2.どなたにもお手を触れませんように

 執行部の入部試験に落ちた俺だが、無事に警察官の試験に受かった。今は交番勤務で、地域の治安を守っている。と言ってもここは都心部から離れており、治安のいい町なのでとても穏やかな仕事だ。最近したことと言えば、財布の落とし物をもとの持ち主に返却したことだろうか。平和なことはよいことだ。

 警察になってから数年後、大学時代から交際していた彼女と結婚した。もちろんこの能力は彼女にも秘密にしている。幸せに暮らしたいのならば能力は誰にも知られてはいけない、これは俺にとって呪いのような言葉だった。

 順風満帆、そうとしか表現できない日々を送っていた。これでいい、これで俺は幸せだった、これでよかったのだ。

 けれど幸せや平穏というものは、いつだって理不尽に、唐突に終わる。拾得物の管理程度しか業務のなかったこの町で、無差別殺人という凄惨な殺人事件が起きた。すでに五人も殺されているが、犯人の検討はまったくついていない。男なのか、女なのか、そもそもにこれは無差別なの、かすらもだ。交番勤務だか曲がりなりにも警察官の俺も、夜間の見回りに参加することになった、犯人は捕まえられなくとも、せめて犠牲者が出ないようにと俺を含め、皆は必死だった。

 「お巡りさん、こんばんは」

 自転車での見回り中に、声をかけられた。たしかこの人は、隣県の大学に通っていると話していた女子大生だ。彼女は朗らかな子で、すれ違うたびに必ず挨拶をする子だった。自転車を止め、俺は女子大生に話しかける。

 「こんばんは。今日はずいぶん遅いですね」

 たしか彼女はいつも夕方ごろに交番の前を通り、俺たちへ挨拶をしていた。時刻は十二時を過ぎており、終電ぎりぎりだっただろう。

 「えぇ、サークルの飲み会があって」

 そう言われれば、女子大生の頬は暗がりだがほんのり赤いことが分かった。しっかりと受け答えができていることから、飲みすぎてはいないだろう。

 「殺人事件の犯人がまだ捕まっていないので、気を付けて帰ってくださいね」

 「はい。では、さようなら」

 女子大生と別れで、自転車をこいで見回りを再開してすぐだった。命の危険を知らせるような悲痛な悲鳴と「助けて!」という先ほどの女子大生の声が聞こえた。まさか、そんなことはと平和ボケをしていた俺は、急いできた道を引き返し、女子大生を探す。全力で自転車をこぎながら一つ目の曲がり角を右に曲がれば、腹から血を流した女子大生が泣きながらこちらへ走っている姿が目に入った。

 「お巡りさん、助けて! 助けて!」

 俺は自転車を乗り捨てて、女子大生を自分の後ろへと移動させる。女子大生は泣きながら俺の前方を指をさした。彼女に指の先には、視点の定まっていない目をしてへらへらと笑いながらこちらへふらふらと歩いてきている男がいた。

 「あの人が突然刃物で刺したんです!」

 刺された腹が痛いだろうに、女子大生は大きな声で言った。俺はすぐに無線で応援を呼んだ。恐怖で手が震えていたが、ここで立ち向かわなくては、あの日ヒーローに憧れた俺が報われない。

 「今すぐ刃物を地面に置き、両手を頭の後ろに置きなさい」

 相手を刺激しないように落ち着いて言うが、男はへらへらと笑うだけで俺の指示に従う様子は見せない。念のためすぐに使用できるように腰にある警棒に手を伸ばす。あまり相手を刺激したくはないが、もし男がこちらに攻撃してきたらそれなりの対応はせざるを得ない状況だ。このまま応援がくるまで膠着状態でいられれば――と思っていたときだ。

 「うあぁあ!」

 突如男が叫び、刃物を振りかぶりながらこちらへ突進してきた。これはだめだ。すぐに俺は警棒を手に取り、男の手を目掛けて振り下ろす。かなりの力で叩いたため、鈍い音が男の手からしたが、男は刃物を手放すことなく俺へ向けて振り回し続ける。女子大生を巻き込まないようにするため、手荒ではあるが肘を使って勢いよく俺の後ろへと遠ざける。

 ひとまず彼女の安全は確保できただろうか、腹の怪我は大事には至ってないだろうか。振り返って確かめている時間はない。警棒は効きそうにないと判断し、凶器に使われないように遠くへ投げ捨てる。そして俺は刃物を振り回しながら暴れる男の手を掴み、しばらくの格闘の末に刃物を奪い取ることに成功した。刃物を取り返されぬようやはり遠くへ投げ捨て、なおも暴れる男を押さえつけて手錠をかける。すると観念したのか、男はぴくりとも動かなくなった。

 ――よかった。

 これ以上犠牲者を出さずにすんだことに安堵する。これでまた平和な日々に戻れるんだ。

 「もう大丈夫ですよ。応援も来ますし、すぐに病院に行きましょう」

 俺はできる限りの優しい笑みを浮かべて女子大生に言った。すると女子大生はよほど怖かったのだろう、体を小さく震わせ、大きく目を開いてこちらを見ていた。

 「?」

 その目はまるで、恐ろしいものを見ているかのようなものだった。

 「どうかしましたか?」

 「ひっ」

 女子大生に近付こうとしたことろ、彼女は息を吸うような悲鳴をあげて投げ捨てていた刃物へ飛び付くように拾い、こちらへと向けた。え、なんで。警棒で叩いたことがよくなかったのだろうか。

 「こないで! この化け物!」

 化け物? 俺は何を言われているんだ?

 女子大生の言葉に困惑していると、女子大生は続けざまにこう言った。

 「その人を元に戻しなさいよ!」

 その人? 元に戻す? まさか、と冷や汗が背中を伝う。嘘だ、そんなことない。違う、だって手袋をしていた。違う違う違う。己の想像を必死に否定しながら、俺は押さえつけていた男へと視線を移した。

 男だったそれは、とても大きく、美しいダイヤモンドになっていた。

 なんで、どうして。手袋はダイヤモンドになっていない。そもそもダイヤモンドにしてしまったもの越しに、さらにダイヤモンドにするほど強力な能力ではない。では、なぜ。男を押さえていたこの姿勢から、ダイヤモンドへ変えたのなら思い付くのは一つだけだ。手のひらを見ると、手袋の一部がぱっくりと切れていた。おそらく男と格闘した際に破けたのだろう。あぁ、そしてその破れた部分が男に触れてしまったんだ。

 俺の能力は、素手で触れたものを無作為にダイヤモンドへと変えてしまう能力。戻しかたなんて、知らない。だから元に戻すなんてできやしない。俺はこの男を殺してしまったのだ。

 俺が呼んだ応援が来るまで、呆然と女子大生の怒声を聞いていた。

 神様。俺はまた、人を殺してしまいました。


 能力者であることを知られてしまい、退職させられた。人を殺したのだから、仕方がない。妻とも離婚した。俺の能力が恐ろしく、いつか自分もダイヤモンドにさせられるのかと思うと恐ろしいと言われた。仕方がないことだ。

 すべてを失った。誇りであった仕事も、たった一人の家族も自分の過失で失った、自業自得であり、これは仕方がないんだ。

 俺にはもうなにも残っていない。ならばもう、何も怖くない。

 それでもただ一つ心残りがあるとするならば、やはりヒーローになりたかった。あの日俺を救ってくれたようなヒーローに。でももう無理だ。仕方がない。

 「仕方がない、仕方がない」

 顔を覆って泣けば、手のひらに触れた涙が小粒のダイヤモンドへと変わっていく。

 「仕方がない。全部全部、仕方がないんだ」

 いつの間に口癖になってしまった諦めの言葉。何度も「仕方がない」と呟きながら、俺はマンションの屋上から飛び降りた。

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