がまのあぶら

江古田煩人

がまのあぶら

 まだ命は助かるんだろうと半泣きで俺の足元にすがりつく男の身体は可哀想なほど震えていたが、まだ注射針が刺さったままの男の手の甲には青黒い死斑がこうして見ている間にもみるみるうちに大きく広がりつつあったため、非常用として店に常備してあるモルヒネで苦痛を取り除いてやる暇すらないようだった。俺のためらいを汲み取ったのか、背後で腕組みをしていた峨嵋刺がびしはそれが苛立った時の癖なのか下唇を突き出すようにしながら男に対して一息にまくし立てた。白衣のポケットからはゴムチューブと注射器が覗いているが、峨嵋刺がそれを手にする気配は一切ない。俺と同じように、男を見殺しにするつもりなのだ。

「客同士の揉め事に口を出さない約束でやってるんだ、賭け酒屋ってのはね。あんたがどんないかさま・・・・に手を出したのかは知らないけれど、恨むんならあんたに毒針を刺した奴を恨みなよ」

 俺の店の客は皆それぞれの卓から顔を上げ、今まさに死へ向かいつつある男の顔を物珍しげに眺めている。床に倒れ伏したままこちらを睨んでいる男の唇はすっかり血の気を失っており、わなわなと震える瞳が俺と峨嵋刺の顔を代わる代わる捉えた、と次の瞬間には男の瞳はそっくり上向きに滑っていかにも恨めしげな白目をむいたままぴくりとも動かなくなった。心臓に毒が回ったらしい。峨嵋刺はうつ伏せで事切れたままひくりひくりと生理的痙攣を繰り返している男の側へかがみ込むと、いかにも面倒くさそうにその手首を確かめた。

「午前一時三十二分」

 店の時計をちらりと確かめた峨嵋刺がわざわざ自分の腕時計を見てそう言ったので俺もつられて店の掛け時計を見上げてみると、どうやら峨嵋刺の言った時刻から五分ずれている。随分と嫌味ったらしい言い方だが峨嵋刺はそういう男なのだ、面と向かって文句を言われる前に時計を直しておかなければならないがそれより先にすべきなのはこの名も知れない男の始末である。はいちょっと通りますよ、すみませんねごめんなさいよ、などと呟きながら峨嵋刺が死んだ男の足首を掴んで引きずっていくので、気は進まなかったが俺も男のわきの下に腕を通すと一息に男の身体を抱え上げた。まだ死後硬直が始まっていない身体がぐにゃりとゴム玩具のように曲がる感触はまったく嫌なものだったが、目を見開いたまま死んでいる男の顔を前にしても峨嵋刺はその足首を握ったまま涼しい顔をしているので雑医ぞういを生業にしている人間の胆力を俺はつくづくうらやましく思った。客は死んだ男への興味などすでになくしたようでめいめいが勝手に賭けを再開させており、狭い店の中には六角牌をかき混ぜる音やサイコロを振る音、ぼそぼそと囁くような低い声の会話が再びあふれ始めている。どこの賭け酒屋だろうとずるい真似をすると大抵は店員や客の証言から足がついてこの男のようにとんだ目に遭うので、結局は店のきまりに従って各々おのおの賭けに興じるのが最も安全であるということをこの辺りの常連はしっかり心得ているのである。

「大勝ちした後に殺されたんじゃ、泣くに泣けませんね」

 俺の精一杯の冗談に峨嵋刺は腫れぼったいまぶたをちょっと持ち上げてみせたが、どうやら笑ったわけではなさそうだった。こういう時のためというわけでもないが賭け酒屋のカウンター奥には大抵こうしたものをどうにかするための小部屋があり、それは俺の店も同じで、峨嵋刺は男の身体をカウンターの床に下ろすと小部屋の扉に取り付けてある南京錠をがちゃがちゃやり始めた。

「今月で二人目だ」

 峨嵋刺はいつも糊が喉に絡んだような粘っこい喋り方をするのだがその口調の奥には抑えきれない苛立ちがにじみ出ており、身元不明の男をこれから裸にむいて素性を調べたあとに死体を処分するという骨の折れる一仕事のことを考えると峨嵋刺があからさま機嫌を悪くするのも仕方ないと俺は勝手に解釈した。返事をためらっている俺の気配を鋭敏に感じ取ったのか峨嵋刺はいぼだらけの顔をこちらへ向けて喉をごろごろ言わせたが、無論笑っているわけではない。

「見方を変えれば不労所得だよ。津田くんは好きだろう、そういうの?」

「だからって死体で金稼ぎはあまりしたくありませんね。不労所得といっても素性を調べるのにも金が掛かるし、目玉ひとつとってもきちんと下処理をしないやつは業者も買い取らなくなったじゃないですか。正直、俺はこういう黒い仕事にはあまり関わりたくなくてね」

「賭け酒屋に綺麗な仕事もヘチマもないよ、甘っちょろいこと言って、こういう面倒ごとを僕に押し付けたいってだけなんだろう。津田くんのそういう所が僕は嫌いなんだ、この際言っておくけれど」

 三畳ほどの小部屋は天井から吊り下げてある裸電球の明かりでうすぼんやりと照らされ、こういう部屋にはごくありふれている簡易手術台の上にはあらかじめ峨嵋刺が準備しておいたらしい青いビニールシートがきちんと敷かれている。二人がかりでシートの上へ死体を下ろしてみると、血の気のすっかり失せた男が電球の明かりにしらじらと照らされている姿はありふれた残酷映画の一場面のようだったが、事切れたまま白目をむいている男の顔はどうにも薄気味悪く、手術台に横たわる男の身体をあまり視界に入れないようにしつつ俺は扉の隠し窓から賭場とばの様子をうかがった。

「それじゃあ峨嵋刺さん、後は頼みましたよ。俺は店を見てくるんで」

「店主ってのは楽でいいね、下働きの雑医に汚れ仕事を押し付けていれば済むんだから。君の見たくないところまではあらかた済ませておくから、さっさと出て行ってくれるかい」

 ちらりと振り向くともう峨嵋刺は手元の小型端末をいじりながら男の衣服のあちこちへ手を突っ込んでいるところで、そんなことをしてもこうした危ない店で賭け事をするようなやつは身分を明かすものをうまく隠してくるかそもそも証明するための身分すら持ち合わせていないのが当たり前なのだが峨嵋刺はそういうところがぬかりなく、相変わらずつまらなそうな仏頂面で今度は男の履いているカーゴパンツを脱がそうとしている。パンツの股間はぐっしょりと濡れており、どうやら死んだ拍子に失禁したらしかった。それを見ていると何故だか知らないが急に怒りが込み上げてきた。

「じゃあ、あとで」

 峨嵋刺の返事を待たずにカウンターへ戻ると、向かいの卓で南天めくりに興じていた常連客がちらりとこちらを見た。何か言いたげな顔をしているがそれがどういう意味なのかだいたい想像はつく、俺はカウンター後ろに並べてある棚から特上の蟾蜍せんじょ酒を取って一杯つぐと黙ったまま客の卓へ持っていった。客も黙ったままコップを受け取るとふちに付いたしずくをべろりと舐め、それから俺の顔をまじまじと見た。ほかの賭け酒屋ですった・・・のか、右目がそっくり抜かれている。

「これで今月は二人目だな」

 薬で溶けた歯の隙間からしゅうしゅうと耳障りな音をさせながら、客は峨嵋刺と同じようなことを言った。それを聞いた同じ卓の客がどっと笑う。この店の常連であれば、どいつもこいつも話すことは同じである。

「なあマスター、ほかの奴にもおごるのかい」

「ばらさないって約束してくれるんなら何だっておごりますよ。一杯だけね」

 話しているそばから別の手が伸びてくる。俺はろくにそいつの顔も見ないまま、酒を満たしたコップをその手に握らせてやった。

「やあ、上物だ、上物だ……よそと比べてあんたの所は気前がいい。だから客も、店のためにひとつ知らん顔してやろうって気持ちになるんだよ。ついこないだ、客の死体をばらしたのがばれて丹本自警団に踏み込まれた店があったっけね」

「四階の『カリガリ』でしょう。あそこは元から評判がよくなかったんです、酒にひどい混ぜ物をしたりね。安物のメチルで客の目が潰れても知らん顔で済ますから、客も嫌気がさしたんでしょう」

「俺がもしあの男と同じ死に方をしたら、あんたは俺をばらすかい」

「ほかの客がばらさないなら、ばらすでしょうね」

 そんなどうでもいい話をしながら卓を囲む客に次々と酒をおごり、誘われるがまま参加した賭け双六で適当に負けてやっているうちに先日仕入れてきたばかりの蟾蜍酒はもう半分ほどになってしまっていたので、やけにまかせて俺もなけなしの酒をコップに注ぐと一息で飲み干した。このとろみのある琥珀色の液体を俺の店で普通に味わおうと思ったら今日の相場でおよそ三倍の血液が必要になる。コップ一杯で客一人の口を塞げるなら安いものなのかもしれないが、果たして本当にそれが安くついたのかどうかは扉向こうで男を文字通りまるはだかに剥いている・・・・・峨嵋刺の腕次第である。頃合いを見てカウンターに戻ると、果たして覗き窓の奥から峨嵋刺の半分眠ったような猫目がこちらをじっと覗いていた。

「どうでした、今回のは。まさか私服の自警団じゃないでしょうね」

「その心配はなさそうだよ。恐らく無宿者やどなしだね、検索屋に調べてもらったが詳しいことは分からずじまいだ。だが少なくとも正規戸籍を持ってるような奴じゃないだろう、こんな所で死んだって誰も気に留めないさ。あとは店のやつらに黙ってもらうだけだけど、津田くん、今回はいくら飲ませたんだい」

「こないだ仕入れた蟾蜍を半分です」

 俺がそう言いかけるなり峨嵋刺はばたりと荒々しい音を立てて覗き窓の蓋を閉めてしまったのでせっかく持ち直しかけた俺の気持ちはたちまち萎えてしまったが、峨嵋刺の小言を承知の上で小部屋へ入ると先程まで男を乗せていた手術台の上にはすでに新しいビニールシートが掛けられていた。どうやら峨嵋刺ひとりに任せていた仕事は一段落したらしく、代用エタノールの臭いとそれ以上に濃い鉄の臭いがするどく鼻をついた。男から抜いてきたばかりの商品・・は一足先に壁際の冷蔵庫へしまってあるようで、鼠色をした冷蔵庫の壁には赤黒い峨嵋刺の手形が魚拓のようにこびりついている。むろんこの血の大部分も無駄にしないよう輸血バッグへ詰めていずれ然るべきところへよこすのだ。俺は壁にひっかけてあったゴム製の前掛けを手早く身につけると峨嵋刺の顔色をうかがい見た。

「今回のやつはどうでしたかね。見たところ中毒者でもなさそうだ、肝臓もしばらく毒を抜いておけばそれなりの値段がつくでしょう」

「まあ、そんなところだね。それでもこいつをうまく売り払ったところで君がばら撒いた蟾蜍酒にお釣りがついて戻ってくるかどうか」

「いつものどぶ・・酒で客が黙るとは思えなかっただけです」

「君は客に甘すぎるよ。口封じの方が高くついたらどうするつもりだい」

 俺は黙ったまま男の身体をすっぽり覆い隠しているシートをめくってみた。クリップと鉗子で大きく広げられた男の腹のなかに目ぼしいものはもう何もなく、せいぜい切りあまりの腸やら肋骨やらが無造作に押し込められているだけである。商品を抜き終わったあとは、常連のひとりに偽犬飼いの男がいるのでそいつにがらんどうの死体といくらかの手間賃を握らせてやればそれで済む。非合法的だが、実に合理的な暮らしがこの雑営団地ではうまく成り立っているのだ。俺の脇から顔を出した峨嵋刺は血まみれのゴム手袋を死体の腹の中へ投げ入れると、部屋の端の小さな流しで丹念に手をゆすぎ始めた。

「心臓と片肺、肝臓、血液がパック八個分。目と歯はこれからやるけど、津田くん、君やってみるかい」

 峨嵋刺が挙げたものの値段を頭の中で勘定し直してみると、峨嵋刺が厳しく言った割には客に飲ませた酒代くらいは取り返せそうであった。商品・・の鮮度にもよるが大抵のものはそのまま生体移植に使うわけではなく、買い取った仲買業者の手によって組織修復や培養蘇生を施された上で移殖用や生体コンピュータのパーツ用として売りに出されるのだが、その中でも特に質のよいものは一般的な売買ルートよりもはるかに暗い所を通っているうちにいつの間にか・・・・・・執刀医のサインやドナー証明書が付いたものが富裕層向けの総合病院にひっそりと紛れ込んでいくのだという限りなく真相に近い噂を聞いたことはあるがそこまでは俺の知ったことではなかった。己の手から離れた商品の行き先をいちいち気にしていられるほどの生活の余裕は俺たちにはない。小さく袋詰めされた男の身体がどこへ流れようと、手に余る死体がまとまった金に代わるならそれで充分なのである。俺は峨嵋刺が取り出した手圧式の吸抜筒すいだしを受け取ると、上部のハンドルを上下に数回動かしてみた。

「もう濁ってやがる。目玉なんてどうせ大した金にならないだろうけど」

 男の口はすでにダクトテープで念入りに塞がれており、峨嵋刺は注射器に詰めた弛緩剤を男の目の周りへ念入りに打ち込んでいるところだった。薬を打たれた男の顔はすぐさまとろとろと緩み始め、恨めしげな顔はいくらか和らいだようであったが、それでも死んだ男の顔をまじまじと見つめ続けるのはあまりよい気分ではない。思い切って吸抜筒を男の右目にあてがい、力を込めてハンドルを引くとねばつくような手応えと共に男の眼窩がんかから滑り出た目玉がぬるりと吸抜筒の中へと吸い込まれていく。右目が筒の中に収まったのを確かめてからハンドルを右回しにひねると吸い口に取り付けられた薄刃カッターによって視神経がぶつりと断ち切られ、あとは採れた目玉を保存瓶に移すだけである。自分で一度やってみると分かるが目抜きの仕事は見た目に反して案外あっけない。貧民街の賭け酒屋では現金よりも目玉や血液を賭ける客の方が多いのだからこうした小部屋に吸抜筒や採血用具を用意していない店の方が珍しく、今日はその客がたまたま死人だったというだけなのだ。続けて男の左目に吸抜筒をあてがう俺の様子を見ながら、峨嵋刺が残念そうに呟いた。

「まとまった脂肪でも採れりゃあ、もう少しは金になるんだけどもね」

「人の脂肪ですか」

「ただの脂肪じゃだめだね、麻剤まざい中毒にかかって長いこと経つような酩酊者ドランカーのが欲しいんだ。それも皮下脂肪をたっぷり蓄えてぶくぶくに肥えているのが」

 峨嵋刺のつぶやきに耳を傾けながら、俺は工業棟の電機地下街にたむろしているような身体中に体液パイプや神経ケーブルを張り巡らせた身体改造家モディフィケーターどものことを思い浮かべていた。人工臓器の拒絶反応を抑えるために常用している麻剤のせいでやつらの血液は濃緑色にくすみ、いくら透析機に掛けたところでとても売り物にはならないので身体改造をしているやつらの来店はお断りというのがここ一帯の賭け酒屋での暗黙の了解である。やつらの死体になんの価値があるのだろうか。怪訝そうな顔をする俺に、峨嵋刺はぐっと声を抑えて囁いた。

「人体ってのは面白いやつでね、きつい毒物を長期にわたって摂取し続けてると身体のほうがそのうち毒物に適応しちまうのさ。麻剤の中毒成分は脂溶性だろう、肝臓で処理しきれなくなった化学物質はそのうちにだんだん皮下脂肪に溜まっていって、そうなった人間は全身青黒くむくんだようになるからすぐ分かる」

「それをどう使うんです。まさか石鹸にするわけでもないでしょう」

「重度の中毒者の脂肪から何が採れると思う? ここが不思議なところでね……蓄積された麻剤の中毒成分が何かのはずみに体内で再結合するんだろうかね、すっかり青黒くなった脂肪をうまく精製してやると……グラムあたり何千円にもなるような、とびきり優れた代用麻剤になるんだ。面白いだろう、麻剤の中毒者がその麻剤になっちまう。そういう目で見ちまうと、酩酊者ってのは僕にとっては金をくるんだ皮袋だね」

 話にのめり込む峨嵋刺の目は徐々にあやしい光を帯びつつあるようだった。吸抜筒を押し付けている男の左目からぶつぶつと赤い泡が沸き立っている。ハンドルを引く力が強すぎるらしい。

「昔はずいぶん稼いだもんだ……麻剤を吸いすぎて左右も分からなくなったようなやつは雑医の仲間うちじゃ金人がーにんなんて呼んでてね、表向きはみんな親切ごかして自分の療場りょうばの名刺と一緒に痛み止めなんかを処方するんだけど、そのうちにころっと逝っちまったらね、それはもう皆が目の色を変えて……きみ、酩酊者の生皮を剥いだことあるかい、ないだろう、綺麗に剥いでよくなめすと珠海豚たまいるかの皮革そっくりになるんだから、あとは腕だの足だの余計なものは取っちゃって、適当な刷り屋に頼んで鑑定書を付ける……脂肪は麻剤になるし……どんなろくでなし・・・・・だろうが死体になりさえすればその途端に値千金だよ、皮肉なもんじゃないか」

「その金はどうしたんです」

 ぐっとハンドルを引いた途端にコルクを抜くような音を立てて左目が抜けた。どうやら透過シリコンで膨らませた義眼らしい、筒の中でゴム玉のように跳ね回るそれを見て峨嵋刺があからさまに嫌な顔をした。

「ほんの数ヶ月で元の暮らしだよ、どうせあぶく銭だからね。それに重度の麻剤中毒者なんて大抵は密売組織とべったりなんだ、死体を始末したばかりに繋がりを疑われて自警団にしょっぴかれた雑医なんて数えきれないよ。結局、誰かそれなりに信頼できるやつの隣でおこぼれにあずかるってのが一番手堅いんだ」

「この義眼はいくらになりますか」

「売れるわけないだろう、そんなもの」

 俺の手から吸抜筒をもぎ取るなり、峨嵋刺はその中身を足元のくず箱へ放り込んで蓋を閉めた。ちらりと覗いたくず箱の中には他にも大小様々な白い玉がぎっしり詰まっているようで、いつから溜めているものかは知らないが少なくとも五人や十人の量ではない。

「出来のいい義眼が出回りやがるせいで、よくよく調べてから抜いてみなきゃ本物かどうか分からないんだから雑医の手間ってのは増えるばかりなんだよ。君が常連と酒を飲んでいた間に僕が小部屋で何をしていたか、この際じっくり教えてやろうか」

 普段は自分の仕事を手放したがらない峨嵋刺が今日に限って俺に目抜きを任せた理由を俺はそこはかとなく理解した。しかし峨嵋刺が勝手に思い込んでいるように俺もただ客と遊んでいたわけではなく、それなりに愛想よく振る舞って接待営業のひとつでもしてやらないとこういう仕事はいつ誰にどこで潰されるか分かったものではないというのが俺なりの言い分である。店で死人が出たとなればなおのことで、よその店で同じようなことが起こるとわずかばかりの報奨金目当てに丹本自警団へ駆け込むような人間もざら・・にいるのだ。そうなってしまうと店主は店へ踏み込んできた自警団員に安くない賄賂を握らせるか、そうでなければ店を畳んでどこか遠くへ夜逃げをするほかなくなってしまう。まさかそんな目に遭いたくはない。

「客に飲ませた酒の分は俺が自腹を切りますよ、ですからそう怒るのはよしてください。今日はお疲れ様です、本当に。あとで一杯やりましょうか」

 俺は峨嵋刺ほど器用な人間ではないことは確かだが、かといって峨嵋刺に俺ほどの人当たりの良さはない。どちらが欠けてもこの店は成り立たないのだ、俺が折れてやる以外に峨嵋刺の気持ちをうまくなだめる方法はないということを長年の付き合いで俺はいやというほど思い知らされていた。しばらく俺の顔を睨んでいた峨嵋刺だったが、不機嫌そうな顔はそのままに前掛けをおもむろに外すと大きく伸びをした。

「歯はどうするんです、もうよすんですか」

「君がいま一杯やるって言ったばかりだろう、続きはその後さ。少し腐って歯の根がゆるんだ方がやりやすい、僕もたまには客と遊んでやるか」

 大きな仕事を片づけた峨嵋刺の頭の中にはもう酒のことしかないようで、俺のことなど知らん顔でさっさと小部屋から出ていってしまった。俺も峨嵋刺の後を追いながら振り向いてみると知らぬ間に男の身体は再びビニールシートで覆い隠されていた。だらりと垂れた生白い腕が青いシートの下からわずかに覗いていたが、裸電球の灯りを落とすと男の身体も手術台も闇に紛れてすぐに何も見えなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

がまのあぶら 江古田煩人 @EgotaBonjin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説