第02話 前世の記憶
住宅街にある小さな公園に、その光景はあった――――
桐谷奏斗、九歳。小学四年生。黒髪黒目で色白な、年相応に無邪気な子供。奏斗は幼馴染の詩葉と共に遊びに来ていたのだが、遊んでいる途中で、植えられている広葉樹の上に降りられなくなって怯えている子猫がいることに気付き、今まさに奏斗が幹を登って助けようとしている最中だった。
「か、カナ君危ないよ……!」
木の下に佇む詩葉が不安げな眼差しを向ける先で、もう少しで子猫に手が届きそうな位置まで登った奏斗が子供特有の恐れを知らない無邪気な笑みを浮かべる。
「大丈夫だって。ほら、あとちょっとで届くし……っと」
伸ばした手が届きそうで届かない。奏斗は体勢を低くしながら、まだ自分の体重に耐えられるであろう位置まで枝を伝ってゆっくりと子猫に近付いていく。そして、バランスを崩さないように恐る恐る左手を伸ばし、子猫に触れた。心の中で、今助けてやるからな~、と呼び掛けながら子猫の後ろ首を掴み上げることに成功した。
「よしっ」
小刻みに震える子猫を早く安心させてあげたくて、奏斗は無意識の内に両手で包み込むように持ち替えて自分の身体に引き寄せ、体温を伝える。しかし、それは地面に降りてからすべきことであった。両手で子猫を抱える――すなわち両手を木の枝から離してしまっているということ。奏斗がバランスを崩して木から落ちるのにそう時間は掛からなかった。
「うわぁあああっ!?」
「カナ君ッ!!」
詩葉は肩を竦めるように身体を強張らせて叫ぶ。奏斗は地面に落ちる寸前で何とか子猫を庇うように胸に抱いた。そして、自身を緩衝材とすべく、身体を捻って背面から地面に落ちる。
「いっ……!?」
背中に重たい衝撃と激しい鈍痛が走る。肺の中の空気が一気に押し出され、一時呼吸を忘れる。視界が明滅し、詩葉が駆け寄ってくる足音を聞きながら目蓋を閉じて――――
………………。
…………。
……。
◇◆◇
頭の中に大洪水の如き勢いで知らぬ記憶が――しかし、確かに自分のものの記憶が流れていく。それはおよそ十八年間分の情報量。前世の記憶だ。シナプスが焼き切れそうになりながらも、ようやくその記憶の終わりが見えてくる。
親が敷いたレールの上を進むだけの人生を歩んできた自分は、大学受験の試験会場で見知らぬ青年に刺された。
正直、逃げることも防ぐことも可能だった。皮肉にも親に言われた通り身に付けた高い運動能力と武道の経験があったお陰で、どうとでも対処出来た。しかし、身構えた寸前で脳裏に過ったのだ。
――このまま生きている必要があるのだろうか、と。
その一瞬の迷いは明らかな隙を生み出し、狂った青年の突き出してきた包丁の切っ先が、構えた腕の隙間をすり抜けて腹部に触れ、そのまま押し込まれて突き刺さった。
まだ突き刺さったままであれば何とかなったかもしれない。しかし、青年はそのまま包丁を抜き取り、叫びながら走り去っていった。
腹から漏れ出るのは、血、血、血。深紅の鮮血が止まることを知らずに溢れて、激しい立ち眩みのような感覚と共に視界がブラックアウト。周囲の混乱の声も徐々に聞こえなくなり、そのまま意識は深いところへ沈んでいった――――
◇◆◇
「――君っ! カナ君っ!!」
(……? 誰か呼んで……?)
「お願い起きてよぉ~!! やだっ、カナ君死んじゃやだぁあああ!!」
(泣いてる……? 叫んでる? 俺を――)
地面に仰向けに倒れていた奏斗は眉をピクリと動かしたあと、薄っすらと目蓋を持ち上げる。すると、自分の顔を覗き込むようにして泣きじゃくる詩葉の姿が見えた。詩葉の瞳からポタポタと大粒の涙が降ってきて、奏斗の顔を濡らす。
「……ん?」
「……っ!? カナ君!? カナ君起きたっ!?」
詩葉がバッと目を大きく見開き、潤んだ灰色の瞳で真っ直ぐ見詰めてくる。目覚めたことに対する嬉しさと、無事かどうかわからないことへの不安が混同した、曖昧な表情を浮かべている。奏斗は目の前の詩葉が誰だかわからなそうに二、三度瞬きをしたあと、我に返ったようにカッと目を大きく開け広げ、勢い良く起き上がった。そして、腹を押さえて見下ろす。
「――はっ!? って、え? 血……血が出てない。刺されてない?」
(あれ? さっき腹を包丁で刺されて血が……って、は? え? 何この身体。子供? 俺が?)
視界に映る手を握ったり開いたりしてみる。自分の意思で動いていることが確認できる。まさしく自分の手だ。間違いない。そして、まさしく子供の手だった。間違いなく。
奏斗は大学入試を迎えた高校三年生であるはずの自分が何故か子供になっている不可思議現象を目の当たりにしたところで、無意識下に置かれていた背中と後頭部の痛みを自覚する。
「いっててぇ……」
「か、カナ君っ!?」
「え? あ、はい?」
カナ君――と、一度だって呼ばれたことのないあだ名であるはずなのに、不思議と自分のことだと認識した奏斗は、声のした方向へ驚きながら振り向く。そこには、両の瞳一杯に涙を湛えた詩葉の姿があった。見慣れたはずの幼馴染の姿。しかし…………
「カナ君大丈夫なの!? 怪我は……!?」
「……えっと、誰?」
「……」
「……」
「じゅ……」
「じゅ?」
「重症だぁぁあああうわぁぁあああああああんっ!」
詩葉の涙のダムが決壊。止まることを知らない涙の大洪水が、次から次へと目から溢れ出してくる。急に泣き叫ばれてビックリした奏斗は、反射的に肩を竦めて耳を塞ぐ。そして、詩葉が落ち着くまで待ちながら、奏斗は状況の整理を始めた――――
◇◆◇
体感的に三分くらいの時間を置いて、ようやく詩葉が落ち着きを見せ始めた頃、奏斗の方でも前世の記憶と今世の記憶の擦り合わせ、そして整理がほぼ完了していた。
(俺は試験会場で刺されて死んで……前世の記憶を引き継いで、名前までも同じ桐谷奏斗として生まれ変わった。タイムスリップして子供に戻ったわけでもない。それは、前世の記憶とは別にこの土地で過ごしてきた九年間の記憶があるのが証拠だ。となると、転生……?)
「うっ、ひくっ……うぅ……」
奏斗は泣き止みつつある詩織へ視線を向ける。前世の子供時代の記憶の中に、姫川詩葉という少女はいない。しかし、確かに前世の記憶の中には姫川詩葉というキャラクターは存在した。そう、奏斗にとって唯一の生き甲斐とも呼べた有名美少女ゲーム『ガールズ・ガーデン』――通称GGに登場するヒロインの一人だ。そして、奏斗の最推しヒロイン。
GGの舞台は高校で、描かれる詩葉の姿も高校生だ。そして、今現在奏斗の目の前にいる少女は幼く、明らかに小学生だが、その容姿は確かにGGに登場する姫川詩葉の見た目を幼児退行させたらそうなるであろうというものだった。とすると、ここは、この世界は――――
(GGの世界、なのか……!?)
奏斗はゴクリと喉を鳴らし、落ち着き始めた詩葉に恐る恐る尋ねる。
「え、えっと……姫川詩葉、だよな?」
「うっ、うん……そうだよ……?」
涙を手で拭っていた詩葉が、目元を薄っすらと腫らした顔を向けてくる。そして、眉をハの字にして、不安そうに顔を近付けてきた。
「私のこと、忘れちゃったの……カナ君……?」
「――ッ!?」
奏斗は戦慄して息を呑んだ。その、目の前の少女の可愛らしさに。不安と心配、そして寂しさが混ざったような上目を向けてくる詩葉の姿がどうにも心臓に悪く、奏斗は顔を引きつらせる。
(こ、この歳からこの可愛さなのかっ!? と、尊いぞ詩葉……っ!!)
「ねぇ、カナ君ってば!?」
「あぁ、悪い。忘れてないぞ、大丈夫だ」
「ホント!?」
「ほんとほんと。ただちょっと……いや、かなり身体痛いけど」
「そりゃそうだよぉ! 木から落ちて、ちょっとの間気絶してたんだからぁ!」
心配したんだから! と頬を大きく膨らませて服の端を摘まんでくる詩葉。奏斗は詩葉を宥めながら、内心で苦笑いを浮かべていた。
(確定だ……コレ、マジでGGの世界に転生してるわ……)
奏斗が前世の記憶を取り戻した瞬間であった――――
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