世界は優しくないから、憎くても
キャンディスの案内で、鯨洞守りの村で一晩を過ごした。明け方イース=イーダが身支度をしていると、ヘルミは寝ぼけ眼を擦りながら起きてきて、キャンディスが声をかけてきた。
「ご出立ですか、我が王」
「国王に謁見しなければならないから」
「もう出るの……早いよぉ……久しぶりにぐっすり眠れたのに。もうちょっと寝ていたかったよぉ……」
「起こさないように努力はしたぞ。子クジラを抱き枕にしてたんだからさぞ寝心地は良かっただろうな」
「あったかくてやわらかくてすべすべしてたよ……ううん……」
ヘルミは伸びをしてむにゃむにゃと言いながら髪を編む。子クジラは、今はイース=イーダの肩に乗り、靴紐が結ばれていくのを不思議そうに見つめている。
「昨日本なんか読んで夜更かしするからそんなに眠いんじゃないか」
「だって……いい名前をつけたかったから……」
昨夜ヘルミは村の蔵書を読み漁り、子クジラの名に良い単語はないかと探していた。そのうち大地として星の名を冠するクジラに別の名を与えてどうするんだとイース=イーダは呆れ、早々に寝た。思ったより疲れていた。生身で“潜る”とはこんなにも体力を使うものなのか。ヘルミの寝不足は夜更かしのせいであって、羊水を潜ったからではない。イース=イーダは雲海を眺め、思索に耽る。子クジラは始めイース=イーダにくっついて寝ていたくせに、起きたらヘルミの腕の中にいた。なんなんだと思った。
「……待って、国王陛下に謁見?」
ヘルミは突然目が覚めたようだった。ずいぶんと遅れた反応だ。
「そうだけど」
「あう……私も……?」
「同行者なんだから当然だろう」
「うわわわわ……」
どうしよう、失礼がないかな、とヘルミは慌てている。イース=イーダはふんと鼻を鳴らした。国王なんて、偉ぶって、私欲の塊で、尊敬になんか値しない人間共だ。謁見しなければならないことになっているから、仕方なく頭を下げてやるだけなんだ。
クジラのことだって、こんな奴隷にしか頼れないくせに。
「『シリウス』にご到着なさいましたら、ぜひゴーシェ様をお尋ねください。貴方様と同じく、古代王の血をひかれるお方です。訳あって今は
「三頭? 長命だな」
「ええ。それがゴーシェ様の魔法の特性ですから」
「ふうん」
「その際には、ぜひこれを、ゴーシェ様に」
キャンディスは小さな巾着を渡してくる。まだ訪ねるなんて了承していないのに。
「……これは何」
「ゴーシェ様がご覧になればおわかりになります」
「チッ……」
「イース、舌打ちしないの! くせになっちゃうよ」
「うるさいな……」
「チッチッチッ!」
子クジラは何が楽しいのか、喉から音を出す。ヘルミの目が三角に吊り上がった。
「ほらぁ! 真似しちゃったじゃない、教育に悪いでしょ!」
「クジラがなんでこんな音出せるんだよ……」
「クジラじゃないよ、レーヴ。ね、レーヴ。昨日名前教えたもんね」
「キュウッ」
子クジラが嬉しそうにイース=イーダの肩で跳ねる。別に痛くはないが、イース=イーダはなんともいえない心地になった。
「名前をつける必要がどこにあるんだかな……」
「男! なんて言われ続けたらイースだって悲しかったりしない?」
「別に」
「そっかぁ……でも私は女! って言われたら悲しいから……」
ヘルミは子クジラを撫でる。
「旅の間だけでも、ね?」
「その旅がどんなものかわかってもいないくせに」
「……お別れがあるっていうのはわかるよ。わかるけど」
ヘルミは眉尻を下げ、子クジラを抱っこする。ヘルミが子クジラに頬ずりすれば、子クジラも負けじと頬ずりを返し、ヘルミはご機嫌に笑った。なんなんだ。
「かわいいねぇ~っ!」
「はあ……付き合ってらんない」
イース=イーダはため息をついて立ち上がり、マントのしわを伸ばした。
「支度はできたのかよ」
「うん! ばっちり!」
「ああそう」
「いってらっしゃいませ、我が王、ヘルミ様」
キャンディスは温かい眼差しを向けてくる。
「また、ご縁がありましたら村にお立ち寄りください。一同歓迎いたします」
居心地の悪い思いをしながら、イース=イーダは子クジラといちゃつくヘルミと共に村を後にした。
また、雲海を見つめる。イース=イーダは考えている。このクジラを、このまま雲海に放ったらどうなるのか。子クジラと一緒に自分が身を投げたらどうなるのか。誰が困るのか。
……ともあれ、色々な仕組みを知らなければ話にならない。イース=イーダは反逆の機を窺っている。まずはこの国の王に会わなければ始まらないのだ。
リゲルの女王は、その薄紫色の目を細め、イース=イーダをよくよく値踏みした。
「よく来たな、送り人の少年よ。その者は旅の仲間か」
仲間というのも少し癪だったが、面倒なのでイース=イーダは頷いた。
「ふむ。その乳白色の瞳、紺色の髪、額の印……海女の一族か。この国では血筋が絶えて久しい。まだ生き残りがいたのだな」
「えっと……はい……女王陛下」
「そうかしこまらずともよい。我が名はクレフ。スピカの王である。少年、少女よ。名は?」
「ヘルミです!」
「……イース=イーダ」
「良き名だ」
このやりとりに何の意味があるのかわからない。イース=イーダは跪き俯くことで顔を隠した。冷や汗がだらだらと背中を伝っていた。王という生き物が怖い。この威圧感に体が震え、今すぐに逃げ出したくなる。目の前の女王は、あの王ではないというのに。ヘルミがいっそ平気そうに見えて、イース=イーダは羨んだ。
「イース=イーダ、そなたサキリスの呪いを受けているな」
サキリスとは誰だ、何だ。訝し気に顔をあげれば、女王は快活に笑った。
「ははは、己の主人の名も知らぬか、不敬者め。そなたを捕えたポルックスの王の名よ。あの男は野心だけは人一倍強く、誰のことも信用せぬ。ゆえにそなたにもそのような枷をつけたのだろうが、いやはやそれにしてもはや……。やっかいな人間に捕まったものよなぁ。ほほ、それある限り、そなたは自由になれぬな」
「そんなこと……」
知っている。それくらい。発育の悪いこの体にぴったりなように嵌められたこれが、自分を蝕むことくらい。これを外してもらいたければ、王の命令を聞かなければならないのだと。だが聞いたからといって解放される保証もない。それよりもこの身一つで命を絶つのがよほどましだとすら思う。
あの日、事実イース=イーダは、考えていた。ここから身投げしたら自分はどうなるのかと。ちゃんと死ねるのだろうか。苦しいだろうか。死なないほうがましだろうか。見も知らぬ少女にその心を見破られて、苛立ったから、否定した。少女に背を向けた時、心に決めたのだ。
死ぬなら、子クジラと共に死んでやろうと。クジラが産まれるのには数百年を要するという。今は機を見ているだけ――決して、恐怖からではない、そんなはずはない。
「……俺はサキリス王からただ『鯨洞』に行きクジラの子を迎え旅に出ろとしか聞いていない。あんたが教えてくれるんじゃないのか」
「ふむ、なるほどな。確かに旅のいろはは慣習的に胎鯨の国王が伝えることになってはいる。それにしても丸投げというやつじゃ。後でサキリスには説教しなければならぬ……」
ふう、と額を押さえ女王はため息をついた。
「そう焦るな。順を追って説明してやるとも」
自由になりたくて焦っていると誤解されている。鼻についたが、否定するほどでもなかった。イース=イーダは眉根を寄せただけで女王をじっと睨んだ。
「そなたらも疑問に思ったのではないか? この赤子のクジラは我らの大地とは似ても似つかぬただの生き物である。これが国となるためには、深化が必要だ」
「しんか……?」
ヘルミが不安そうに繰り返す。女王はにやりと笑った。
「そうだ。これは王にのみ許された魔法。生き物の体を作り替える、古代魔法だ。我ら王の名を戴く者、深化の魔法をその身に宿せし者なり。己の体が変容していく代わりに、己以外の者をも変容しうる。イース=イーダ、そなたの枷もまた、深化の術を施されている」
変容とはなんだ。イース=イーダは腕を見た。足を見た。この金属のわっかがなんだというんだ。
「何もないところから轡が現れるわけがなかろう。それはそなたの肉体を材料に作られた桎梏よ。そなたの体もまた、クジラと同様に深化していくだろうな。だが術者が術を解除すればその変容は止まる。本来はクジラ以外に使ってはならない術なのだが……まぁ、そうだな」
女王は喉を鳴らして愉快そうだった。
「奴隷なのだから構わぬということかの」
ヘルミが青ざめたのがわかった。子クジラはただ首を傾げている。イース=イーダは目の前が真っ赤になって、その後真っ白になった。怒りを通り越すと、どうでもよくなるのだと知った。
「各国の王はクジラに深化の術を一度ずつ施すことになっておる。それによりクジラの深化は段階を踏んで進んでいく。雲海を一周するころには肥沃な大地となっておろう」
「王さまはっ」
ヘルミが突然、声を出した。女王はきょとんとして小首を傾げた。
「王さまたちは、イースを痛めつけて何がしたいのでしょうか。可愛いクジラが深化していくのを見るのも苦しいのに、そんな苦痛を負わせて、それで役目だから果たせと言うんですか? 深化の術は王さまが使えるんですよね、それならあなたはイースの枷を外してあげられるんじゃないんですか?」
その声がとても凛としていてよく通ったから、イース=イーダは驚かされた。ヘルミのいつもの柔らかさは鳴りを潜めて、静謐さを以て女王を見据えている。
女王はくく、と笑った。
「無論、できる。だがなぜ他国の奴隷に情けをかけてやらねばならぬ? 我にとってはその価値はない。そなたの言う通り、奴隷は奴隷らしく役目を果たすだけでよい。無事に旅を終えた暁には解放されるかもしれぬぞ? 充分だろう。古来より奴隷とはそのようなものぞ」
「彼は奴隷として生まれたわけではありません。この世界に生きるあなたと同じ人です」
「ふはは。小娘、わかっていないようだから教えてやろう。蹂躙はしたもの勝ちであり、された方が悪いのだ。なぜ古代王が滅んだかわかるか? 負けたからだ」
女王は楽しげだった。
「だが我らは生き延びるために古代王の血族に頼らなければならぬ。しかしそれでは征服の歴史が否定されてしまう。では出来ることとはなんだ? 小娘、為政者はこう考えねばならぬ。支配せよ、とな。我々はそうして統治してきた。統治なくして国は成り立たぬ。王が絶対悪である限り、人の命は永らえる。王が善であるべきは国の民にのみ。そなたらは彼の王の民でもなければ我の民にもあらず! そこな少年の王は滅びた!」
女王は立ち上がり、朗々とした声で二人を圧倒した。
「すなわち」
イース=イーダは奥歯ががたがたと震えるのを止めることができなかった。王の気迫は怖い。そうかあの時、サキリス王に枷をつけられた時、自分は命を削られたのだと理解した。棲み処を荒らされ、命を蹂躙された。それで怯えない生き物などいないのだ。
「少年よ、そなたの味方などいない。少女よ、そなたの味方もおらぬ。せいぜい二人と一頭寄り添い、傷を舐め合って責務を全うするがよい」
女王は何かを呟いて――おそらく呪文だったのだろう――手を掲げた。きょとんとした子クジラは魔法陣で出来上がった球体に囚われた。ヘルミがやめてと叫んだ。子クジラは遊んでもらったと思っているのだか、鼻歌を歌った。その間に陣は子クジラの心臓に収束し、光り輝き、そして消えた。
「これで深化の第一段階だな。もう後戻りはできなかろう、あはは! 悪役って楽しい」
女王は薄桃色のふさふさの髪を揺らして笑った。ヘルミが子クジラを抱きしめている。イース=イーダは、王という生き物をどうすれば殺せるか考えて考えて――自分にできるわけがなくて、床を見つめた。
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