第2話 雪降る鞍馬の御山にて

 鞍馬寺、その名を聞いたことはあるだろうか?平安京の北、いわゆる洛北の山中にある寺だ。開基は彼の鑑真和上の高弟、発展は藤原伊勢人が受けた夢のお告げによるものらしい。


 そして、鞍馬寺を知っている人の多くはある人物のお陰だろう。そう、源九郎判官義経。「判官贔屓」の言葉を生んだ、日本で広く愛される悲劇の貴公子。


 個人的にはあまり好きではないが、「天狗に修行をつけてもらった」という伝説はとても、とても魅力的だ。だから、私が鞍馬の地を踏んだのは、前から決められていたことだったのかもしれない。


 鞍馬寺には二度訪れている。まだ、大学生になる前と大学生になった後の二度。


 鞍馬寺へは京阪電車で出町柳駅へ。その後、叡山電鉄の鞍馬線へ乗り換えていく。華やかな市街地から、鄙びた場所へと一本の線路で進んでゆく。


 一度目に行ったときは高くそびえていたであろう、沿線の木々が軒並み薙ぎ倒されていた。直前に列島を襲った強烈な台風の爪痕だ。ここで、ある予感を覚えなかったのは、若さだったのかもしれない。


 案の定、鞍馬の山は同じように木々が倒れてまともに入ることができなかった。少し不貞腐れて、都へと変える羽目になった。だから、もう一度訪れたのだ。今から話すのは二度目の来山のときのお話。


 鞍馬の駅に着いた。春の沿線の風景は以前の記憶とは違って、倒木もなく、色とりどりの花々が咲き乱れ、長閑さを取り戻していた。そんなことを思いつつ、改札を出る。


 出るとすぐにお出迎え。緊張された大きな大きな、真っ赤な顔の天狗様。長い鼻と厳しい顔つきで寺への来訪者たちの背中を見送ってくれる。


 鞍馬寺の山門までは、駅から少し坂を登る。足取り軽く進んでいると、気になる看板が目に入る。「牛若餅」。鞍馬銘菓に違いない。ふらりと誘われるように店に入った。


 暖簾を潜って、目に入ってきた商品棚にそれはあった。「牛若」の焼印が入った餅。名前の通り、そのまんま。楕円の形が魅力的。


 三つ買って店を出た。今は朝御飯でお腹が一杯。後でのお楽しみ。


 山門に到着。立派な石碑と広い階段を過ぎて、山門を潜る。空気が変わる。門の内側は鞍馬山だ。言い表すのは難しい、霊的な感じのエネルギーがあるような?詰まっていた鼻の奥がスッとなる感じがした。


 鞍馬寺の本堂まで行くルートは二つ。一つはケーブルカー。楽ちん楽ちん。けれど、味気ない。もう一つは自分の足で登るルート。もちろん、こっちを選んだ。


 鞍馬寺の参道は彼の『枕草子』で、清少納言が触れている。


 「近うて遠きもの。宮のまへの祭り。思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつづらをりといふ道。十二月のつごもりの日、正月のついたちの日のほど……」


 簡単に言えば、「近いようで遠いもの」。「つづらをりといふ道」は短い坂道が右へ左へと、何重をも続く。上は見えているのに中々たどり着かない。まさに、近いようで遠い道。


 ひーこら、息を荒くしながら登ると途中には、義経の供養塔やら、師匠の鬼一法眼を祀る神社やら、魔王の滝を称する小さくて趣き深い滝がある。楽しさが疲れを紛らわせてくれる。


 そんなこんなで、つづら折りを攻略して、少し普通の石段を昇ればやっとこさ本堂だ。山の中に堂々たる造り。建物の前には狛犬ならぬ阿吽の虎。


 本堂の中に入ると立派な仏様がある。本尊は秘仏なので目にすること叶わじ。なんでも開帳は六十年に一度とか。


 鞍馬寺の本尊は一風変わった仏様だ。その名を「尊天」。毘沙門天と千手観音と護法魔王尊が合体した神様とか。属性もりもりだ。ちなみに見た目は天狗そのもの。しっかりお参りする。本来の目的はここからだ。


 鞍馬寺はさらに山奥に護法魔王尊を祀った魔王殿、牛若丸が天狗の僧正坊に修行をつけてもらったという僧正ガ谷がある。普通の人は行かないので魅力的。いざ、奥宮へ!


 意気揚々とさらなる山奥へと足を踏み入れた。お腹が空いてきたので、罰当たりかもしれないけれど、牛若餅を食べながら歩く。栃餅の中にこしあんが入っていて、素朴で上品なお味。人間、美味しいものを食べれば上機嫌だ。


 少し歩くと、様子がおかしくなってきた。さっきまで春の陽気だったのに、突然真っ白な霧が目の前に立ち込める。さらには雲が山の上を覆って雪まで降ってきた。


 春ものの薄いコートではたまったものではない。きっと天狗様の罰だったのだろう。でも、引き返すわけにはいかない。足を前に進める。


 春の雪がはらはらと舞い降りる中、霊山鞍馬の奥へ奥へ。誰一人と会わずに、怯えつつある心を誤魔化して奥へ奥へ。やがて、目当ての僧正ガ谷へたどり着いた。


 杉の木が幾本も立ち並ぶ、山中の谷。少し積もった雪と、倒れたままの杉の幹が谷の底を流れる川のように見えて、雄大な景色だった。壇ノ浦の戦いで八艘飛びを披露した義経。きっとこの場所を、僧正坊にせっつかれながら縦横無尽に修行した賜物に違いない。そんな想像が膨らむ。


 テンションは上がったが、体温は下がるばかり。足早に魔王殿へと向かった。少し歩くと到着した魔王殿は、簡素ながら並々ならぬ雰囲気の漂う堂だった。本来夜目的なのに、余裕がなくなっていたせいで、お参りをするとすぐに出発した。


 先へ先へと進むと、やがて下り道になる。かろうじて道と呼べるような、木の根と石と泥濘んだ土の道。幅は一人がやっと通れるくらいだ。急な傾斜で、足を踏み外せば真っ逆さま。


 肩に薄く雪を積もらせながら、慎重に慎重に降っていく。しばらく歩いていると、なんと前から人が歩いてきた。しかも、杖を一本突いた腰の曲がったご老人だ。私よりもよっぽどしっかりした足取りで登ってくる。


 すれ違えないので、私は少し広くなっていたところで待つことにする。ご老人はすぐに私の元へとやって来た。


 「こんにちは。寒いねぇ。魔王殿まではあとどれくらいかな?」


 ご老人はにこやかに、普通に話しかけてきた。登ってくる姿は見るからに只者ではなかったけれど、声を掛けてくると普通のお爺さんだった。山登りが趣味で慣れているのかもしれない。


 「魔王殿から二十分くらい降りてきました」

 「そうかい。ありがとう」

 「お気をつけて……」

 「かっかっか!あんたもね」


 そんなやり取りをして、ご老人とは別れた。


 けれど、私はやっぱり気になった。こんな険しい山道にあんな腰の曲がったお爺さんがいるのはおかしい。


 だから、私はそっと振り向いた。もし、ご老人の背中が見えなかったら……きっと天狗様に違いない。そんな、妙な確信を持って振り返った。そこには……鳶色のベストを着たご老人の背中があった。


 私はとてもホッとした。とても、とてもホッとした。妖怪の伝説は魅力的で、私の心を捕らえて離さないけれど、本当に会ってしまったら、きっと、正気ではいられない。


 まだまだ、山の中なのに安堵で全身から力が抜けてしまう。その勢いで、首がもう一度、後ろに向いた。すると、そこには誰もいなかった。


 何が起きたのか、私は分からなかった。ちなみに今でも分かっていない。ただ、あのとき、同じ場所で二度目に振り向いたあのとき。私の目に、あの鳶色の背中が映ることはなかった。何度目を擦っても、映らなかった。あの数分の間に、ご老人はどこに行ってしまったのか。


 私はその後、呆けたまま山の反対側に降りた。今でも、ご老人の朗らかな笑顔と山の反対側から最寄り駅までの長く長い、独りぼっちのうねり道を歩いた足の痛さは忘れることができない。


 そんな、不思議な鞍馬寺探訪。




 

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