爪痕すら残せないなら何のため
「さて、後のことは――ん~、楽しいが疲れる……このノリ面倒になって来たな、よし。図書室で勝手に適当に読み漁るがよい!」
クレフ王のその一声により、二人は一軒家ほどの広さの図書室へと押し込まれた。イース=イーダはすん、と本の匂いを嗅いだ。馴染みのないその匂いは、昨夜もヘルミにつきあわされ訪れた鯨洞守りの村の書蔵と似た匂いだった。
イース=イーダは字など読めなければ書けもしない。こんなところに放り出されたところで……である。
「レーヴ、だいじょうぶ? 何か変わった……?」
ヘルミは慌てて子クジラの様子を確認する。子クジラは「キュ?」と鳴いてふよふよと円を描くようにその場で泳ぐ。停止すると胸鰭と尾鰭をピンと立て、格好つけた。
「可愛い……。見た目には何も変わってないけど……」
「……この本を読めば何かわかるのか」
「え? わ、わかるかもしれないけど……」
「じゃあ読んでくれ。昨日も言ったが俺は字が読めない」
「う、うん……でもね、私も難しい言葉は読めないから……どの本にならクジラのこと書いてあるかな……」
「キュッキュッ!」
「オッホン」
後方から咳払いの音が聞こえてきて二人は振り返る。そこには青髪の青年がいて、眼鏡の奥から金色の目で冷ややかに二人と一頭を見ていた。
「図書室ではお静かに願います」
「あっ、すみません……静かにしま――」
「誰だあんた」
「イース~……! 静かにって言われたのに!」
「なんで知らないやつに頼まれて言うこと聞かなきゃいけないんだ」
「イース……図書館では静かにするものなんだよ」
「なぜ」
「えっと、えーと……」
ヘルミが答えに窮していると、青髪の青年は眉をひそめて眼鏡を押さえた。
「文字は目で追いますから、読書をする人は自然と静かになります。騒がしくされると読書に集中できずノイズとなります。故に図書室は静かにするものという暗黙の了解がある」
「目が見えないやつはどうするんだ。文字が読めないやつは? 読み聞かせてもらわなきゃ話にならない」
「それは……」
「それとも文字の読めない奴隷は来る資格のない場所か。あんたの国王陛下が俺たちをここに押し込んだのに」
「……読めないのですか」
「読めないならなんだよ。悪いのか」
「もう、イース……」
青年はため息をつく。
「失礼。そういうことであれば……静かにしてほしいので手伝いましょうか」
「あ、助かります…! クジラのことが知りたくて……」
「クジラの一般的な知識は幼い子供でも習得しているものですが。あなた方はどこの国から来られたのでしょうか?」
「『ポルックス』です……」
「……『カストル』」
「ああ、あの。合点がいきました。ではあなた方は就学児童ではなかったのですね」
「さっきから何の話だ」
「イース、嚙みつかないで、ね?」
「いいでしょう。では基本的なところから。あなた方は不幸な方だ。国王の統治が行きわたることなく沈んだクジラと、国王が民に関心のないクジラからやってきたのですから」
二人は息を呑み、黙り込んだ。そのように憐れまれるなんて思っていなかったから。
「知識は武器であり、知恵は力です」
青年は本の背を指でなぞる。
「ゆえに教育こそが国の力となる。我が国で学校に通わぬ子供はいませんが、あなた方の出身国はそうではない。武器を与えられず、子どもだから、なにもわからないからと侮られながら重い使命を背負わされたあなた方には同情を禁じ得ない」
「重い、使命……」ヘルミが呟く。
「重くないはずがないでしょう。子供の足で国を六つ跨ぐのみならず。あなた方は一頭のクジラを廃鯨とするのですから」
「廃鯨って、なんだ」
「そのクジラを、ただ生きているだけの骸にするということです。誰もやりたがらないし資格もない。だが資格がある者はいる。ゆえにあなたのような古代王の末裔は、虐げられながら使役される……」
青年はいくつかの本を棚から取り出した。
「こちらへ。お勉強の時間です。私は司書のアロイスと申します、以後お見知りおきを」
「……イース=イーダだ」
「ヘルミです。あの、お勉強って……私たちはクジラの……この子、レーヴのことを知りたくて……」
「ああ、名前をつけたのですか。実に愚かな。しかし良い名です。夢、ですか。夢とは希望、安寧、居場所です」
そんな意味だったのかとイース=イーダはヘルミを見る。ヘルミは恥ずかしそうにして両頬に手を当てた。
「であれば、なおさら勉強は必要でしょうね。こちらへ」
「有無を言わせない感じだね……」
ヘルミがこそこそと耳打ちしてくる。イース=イーダは視線を泳がせ、少し考えた。
「あんたが読み聞かせしてくれるって?」
「ええ、今からしばらくここを教室とします。見ていられない」
「なら……聞く」
イース=イーダは大人しくアロイスについて歩いた。ヘルミが「素直だね?」と不思議そうにしてくるので、睨んでおいた。
「キュ~」
「レーヴも一緒にお勉強しようね」
「キュ~!」
「わかってるのかよ、わかってないだろ……」
「まだ赤ちゃんだもの。撫でられる方が好きだよね~」
「キュッキュウ~」
「オッホン」
その咳払いはうるさいに入らないのかと、腑に落ちないながらイース=イーダは椅子に座った。ヘルミも子クジラを抱いて隣に座る。
「クジラの深化は成りましたか?」
表情一つ変えずアロイスはじっと子クジラを見る。イース=イーダが仏頂面で黙っていると、ヘルミがこちらをちらと見た後口を開いた。
「あの、深化魔法……であればかけられたのだと思います。魔法陣の檻のようなものにこの子が囲われて……」
「深化は何回目ですか」
「えっ……初めて、です」
「そうですか。では目に見える変化はまだないでしょう。深化の第一段階ではクジラの固有スキルが解放されます。変形能、体の大きさや形を変えることができる能力です」
「……人間の場合は?」
アロイスは少し黙った。
「王のことを心配してくださっているのですが。心優しいことだ」
イース=イーダはむっとした。別に王さまの心配などしていない。自分の体の変化を知りたいだけだ。
「クジラと大差はありません。変形能が解放されます。体は自身の細胞で別のものを作り出すようになりますが、魔法によってそれを制御することが可能です」
「あの、細胞って何でしょう……」
「細胞というのは……体の最も小さい構成要素です。細胞が集まって、私たちの体はできあがっている。糸を編めば布ができるのと同じことです」
難しい話だったため、イース=イーダはいっそう顔をしかめた。そんな風に細かいことはどうでもいいのだ。
「それで、作り出す別のものってなんだよ」
「金属です」
ヘルミもイース=イーダの枷を見たのが横目でわかった。
「金属は、熱伝導だけでなく魔力伝導も高い物質です。体がより魔力に適した状態になる。王の冠は深化によって生み出されたものであり、取ることはできません。クジラも同様、体で金属を生み出すようになります。クジラが深化により生み出した金属塊のある場所を、我々は鉱山と呼び、天然の金属として採取しています」
「……取れない?」
「取れません。元は肉体の一部ですから。深化によって生み出された金属は宝飾ともなり、王の権威の象徴ともなります」
「俺のこれは、深化の結果できたものだと王が言った」
アロイスは再び黙り込んだ。
「なぜ、あなたの体が深化を」
「『ポルックス』の王が、俺にかけたと」
「…………愚かな」
アロイスは眉間を押さえる。
「……言うまでもなく、我々のような魔法使いは魔法を使うことで蝋化が進行し、今わの際にはひとつの蝋となります。蝋化は死へ至る変化です。そして深化もまた、死へと至る変化。クジラは金属化に耐えられますが、人間の体はそのようにできていませんから」
「イースは、蝋が皮膚にも出てるんです」
「……なぜ。普通の使い方をしていなければそんなことにはならない」
「別に。村の人たちの頼みを聞いて魔法を使っていただけ」
「なるほど、なるほど」
アロイスは眼鏡をきつく押さえた。
「早死にしたいのか?」
「別に、どうでもいい」
イース=イーダが静かにそう答えれば、ヘルミもアロイスも言葉を失った。子クジラが「キュ?」と鳴いて、イース=イーダの肩によじ登ってくる。くすぐったい。なんだっていうんだ。
「あんたらも同じ目に遭ってみればいい。死体だらけの暗い牢の中で嫌というほど考えた。いつになったらここから出られるのか、どうしてこんなところにいなければならないのか。俺が何をした? そのうちわかる。全部どうでもいいんだって」
アロイスの顔が歪む、ヘルミが呆然としている。イース=イーダは付け加えた。
「ただ死ぬだけなのが嫌なだけだよ。爪痕残して死んでやる」
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