利する。以降フランスはドイツの占領地となった。首都パリにはドイツ軍政部が置かれ、ここを拠点に多数のドイツ軍人が駐留し、フランス全土を支配した。


 1944年5月初旬。カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝の光を受けてリヒャルト・フォン・エルンバイストは目を覚ました。昨日パリに到着して、今日から新しい職場に初出勤だ。ベッドから起きると軽い朝食と歯磨きを済ませ、手早く外出着に身を包んでアパートの扉を開けた。

 麗らかな太陽とマロニエの香りが漂う空気の中、リヒャルトは軍政部民政局が置かれるクレベール大通りのマジェスティックホテルへ向かう。その胸には沸き立つような郷愁の思いがあった。

 リヒャルトにとっては学生時代を過ごしてから約10年振りのパリだった。1933年、ナチス政権が誕生すると以前からナチ党を嫌っていた下級貴族の父親は党幹部が18歳の一人息子と接触するのを防ぐために、彼をドイツから離れたフランス、パリの大学に留学させた。ドイツ南部の貧乏貴族の身では経済的に苦しいが、それでも土地や家財の幾つかを処分してリヒャルトを自由の都へと送り出した。

 リヒャルトはそのことに感謝している。ドイツの片田舎では決して得られなかった経験をすることができたのだから。美しく華やかなパリの都での軽やかな生活、自由闊達な雰囲気漂う大学の講義、そこで生まれた多くの学友たちとの友情と想い人への淡い恋心。パリはリヒャルトにとって青春の象徴だった。

 残念ながら留学して3年後に父親が急死してしまったので、家督を継ぐためにやむ無く帰国したが、今そのパリに帰ってきた。彼は正直自分の幸運に感謝した。

 戦争が長引く中で徴兵者が増えていき、地元で細々と役所勤めをしていた自分もいよいよ戦場行きかと覚悟していたが、国は占領地フランスの、しかもパリでの役人勤務を命じてきたのだから。恐らくはパリ留学の経験があり、フランス語も堪能であることが評価されたのだろう。

 ここも敵の爆撃はあるが、ドイツ国内の主要都市や、増して東部戦線に比べれば遥かに安全だ。春の陽気も手伝って、石畳の歩道を行くリヒャルトの足取りは軽かった。そこへ背後から声をかけられた。

「おはようございます、エルンバイストさん」

 振り返ると赤みがかった茶色い髪をした小柄な少年がいた。同僚のハンス・フォーゲルだ。ハンスはリヒャルトと同じ日に、同じ列車でパリにやって来た。まだ17歳だが、リヒャルト同様かつてパリ暮らしをしておりフランス語も話せる。

「初出勤が晴れの日で良かったですね。この季節のパリは雨が降るとまだ寒いし」

 リヒャルトはハンスに笑みを浮かべて答えた。

「リヒャルトで良いよ。俺もハンスと呼ぶ。おはようハンス。まったくだ。いい天気だ」

「僕ら、これから何をするんでしょうか?」

「俺たちは民政局の総務課だ。要するに雑用さ。2人ともフランス語が使えるから多分通訳とか、文書の翻訳とかだよ」

「力仕事じゃなければ良いなあ」

「同感だね。どう見ても俺たちは向かない」

 リヒャルトは身長こそ180センチに達するが、痩身で筋肉はまるでない。子供の頃から虚弱で風邪ばかり引いていた。おまけに近眼で銀縁の丸眼鏡をかけている。ナチスが喧伝している最優秀民族であるアーリア人のイメージとは程遠く、合致点は金髪碧眼であることだけだ。

 家督を継いだ年に兵役検査を受けたが、体力面で大きく劣るという理由で不合格だった。そのことは彼の心を大きく傷つけた。軍人でもあった父親は、前の大戦では最前線で部隊を率いて数々の武勲を上げ、騎士鉄十字章を受けている。それに比べて自分の情けなさにリヒャルトは打ちのめされ、以降は諦めに近い思いで地元の役所勤めを続けてきた。しかし、そのひ弱さが逆に今日まで彼をドイツ南部の田舎町に押し留め、戦争から遠ざけ、生き長らえさせてきたのだから皮肉な話である。

 一方のハンスも同年代の平均より小柄な体格で、運動も苦手らしい。相次ぐ徴兵で国内の成人男子が極端に減って、社会がうまく回らなくなってきた。その穴埋めをするためにハンスのような学校通いの少年までが勤労動員されている。兵士になって前線に立つ者もいる。嫌な話だ。

「今日は初日だからそれ程忙しくはならないよ。気楽にいこう」

 人生で初めての職場というものに緊張した面持ちのハンスを安心させようと、リヒャルトは努めて気軽にそう言った。

 やがて周りには自分たちと同じような風体のドイツ人たちが集まってきた。皆、軍政部の職員だ。その人波に呑まれたリヒャルトとハンスは周囲の建物よりも一際大きなマジェスティックホテルへと吸い込まれていった。

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