空ばかり青くて少女は眩しくて果実は甘い
話は少し前に遡る。
イース=イーダは、『カストル』という名のクジラの街に生まれた。母は産後の肥立ちが悪く、イース=イーダが一歳になる前には亡くなったらしい。
生まれ故郷は『カストル』の中でも辺鄙な田舎の方で、村人皆家族という感じだったから、イース=イーダは同世代の子供たちとまとめて転がされるように育てられた。自分だけの特別がいないことは寂しかったが、それ以外では恵まれた幼少期を過ごした。
ある日、鬼ごっこで鬼から逃げる時に自分の体を突然浮き上がらせることができた。それで、村には珍しい魔法使いの素質を持った子供だとわかった。村人たちにはたいそう重宝された。何せイース=イーダは重力使い――ものを移動させることも自分が浮遊して移動することも可能とする、魔法使いの中でも珍しい能力を持っていたのだ。農作物の運搬やちょっとした届けものなんかを村人たちはイース=イーダに任せて頼りにした。イース=イーダも、見返りをもらうことでそれをちょっとした商売にした。
牛が産気づいたから獣医を牧場まで高速で運んだり、幼子が風船を逃がして泣いているのを取りに行ったり。
たくさん魔法を使ったのでめきめき上達した。のどかな日々だった。
それが突然、終わりを告げた。
『カストル』と並走して泳ぎ、対のクジラとも呼ばれ続けた『ポルックス』の街……否、あのクジラの上に建てられたものは王国と言っても良かった――その国が、『カストル』に侵攻してきたのである。
目の前で村人を惨殺されたイース=イーダは囚われた。「皆殺しされたくなければ捕虜になれ」と言われるがままだった。
そのまま、数年を牢の中で過ごした。手首や足首には枷をつけられ、光は頭上高くにある小窓から差し込むだけだった。何が起こったのかわからないまま、ただ与えられた食事を食べて生き続けた。死にたくはなかったからだ。
魔法も、自分の体を浮かせるくらいしか牢の中では使い道がなく、正しい師に教わったことも無い故に力を持て余した。小窓は自分の体よりずっと小さかった。鉄柵は何かしらの魔法が作動しているのか、歪ませることもできなかった。
自分が今歳幾つなのかも、よく覚えていない。
牢から出されたのは突然のことで、国王とかいう人物の前に引きずり出された。何を言われているのかわからなかったが、曰く、あの時見せしめに殺された者以外の『カストル』全住民は既に『ポルックス』に避難しており、それぞれに生活を安定させたらしい。
曰く、故郷の村人たちは、隣人が殺されたのはイース=イーダのせいだと思っている。
曰く、お前を捕らえたのは、お前が古き王族の血筋、末裔だから。
曰く、お前を使役するには、この方法が最も効率がいいと考えた――
……そこまで聞いた頃にはイース=イーダは頭に血が上っていた。王様に突進して殴りかかろうとしたが、王様もまた魔法使いであるのか、弾かれ強かに背中を床にぶつけただけだった。
『我としてもお前なぞ使わなくて良いのならこんな回りくどいことはしないのよ』
王は退屈そうに言った。
『だが我は古き王族の血は引いていないしな。他にもアテはあるがいずれも名が通りすぎていて借りを作るのはちと面倒。そこでカストルのド田舎に魔法の才を発現させた子供がいると聞いて調べてみれば、褐色肌に黒い髪、透き通った空色の瞳、正に古代王の血を受け継いだ者だった。よってお前を我の所有物とすることにしたのよ』
言うことを聞かなければ、元『カストル』の民は皆殺しにするよ。うちで難民を抱えるのもそろそろ限界だからの。あ、そうそう、カストルは死んだのよ。つい三日前だったの。雲海に沈んで行ったのよ。難民の避難が無事終わっていてよかったことね――
イース=イーダは、逃げ出せなかった。
故郷のクジラの沈む姿を想像して、その場で泣き崩れた。たとえあの日々笑いかけてくれていたはずの人たちが今は自分を敵視していても、殺された人々から恨まれていたとしても、イース=イーダは故郷を愛していた。子供なりに。
すたすたと路地裏を抜け市場を通り、金がないので人混みに紛れてメロンをひとつ拝借する。果物程度で腹が膨れるわけではないけれど、栄養と水分は取れる。
「うわーっ! あ、あのっ、さっきのメロン、連れで……っ、お、お代払います、はい、はい! どうも〜……」
ついさっき聞いたような慌てふためく少女の声が後ろから聞こえた。ムッとして振り返れば、やはり海女の少女、ヘルミだった。ここは波止場からはずいぶん離れた場所だ。なんだあいつ。ついてきたのか。というかメロンのこと言いやがったな、よけいなことを……。
「も、もう、もう……! やっと追いついた、はぁ、はあ……っ、だめでしょどろぼうは……っ?」
「金がないんだからしょうがないだろ」
「お金がないなら、稼ぐの……! き、基本でしょ……?」
ぜえはあしながら膝に手をついて項垂れるヘルミを、イース=イーダは胡散臭げに見下ろした。見下ろしたと言っても身長はそんなに変わらなかったが。長らく日当たりの悪い牢暮らしだったのだ。伸びなくても仕方がないだろう。これから伸びる。
「そんなことは知ってるよ。それでも今は金がないし、腹がすいていたんだから仕方ないだろ。ほかのやつらもやってる。バレないようにな」
イース=イーダが指をさした先には、こっそり魚を盗んだやつがいた。手慣れている。影も薄い。
ヘルミは唖然としてそれを見送っていた。紅潮した肌に金色にも銀色にも見えるそばかすがキラキラと光って見える。イース=イーダは改めてヘルミをじっと観察した。光の当たり具合で銀色にも紺色にも見える美しい髪を右と左、後ろの三本に分けて編んでいる。額には楔型の模様があった。塗っているのか彫っているのかは判別しづらい。目は真珠のような白銀、ないし白金色で、珍しい容姿だと思った。まあ自分も稀有な容姿の特徴を持っていたとのことだが。彼女も魔法使いだからなのかもしれない。王様も髪が緑色だったし。魔法使いとそれ以外の区別をイース=イーダは極端に知らなかった。ヒレの柔らかな魚を思わせる衣服と相まって、彼女はここでは可憐な踊り子のようにも見えた。
「あいつの勘定は立て替えてやらないのか?」
「な――し、知らない人のことまで面倒見れないよ……!」
「俺も知らない人だろう。名乗っただけだ、礼儀としてな」
「そ、そうだけど、な、なんか」
「なんだ、まどろっこしい。そもそもなんで追いかけてきているんだ? ……ああ、換金しに来たのか」
ヘルミの手元にある宝石たちを見て、そう納得する。たまたま行き先が同じだっただけか。
「ち、違う……もうこれ傷だらけで売れないよ……後で服に飾る……」
「そうなのか?」
「そう……じゃなくて! だって、あなたがなんだかどこかいなくなっちゃいそうで、怖くて――」
「は?」
しばらく揉めた。ヘルミの言うことは要領を得なかったが、要はたかが少し言葉を交わした程度の人間を気にして追いかけてきたというくだらない理由だ。
「……別に俺がどこへ行ったって君に関係ないだろ」
「袖すりあうも他生の縁と言いまして……」
「ほかにろくな縁はなかったのか? まったく……」
イース=イーダはため息をつくと、噴水の淵に腰掛けた。懐からナイフを取りだし、メロンを半分に割る。
「食えよ」
「そんなに入らな……そもそも私が払ったんですけども」
「そうだね。だから食いなよ。ほら、いい匂いだ」
器用に切れ込みを入れて食べやすくしたものを渡してやる。ヘルミは途方に暮れたような顔をしながら隣に腰を下ろした。
「……ちょっ、ナイフで食べるのは危ないわ!?」
「慣れてる。怪我なんてしない」
「そういうことじゃ……うう、なんて人なんだろう!」
半玉のメロンを膝に乗せて頭を抱えるヘルミを見ていたら、イース=イーダも少しだけ可笑しくなった。
「それで、いつまでついてくる気だ?」
「え……っ、えっと……行き先による、かな……? かも……」
「早く食べろよ。虫が来るぞ」
「うう……」
もぐもぐと甘い果実を咀嚼しながら、イース=イーダは何とはなしに空を見た。雲ひとつなくてうんざりする。行き先も何も、自分は何も目的はないのにやらなければならないことだけはあるのだ。
「雲海クジラと契約しに行くんだ。今孕んでいるのは『リゲル』らしいから、そこに渡って洞窟に潜る。まあそんなに遠くはない。契約してからが長旅だ」
「えっ?」
ヘルミが果汁を喉に引っ掛けて盛大に噎せる。はっきりしない上にそそっかしいやつだな、と呆れてジト目を寄越してやった。
「隣のクジラが……『カストル』が雲海に沈んだからな。代わりのクジラを大地にしなきゃいけない。その契約者として選ばれたのが俺」
「そんな……たしかに、『カストル』が沈んだのは見たけど……代替わりってもう済ませてるものなんだと思ってた……」
「沈んだ後じゃないと都合が悪かったんだろうさ」
またふつふつと湧き上がってきた静かな怒りを努めて抑えつけながら、イース=イーダはメロンに顔からかぶりついた。甘ったるい匂いでくらくらする。
「それで? 【罪人】の俺の贖罪の旅までわざわざ追っかける気か? お人好しのお嬢さん」
鼻で笑ったら、刺々しい声になった。ヘルミの顔が強ばったのが見えて、苛立ってまたナイフを緑の果肉に突き刺した。
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