パンデミック

 ある国の地方都市の中心から数キロの大学の敷地内にその研究所があった。

 「国立法人微生物研究所」国内外から集まった研究者が細菌からウイルスの解析とワクチンの研究を行っている。

 当然だが危険な新種の研究も対象なのでセキュリティーなどの管理は徹底されている。出入り口には警備員、入室は2重3重のドアと指紋認証と暗証番号。監視カメラとセンサー、滞在時間と導線も記録されている。

 

 3階奥にある部屋に2人の研究員が昼休憩をしていた。


 「なあ新しく先月着任した所長とはあれから話ししたかい」

 

 この研究所に来て5年目で30歳になる石川田が壁際に立ち、紙コップのコーヒーを飲みながら近くのテーブルの椅子に座っている髪谷に話しかけた。


 「イヤー無いな。向こうはほとんどの時間所長室に居るか、不在の時は隣の大学の学長のところに行っているという噂だし」


 そう言いながら手元の書類を眺めていた。髪谷は石川田より1歳上だが研究所では同期になる。


 「そもそもあの所長はまだ36歳の女性なのにどういった成果や実績でここに来たんだ?」


 石川田は外に聞こえ漏れてもいいくらいな声で髪谷に尋ねた。

 

 「なんでも専門は土壌細菌の培養と遺伝子解析らしいけど、論文などはこれといった評価はされていなかったような・・」


 書類から目を離して石川田に答えた。


 「やっぱりあれか?確か学長の5番目の再婚相手だという噂は本当なのかな」

 

 学長は54歳になる白髪で細身、見た目も実績も立場にふさわしい評判だということは知っているが、学内ならともかく、研究所の職員では会う機会も無い。誰もが漏れ伝え聞く噂程度のことしか知らない。

 

 「つまりあれだろ、学長の奥さんだから名目上のお飾り所長でも問題ないから座らせておく贔屓人事」


 石川田はそう言いながら椅子に腰掛ける。


 「現場を指導しているのは副所長と各主任だからまあ問題ないだろうな。所長個人の研究はほとんどしていないようだし、講義も受け持っていないらしい」

 

 この時の2人は所長と大学の思惑を知るはずもなかった。




 所長就任から1ヶ月が経った週末の夕方、各個人宛にメールが届いた。送信者は所長だった。文面はこうだった。


 「当研究所の来年度予算が大幅に削減されたことにより人員削減とそれにともなう研究内容の絞込みをします。

 以下の研究と関わる職員は年度末をもって契約が終了します


 それを読んだ石川田は「え!」と声を漏らした。

 自分の研究が対象リストの10人に名前が載っていた。

 

 「嘘だろ」


 石川田の研究は風邪症状をおこすウイルスを自然界にいたコウモリなどからネズミに感染させて遺伝子変異の研究をしていた。

 主にコロナ型のウイルスで、一般的な風邪症状の3割はそのタイプだ。

 インフルエンザに似ているが季節性はなく緊急性のあるものではない。

 だけど稀に強毒性というかインフルエンザより肺炎になる確率が高くなる。

 

 昼休みの休憩室に職員のほとんどが集まっていた。30名ほど日本人がほとんどを占めるが、ドイツとインドから1名づつアメリカからの3名も一緒に居た。

 全員がそれぞれ知りえた情報を交換している。3人ほどが話しに加わらず考え込んでいる。

 選別の条件はあくまでも推測だが、緊急性の有無、薬品の開発が近いなど。

 石川田のような研究は地道な基礎研究なので反論が出来ない。

 すぐ結果が出てビジネスに直結するような将来性が無いものは切り捨てられたようだ。

 所長などに詳しい経緯を直談判した職員もいたようだが、アポイントすら取れていないようだ。所長が研究所に居ればタイミングを見計らって会うことも可能かもしれないが(隠れて逃げないかぎり)出勤すらしていないようだ。

 退職リストに載った職員のほとんどは学生時代の友人や教授のツテを頼ったり、残った職員に紹介をお願いしていた。

 ただ石川田だけは一人あきらめきれない気持ちで一杯で次のことなど考えられない状況だった。

 

 「俺の研究は確かに緊急性も金儲けもできないものだが、けっして無駄なことはしていないはずだ。だいたい風邪の特効薬は発見されていないんだ。成し遂げればノーベル賞ものなのは誰でも知っているはずだ」


 ただ石川田も知っている。この国は基礎研究に税金を使わなくなったことを。それはどの研究分野でも同じであること。最近ではノーベル賞研究の施設でも大幅に削減されていると報道があったばかりだ。


 研究室の閉鎖にともなって備品の処分が始まったのはすぐだった。

 細菌研究なので徹底した管理のうえ全て廃棄される。

 石川田は処分リストを書いている時に考えた。

 実験用の動物として飼育していたハツカネズミは100匹以上いる。 

 ここには感染させている個体が半分以上いる。残りは繁殖用として別の部屋にいる。

 石川田はネズミを大学構内に持ち込もうと考えた。あの所長と学長に一泡吹かせようと、とくに女性ならいきなり廊下にチョロチョロしたら腰を抜かすだろう。所長の専門はネズミを使わないから慣れていないはず。

 ただここから持ち出すのは簡単じゃない。危険なウイルスなどを扱っているのだから当然だ。

 しかしそれは研究者自身の性善説の信用と空気フィルターなどの設備的なものに頼っている。備品などを隠し持っていてもチェックはされていない。ただし入退出時にはクリーンルームや防護服の処分などで隠すことは不可能だ。

 盲点はある。下着のパンツの中だ。

 石川田はさっそく実行した。

 隠したのは雄雌の2組4匹。当然感染済みのネズミだが、直接接触しない限り、もしくはしたとしても通常の風邪になるだけだ。

 学長や所長とはじめてするいけすかない連中に胡椒をふりかけてクシャミ鼻水に苦しんでくれればもうけもの。

 子供のような悪戯程度と石川田は考えていた。

 

 ネズミは2箇所に放した。1組は大学構内の屋上、もう1組は食堂のゴミ捨て場にした。白いネズミは外では目立つが校内では案外も逃してしまうはずと考えていた。ゴミの中なら隠れて繁殖しやすいし、学長などの部屋は通年空調が効いていて自然とネズミは集まるはずと。

 

 しかし石川田が失念していたことが1つあった。感染性の細菌は世代が代るほど変異して人間に感染しやすく強毒性を持つことを。

 研究者では常識のことだ。しっかり管理して都度処分していれば問題はないが、自然に放たれて複雑に遺伝子が交雑すると予測など困難だということを。 

 しかも在来のネズミと繁殖してしまったらもはや止めることはできない。活動域は爆発的に広がりはじめた。


 年末の寒い時期、風邪が流行り始めた。ただ肺炎の患者が例年に無く多い。しかも普通の肺炎ではなく抗生剤の効き目が悪い。

 特徴として喘息のように肺の気管に粘液のようなものが詰まって呼吸困難となっている。抗生剤が効くような炎症なら投与から1週間もすれば安定するはず。

 患者には酸素マスクでしか対応できず、体力が無いうえに既往症のある高齢者から亡くなっていった。

 

 石川田は病室のベッドにいた。数日前から微熱が続き昨日には38度を超えるようになって診察を受けた。

 午前には歩けたのだが昼近くには立ち上がることさえもできなくなり、そのまま入院となった。

 痰が詰まるような苦しい呼吸。考えることも眠ることもできない高熱に見舞われている。

 薄れている意識の中で石川田はうっすらと静かに

 「自業自得なのか」

 自分の研究していたマウスと似たような症状になった自分と重ねていた。

 2日後の夜明け前に石川田は息を引き取った。

 感染死亡者数万人の一人に過ぎない患者として記録されただけで。

 


 

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