あなたに会えてうれしくて ここは暗くて、あったかくて
「お待ちしておりました、我が王よ」
訪ねた鯨洞の守護者に開口一番そんなことを言われ、イース=イーダは大変に面食らった。
守護者はキャンディスと名乗った。鮮やかな水色の髪に褐色の肌を持ち、顔や首や腕、肌の見える部分には化粧で様々な模様か描かれている。色素の薄い銀色の目は深い知性を湛えているようだった。
「俺は王じゃない」
「いいえ、貴方様こそが我らが守護者の真の王です。しかしこの国の王と区別しなければならないことは存じております。我々は少数部族であり、国の王は我々の文化を認めております」
「それって認めないとあんたたちが厄介なだけだろ……」
イース=イーダがぽつりとそう呟けば、隣にいたヘルミが「イース、しっ!」と小声で言った。
「我が王、御名をお尋ねしても?」
「……イース=イーダ」
「良き名です。その美しき瞳、もしやアグナ=ラダ様のご子息でいらっしゃるでしょうか」
「父親のことなら知らない。何も」
「……失礼致しました。出すぎた真似を」
「そういうのはいいって、もう……」
うんざりしていると、ヘルミが不思議そうに尋ねる。
「そのアグナ=ラダさんは、イースによく似ているの?」
「は。流浪の美丈夫でございます。顔立ちがよく似ていらっしゃる」
「る、流浪の美丈夫……」
「そいつが本当に父親かどうかも分からないだろ。祖先が一緒だから似てるだけかもしれないんだ。父親なんて名前だって知らない。母さんを置いて行った薄情者だ。今更血が繋がってるだけの親なんていらない」
「イース……」
ヘルミが眉尻を下げて自分を覗き込んでくる。
「そいつがこの役目を担っていたら、俺はこんな目に合わなかった」
苦い毒が口から溢れて、イース=イーダは顔を顰めた。
ヘルミは悲しげに笑った後、キャンディスに尋ねた。
「あの、私は彼の旅の同行者、ヘルミです。私は鯨洞に入らない方がいいですか?」
「我が王が望むのであればご随意に」
「……別に。来たけりゃ来ればいいだろ」
「うん、じゃあそばにいるね」
なんだそれ、とイース=イーダは思う。子クジラに興味があるだけなんだろ。
「さっさと仕事を果たしたい。鯨洞に案内してくれ」
「鯨洞は、こちらの岩が門であります」
言われて、ヘルミと一緒に目の前の巨岩を見上げた。ずっと視界の端にあって気になっていた岩だ。
「……これ?」
思わず疑い深くなってしまう。扉と思しきものは見当たらないからだ。
「この門には魔法が施されています。始祖の血を引く者が手を翳せば門が開くのです」
「……へえ」
「すごい、そんなことできるんだ。イース、やってみて」
言われるがままに手を翳す。キャンディスが「触れてください」と言うのでそっと手のひらで岩肌に触れてみた。しっとりとして冷たい。
間もなく、触れた部分が熱を持った。
手を中心とした青い魔法陣が光り輝く。
「わぁ、きれいだね」
ヘルミは拍手をする。魔法陣がくるくると回り、弾けて光の粒になった。その瞬間、岩が大きくくりぬかれたように口を開けた。
「う、わ」
イース=イーダは思わず後ずさった。キャンディスもヘルミを真似てか拍手をする。
「お見事です、我が王」
「やめて……」
ほんとうにうんざりする。たった洞の入り口を開けたくらいのことで、こんな……たかが知りもしない氏族の末裔というだけなのに。
「すごいねぇ、本当に開いたね。あの、さっきの、レースの鍋敷きみたいな青い光は何ですか? とってもきれいだった」
「鍋敷きって、おい……」
「ヘルミ様は初めてご覧になりましたか、あれは魔法陣といいます。複雑な魔法を用いる時には魔法士は陣を作成します」
「君、魔法使いなのにそんなことも知らなかったのか」
イース=イーダが片眉をあげ首を傾げて見せると、ヘルミは素直に頷いた。
「うん。私たちは雲海を泳ぐだけの魔法使いだから。他の使い方はよく知らないんだ」
「はぁ……つくづく俺たちの出会いは運命的だよ」
「うん!」
皮肉のつもりが喜ばれてしまった。居心地が悪くてイース=イーダは先に洞へと足を踏み入れる。
ヘルミとキャンディスが後に続く。キャンディスは杖の先に光を灯した。洞窟を良く照らす温かい光だった。
「この奥にクジラの赤ちゃんがいるんですよね」
「はい」
「どんな子かな。どれくらいの大きさなんだろう。どんな姿をしてるのかな……」
「考えたって一緒だろ。どうせ行きつく先は大地だよ。普通の生き物と同じだなんて考えないほうがいい。ヘルミ、俺たちはクジラの上に生きてるってこと忘れてないか」
立ち止まって振り返れば、ヘルミは目を零しそうなほどに丸くしていた。
「そ、うだけど……」
「我が王は慧眼をお持ちですね」
「だから本当にそれやめてほしい……」
「素晴らしい視点です。私がお会いした王の中でもそれに初めから気付いていた王はあなたが初めて」
むず痒い。
「王、王って言うけど、その王がこんな奴隷なんてさぞがっかりしただろうな。所詮末裔なんてこんなものだよ。父親だってみすぼらしいなりの旅人だったって聞いた。そのうち王の末裔すらいなくなるんじゃないか」
「その時は、我々が滅ぶだけのことですよ、王」
キャンディスは静かな声で言う。
「所詮は仮初の大地。生を永らえさせているだけの生き物が我々です。滅びとは全ての生き物にいつか平等に訪れます。だからこそ一つの血筋しか鯨洞を開くことはできぬようになっているのです」
しばらく沈黙が続く。ヘルミはきょろきょろと壁や天井を見つめている。
「ねぇ、洞の壁や天井に宝石が埋め込まれてる。キラキラしてるよ。イースの目みたいな色……」
「魔腫と呼ばれるものですよ、ヘルミ様」
「ましゅ?」
「魔細胞でできた腫瘍です。これが魔法の核でもあります」
「しゅよう……」
「魔法使いや魔法生物の体内にできる石と捉えていただいて構いません。雲海クジラの体内はこの魔腫で満たされています。我々魔法士の体内も同じく。この魔腫が全身に広がり、我々は蝋となるのです」
「クジラも蝋になるのか?」
イース=イーダは再び立ち止まって振り返った。キャンディスは頷く。
「はい」
「……雲海クジラを火葬するのは、クジラの死骸が大きな蝋だから、なんだね」
ヘルミがぽつりと呟いた。
「ええ。クジラが燃えながら放つ芳香は、この空に泳ぐ他のクジラたちの芳醇な栄養となります。雲海クジラ一頭の蝋煙を飲めば、一世紀は永らえるとも」
「……燃えて、落ちて行ったのか。カストルは」
「そうだよ」
ヘルミは頷いた。
「私も初めて見た。星空の中で青く燃えて……とても綺麗だった」
「ええ、とても美しい光景でした。我が王はご覧にならなかったのですね」
「見れなかったんだ。ただそれだけ」
言い捨てて、先を進む。そのうち魔力の濃い場所へと入った。息が苦しい、溺れそうだ。キャンディスが何かの魔法をかけると楽になった。視界も晴れる。キャンディスはヘルミにも魔法をかけようとして……驚いたように目を見開いた。
「ヘルミ様は息ができていらっしゃいますね」
「え? は、はい……ここは雲海の中みたい。潜っているような感覚だわ」
「ヘルミ様は雲海に潜られたことが?」
「はい、それが生業だったし……あ、私、海女なんです」
「ああなるほど、海女でいらっしゃいましたか。海女の方々は濃い魔力にも強い耐性を持つと聞き及んでおります」
「……キャンディス、この息が楽になる魔法、後で俺にも教えてほしい」
「は。我が王の仰せのままに」
キャンディスは、羊水の中に入ったのだと言った。
体がとても重く感じられる。重力が強いらしい。楽になりたくて魔法を使おうとしたら、ヘルミがむっとした。なんだよいまさら。
「まだ歩けるくらいでしょ。そうやってすぐ魔法に頼るの良くないよ」
「なんでだよ。その魔法でここまで来たくせに」
「しかたなかったから。でも今はしかたなくないでしょ」
やっかいなやつを同行させてしまったという、苦々しい思いが広がる。けれど不思議と、連れてきたことを後悔はしていなくて、そんな自分の気持ちにずっとイース=イーダは戸惑っていた。
やがて、微かに歌のようなものが聞こえてきた。
「クジラの歌……」
ヘルミが歌に誘われるように前に出て、周囲を見渡した。
「ヘルミ様はご存じなのですか。クジラの歌を」
「あ、はい。雲海の中で、これよりもっと高いトーンのね、歌を聞いたことがあるんです」
「それは……興味深いお話です。クジラは母の胎内で歌を聞き、その歌を覚えます。クジラの歌はクジラ同士の言語だとも言われておりますよ」
「そう、なんですね……可愛い声。ね、もうすぐそこにいるんじゃない?」
ヘルミはイース=イーダに笑いかける。
ふと、イース=イーダは怖くなった。
「……ヘルミ、代わりに見てきてくれよ」
「でも」
「いいから」
しぶっていると、ヘルミは何故かイース=イーダの頭を撫でた。
「なにするんだよ」
「だって。ねぇ、大丈夫だよ、行こう、イース」
ヘルミに手を取られ、さらに奥へと進む。
果たして、それは、いた。
碧く輝く蔦のようなものに自らぐるぐる巻きになり、ぽよんぽよんと羊水の中を跳ねている。子クジラが跳ねるたびに魔力の濃度が揺らいだ。子クジラはご機嫌に歌い続けている。
驚くべきは、それには顔があって、丸い背中があった。イース=イーダの知るクジラと違って、背中に草も木も、花も土もない。
まるまるとした小さな、つぶらな瞳の生き物だった。
「キュ?」
ようやくそれはこちらに気づいた。不思議そうに身をよじる。まるで人間のような仕草をする。
「キュ、キュポ?」
「こんにちは、子クジラさん。なんて可愛いんだろう! 迎えに来たよ。ほら、イースも!」
「は? なにを」
「話しかけてあげなよ。ほら、あんなにきょとんとしてるよ」
「話すって…………おい、こっちにこい、クジラ」
「クジラが名前って思っちゃうかも……」
「そんなこと言ったって、他になんて呼ぶんだよ」
キャンディスが後ろでくすくすと笑っている。
子クジラは蔦から抜けて、ゆったりと近づいて来た。首を傾げるように身をよじりながら、イースとヘルミの周りをぐるぐると泳ぐ。
「キュー!」
そして嬉しそうに聞こえるような高い声で鳴いて、頭突きをしてきた。
「なんだ?」
「認めてくれたのかも? 可愛い、撫でてもいいかな?」
「好きにすれば……」
「じゃあ撫でるね、触っていい? 触るね、クジラさん」
ヘルミが手を這わせると、子クジラはぶるぶるっと震え、瞬きをした。すぐに「キュー!」とまた高い声を上げ、もっと撫でてというようにヘルミの手のひらに体を擦り付ける。
「あ、気に入ってくれたみたい! ほら、イースも!」
「は? なんで」
「いいから! うれしいよ?」
「なにがだよ。いいよ、俺は」
「撫でてあげてよ。ほら、こんなにも待ってるよ」
事実、子クジラはなぜかじいっと輝く瞳でこちらを見ている。本当に撫でられ待ちのようで、イース=イーダは実に居心地が悪くなった。
「……なんだよ」
根負けしてそっと手のひらをその背に這わせると、子クジラはそれはもう喜んだ。顔や肩に体当たりしてはご機嫌に歌を歌う。
「ふふ、イースのこと大好きみたい」
「なんなんだよ」
ほんとうに、なんなんだよ。
雲海クジラと重力使いの子どもたち 星町憩 @orgelblue
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