雲海クジラと重力使いの子どもたち

星町憩

ガールミーツボーイ、ボーイミーツガール

 今日もまた、あの声が聞こえる。

 その声は、時折雲海クジラが出す鳴き声に似ていて、もっと高くてか細い。

 だから、ヘルミはその声を、雲海クジラと同種の生き物、あるいは小さなクジラの子どもの声なんだと思っている。

 きっと、この雲海のずっと底にいて、誰にもみつけて貰えず、鳴いているのかもしれない。だってとても悲しげに聞こえるから。

 今日もヘルミは、体の許す限界まで、雲海を潜ろうとした。雲海は、雲とはまた違う、しかし雲とそっくりな何かの凝集した海だ。潜れば息はできないし、全身を押しつぶすような圧力がかかる。雲海から抜け出した後は、通り雨に降られた時のように全身がびしょ濡れだ。底を目指せば目指すほど光が届かなくなり、圧力は強くなって、並の人間では耐えられない。ヘルミだってそうだ。ヘルミは重力使いだから、海女の末裔だから、生身で潜ることもできるだけで。

 雲海は、雲海の上、雲の下、中間の空を泳ぐ巨大なクジラたちが寿命を迎え死に至る時、沈んでいく場所だ。沈んだ文明の名残が雲海のあちこちに見つかることがある。海女はそれらを拾って、クジラの上に作られた人を始めとした肺呼吸の生き物たちの街に赴き、マーケットでそれらを換金して生計を立ててきた。

 その雲海で、ヘルミは雲海クジラの遺骸を見たことがない。ヘルミを産んで亡くなった母の代わりに育ててくれたおばあさんも、見たことがないと言った。海女でさえ潜れない雲海の底に落ちているのだろうか。

 声の主もそんな深い場所にいるのだろう、と思っているのだけれど。

 ごぽり、と息を吐く。限界だ。肌が幾千万の針で刺されているかのように痛くて悲鳴をあげた。潜りすぎた。上昇しなければ。

 眩む視界の中で、キラリと輝くものを捉える。おそらく過去どこかで生きていた貴族の宝だろう。それらを引き掴んで、ヘルミは泳ぐように海面に向かって上昇した。

 一気に、息が楽になる。

 今日も、見つけられなかった……。

 落ち込みながら、雲海を抜け出し、空を飛ぶため足元に力を込めた時、ふと、ヘルミは男の子を見つけた。

 普段、雲海には誰も近づかない。本人の資質として『潜る』ことのできる海女か、科学の力で作りあげた水泳装備に身を包み、雲海の奥に眠る財産を狙うトレジャーハンターくらいのものだ。彼らが利用する街の小さな出入口には柵がないから、危ないので近づかないようにとクジラの街に住むものならば皆幼い頃から言い聞かされている。

 スラム街と通じるその出入口に、少年は立っていた。褐色肌で、夜の闇のような漆黒の髪が風になびいている。足や腕にたくさんの銀の足輪を嵌めているから、罪人だったのだろうか。ここにいるということは牢から解放されたか、自力で抜け出したか。氷塊の断面のように透き通ったアイスグリーンの目は鋭く雲海を睨みつけていたのだ。

 その瞳に宿るのは、激しい憎しみと諦観のようにヘルミには思えた。

 もしかして……。

「だめだよ!」

 ヘルミは慌てて宙を舞った。ジャラジャラと拾ってきた宝物がぶつかり合って音を立てる。傷がついて価値が下がるかもしれない。けれどそれよりも、早く彼の元にたどり着きたかった。

「ねえ、だめ! 死のうとしないで、お願い。考え直して……初対面の私に言われても、困るだろうけど……」

「は?」

 思ったよりも低い声で、少年は目の前に現れた空を舞う少女に向かって怪訝な顔を向けた。彼の警戒心が火花が爆ぜるように鋭くヘルミの肌を撫ぜる。

「え……だって、ここから飛び降りるつもりなのかと……」

「ふん、余計な世話だったな。別にそんなことは考えてない。そもそも俺は重力使いだ。飛び降りたところで問題は無いし」

「そ、そうだったの……でも、雲海に落ちたらそれでも大変でしょう?」

「……まあ、それはそうだろうが。とにかく、別に死のうとしてたわけじゃない。ただ見ていただけだ」

 ふん、ともう一度呆れたように鼻を鳴らし、不機嫌そうに少年は視線を逸らした。

 ヘルミもいたたまれずに、手混ぜをしつつ……ひとまず、地面に足を着けた。路地裏だからか、ゴミも散らばっていて、汚れている。

 糸が黒く煤けた蝋燭がいくつも転がっていた。それを見てヘルミは少しだけ心を痛めた。

「君、名前は」

「え?」

 しかし、意識は再び少年の方へと引き戻された。名前を、聞かれたのか。

「……ヘルミ。海女をやっているわ」

「ああ、だからあっちから飛んできたのか。怪しいやつかと思った」

「あ、怪しくはないよ! 仕事してただけだもん……」

「うん」

 少年は静かにそう言うと、もう一度雲海を見下ろす。その目が今は凪いでいる。そのことにほっとすると同時に、

「(本当に、綺麗な色だ……)」

……美しいアイスグリーンに、ヘルミはしばし見蕩れた。よく見れば、羽織っているフードマントも瞳の色に合わせているらしかった。淡くて優しい色だ。

「イース=イーダだ」

「え」

「俺の名前。聞いといて名乗らないのも失礼だろ」

 イース=イーダはそれだけ言うと、ため息をついて身を翻した。マントがはためく様が少しかっこいいような気がする。

「それじゃあな。もう会う機会もないだろうが。達者で」

「え!?」

 どうしてそんな気になることを言うの……!?

 ヘルミは慌てた。去っていく背中は迷いなく歩いていく。芯は強そうな人だがどうして危うく見えてしまうのだ。今会ったばかりの見知らぬ男の子に、胸をかき乱されている。

「ちょ、ちょっと待って……!」

 ヘルミは、青いヴェールをはためかせながら慌てて走って追いかけた。多分、声は届いてなかっただろう。それにしても歩くの早いなあ、あの子。



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