トーンネル

 ぼくとハルちゃんの家は隣同士だった。


 だからいつも一緒にいたし、小学生になってからも、帰りに寄り道をして野原で遊んだりもする。


 今日だって、日が暮れてお互いの顔がわからなくなるまで、オオバコ相撲に夢中になっていたんだ。


 「ヒロ君、もう帰ろう」


 ハルちゃんが腰を上げ、ズボンの泥を払いながら言った。


 「やだよ。もう一回やってからにしようよ」


 「だってそう言って、もしあたしが勝ったら、また『もう一回』って言うでしょ。どうせ、また来るから」


 「ちぇ……」


 ぼくが、持っていた草を放ってバス通りの方へ行こうとすると、ハルちゃんがぼくの手をギュッと握った。


 「ねえ、たまには違う道から帰ろうか?」


 「違う道って、向こう側の?」  


 「うん。あっちの方があんまり車も通らないし、危なくないよ」


 返事をする前に、ハルちゃんがバス通りとは反対の方に走り出したから、ぼくも引っ張られて駆け足になった。


 「ハア……ハア……ねえ、こっち坂道になってんじゃん」


 「うん。でも、もうこっからは平らだよ。こっちで良かったでしょ?」


 その道は、ハルちゃんの言う通り車はオート三輪が一台通ったくらいで、村からの灯りもちゃんと届いていたから、少しも怖くはなかった。


 「ほら、そこ抜ければすぐだよ」


 ハルちゃんの人差し指の先に、黒くて大きな穴が見えた。


 それは、村にふたつあるトンネルのうちのひとつだった。


 「あそこ抜けるの……?」


 「怖いの? そんなに長くないよ」


 「こ、怖かないよ」


 ぼくは、ハルちゃんから手を離し先に歩いたけど、トンネルの中は思った通り真っ暗だったから少し心配になった。


 「ヒロ君!」


 突然後ろで声がしたので、ぼくは腰を抜かしそうになった。


 「な、なんだよいきなり!」


 「ほら、声がなんか変でしょ?」


 「だ、だってトンネルの壁から跳ね返ってきてるからだよ。前にお父さんから聞いた」


 「なんだ、知ってたのか……」


 ハルちゃんのつまらなそうな声が聞こえたあと、隣で足音がした。


 「え、先行っちゃうの?」


 「だって、ほら」


 声しか聞こえないけど、きっとハルちゃんはまた人差し指を指してるんだろう。


 だってトンネルの向こう側に、誰かいるのが分かったから。


 「おかえりなさーい」


 それは、ユキちゃんの声だった。


 「お姉ちゃん、ただいまー」


 ハルちゃんがそう言ってトンネルから出て、ぼくもその後に続いた。


 「また寄り道してたんでしょ」


 ユキちゃんは屈んで、ハルちゃんの頭を撫でた。


 「夕飯出来てるよ。そうだヒロ君も食べてきなよ、おばちゃんには言っとくから。今日はね、あたしが作ったんだよ」


 「え、ユキちゃんごはん作れるの?」


 「そりゃ中学生になったからね、料理くらい出来ないと。と、言っても、殆どお母さんにやってもらったんだけどね」


 ユキちゃんは、恥ずかしそうに笑って言ったあと、ぼくたちを道の端っこに寄せた。


 さっきぼくらを追い越して行ったオート三輪が戻ってきて、そのライトの灯りでユキちゃんの顔がハッキリと見えた。


 やっぱりユキちゃんは、酒屋さんに貼ってあったポスターのアイドルの娘に似てると思った。


 「フキノトウにタラにワラビにコゴミ」


 歩きながらユキちゃんが、突然呪文みたいな言葉を喋った。


 「呪文じゃないよ。晩のおかずだよ」


 「え、角の家のおじちゃんがくれたんだね!」


 ハルちゃんが嬉しそうに言った。


 「うん、また山で採ってきたんだって。ヒロ君も知ってるでしょ?」


 「うん……」


 とは言ったけど、そのおじちゃんのことは全然思い出せなかった。


 でも、そのあと食べたタラとかコゴミとかはおいしくて、お腹いっぱいになったぼくは

ユキちゃんの膝枕で眠ってしまった。


 「ヒロ君の甘えん坊」


 そうハルちゃんが言った気がしたけど、それは眠る前に聞いたのか、夢の中で聞いたのかはよくわからなかった。


          ※


 「これ、角の家のおっちゃんがくれたの?」


 玄関を出ようとした時、土間に置いてある山菜が目に入った。


 「そう、うちと隣にくれたの。ユキちゃんが出ていく日でもあるからね。あんた、ちゃんとお礼言った?」


 母さんが、流しで洗い物をしながら訊く。


 「うん、言った。行ってきます」


 嘘だった。まだ何も言っていない。本当は今日部活が終わり急いで帰ってきたあと、思いの丈をぶちまけるつもりでいるのだ。


 「サッカー部なのにやることは演劇部だよな」


 先輩は誂うように言ったけど、ギリギリの状況じゃないと決心がつかないからでもあったんだ。


 夕方、バスを降りて野原を突っ切り坂道を駆け上がる。村の東側のトンネルを抜ければ、十年前のあの日に戻った気がした。


 「今ならきっと言える!」そう確信したのだけれど……。


 「え? もう行っちゃったの?」


 「そうなの。あの子ったら電車の時間、間違えてたみたいでね、ほらこれ。でもさっき出たばかりだから、もしかしたら……あ、ヒロ君!」


 俺は無我夢中で坂道を駆け下りた。おばさんが持っていた時刻表の通りなら、このまま突っ走れば、発車時刻までにはまだ間に合うはず。


 だが、部活で体力を消耗していた俺は、駅へと通じる西側のトンネルが見える頃には、息切れを起こしていた。


 「おかえりなさーい」


 トンネルの前でへたり込む俺の耳に、聞き覚えのある声が入ってきた。


 「う、うそ!」


 驚いて声をあげると、今度は恥ずかしそうな笑い声が聞こえてきた。


 間違いない、トンネルの中で俺を待っていたのは……。


 「あたしだよ」


 ボンヤリとした月明かりに照らされたのは、ヒラヒラと舞う花弁とひとりの少女だった。


 「ユキちゃ……じゃない! なにしてんの!」


 「見送ってきたとこ。そんな反応してくれるとは、演劇部冥利に尽きるというものよ」


 「おま……」


 久し振りにマジマジと見たハルの顔は、彼女の姉にちょっとだけ似ていた。


 「大丈夫だよ。お正月とかには……」


         ※


 「なんだ、知らなかったのか」


 「うん。だから、てっきりエチュードの成果でも出たのかと思ったんだけど」


 妻が、息子の頭を撫でながら言った。


 「昔、親父から聞いた事があったんだ。西側にあるトンネルの中では、発した声のトーンが変わる不思議な現象が起きると。だから"トーンネル”とも呼ばれているって。でも、状況が状況だったから、そんな事も忘れていたよ」


 「そうだったんだ……あ、寝ちゃった。こう見ると、本当に昔のパパにそっくりね」


 「ああっ、また膝枕してる。お兄ちゃんの甘えん坊!」


 庭から縁側に上がった娘が言った。


 「その言い方、本当に昔のママにそっくりだな」


 「パパ、これあげる」


 娘は居間まで来ると、私の腕を取った。


 「さっき、お婆ちゃんとトンネルまで散歩した時に拾ってきたの」


 「そうか、ありがとう」


 桜の花弁が数枚、私の掌に乗っていた。


         ※


 その日の晴れた午後、息子と娘を乗せた電車が時刻表通りに出発した。


 「美味かったな。蕨の炊き込みご飯にタラの芽の唐揚げに、御浸しは何だっけ?」


 「こごみ。武もお代わりして食べてたね」


 「ああ、あれなら旦那も満足だろ。君の教え方が良かったんだね」


 「あたしだって、母さんと姉さんに教えてもらったおかげ」


 そう言って妻は改札口から離れ、私もその隣に並んだ。


 「なあ、たまには違う道から帰ろうか」


 「違う道って、旧道の方?」


 「ああ、トーンネルを抜けていきたくなったんだ」 


 「そう……久し振りね」




 「お父さん、今日は本当は元気なかったでしょ? やっぱり真美がいなくなると寂しい?」


 トーンネルに入り声が高くなった妻は、幼い頃の娘そっくりの声で訊いた。


 「母さんこそ、息子のひとり暮らしが心配かい?」


 私は一瞬声を詰まらせた後、そう返した。


 妻の返事は無い。恐らく今の私の声も、幼い頃の息子とよく似ているのだろう。


 「寂しくなる?」


 娘の声が私に訊く。


 「寂しくなるかい?」


 息子の声で妻に訊く。


 それから私達は、暗がりで判然としない互いの表情を見つめ合った後、同じ言葉を口にした。


 「また……」




 トーンネルを抜けると、ふたりの頭上に桜の花弁が舞い降りてきた。


 私も妻も元の声に戻ったが、その後ろで「また来るから」と言う子供達の声が、ずっと反響しているような気がしていた。




 (了)


初稿∶SSG 2020/03/16


第二稿∶カクヨム 2021/11/13

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