第1話 川辺での電子会話
敬欄高等学校、通学路————————
『聞いてくれ、俺はマントルの下の力持ちになりたいんだ』
心地良いそよ風が頬を撫で、これから始める新生活に心躍らせる。
河川に面した通学路、傍らの水辺でカモも喉を鳴らせ、穏やかな朝を知らせる。
道を歩きながら、自身の首元に意識を集中する。高校になってネクタイを初めて付けたが、これが存外に気分を上げる。なんだか大人になった気がするのだ。
結ぶことに手こずったせいで、予定より三十分も押してしまったが問題ない。
もとより一時間は早く着く予定だったのだ。時間はたくさんある。
遠くに見える学校の校舎に期待を膨らませる。自然と瞳も輝くというもの。
そうなれば致し方ない。スマホのタップも軽くなる。
意味の分からない文章を意気揚々と打ち込んだ彼は、しばし、返しの文字を待つ。
『はあ?』
風に吹かれた草のさざめき、日に照らされた川の煌めきとは正反対の苛烈な文章が画面に浮き上がる。
こいつは小説家の才能がある。たった二文字で、その冷めた心をこちらに伝えた。
周りはこんなにも暖かなのに、こいつはどうしてこんなにも冷たいのだ。
それに心の中で躓くが、それで折れるほどの弱い思いではない。
CPUが計算して叩きだした結果に反論を打ち込む。
『まあ、そんな反応をするのもわかる。いきなりすぎたな』
誰だって地球の重量を支えるなどと妄言を吐かれればこうなる。
どんな超人であろうとも、その翡翠色の宝石に触れ続けること敵わず、瞬きの間に溶解するだろう。
そんな馬鹿げたことにかまけているより、他のことに意識を注ぐ方が賢明である。
返信に即座に既読がつく。見限ってくれてなくて安心したよ、本当に。
そうならずにわざわざ話を聞いてくれる当たり、こいつは俺のことが好きらしい。
『だが聞いてくれ、これは宣言なんだ』
宣言?それは一体なんだ?そんな疑問を抱かせるべく、彼は結論を後回しにした。
これは誓約でもある。そう、これからこの意思を違えないように。
または逃げ道を無くすように記録として残したかったのだ。
『はあ?』
不屈の闘志を滾らせて、己が真意で度肝を抜かしてやろうと思ったが、彼を出迎えたのは先程と全く同じ文字。
懸命な説得にも、対する者は同じ文字を打ち込むばかり。
もしかしてちゃんと話聞かれてない?
そんな不安が脳裏を過ったが、まあいいや、と一旦聞かれてるかどうかは置いておいた。
重要なのは、ここで示さなければならないことであるのだから。
俺は周囲の春の始まりの景色に活力を得ながら、意気揚々と文字を打ち込む。
『これから始まる学園生活。俺はそれを皆が幸せになる、平和で楽しいものにしたいんだ!』
『…じゃあなんで縁じゃなくて、マントル?』
俺はその文字に口角を上げる。
その質問はこちらとしてもちょうどよかった。
むしろしてくれないと、それの道順のための会話を続けないといけなかった…。
こいつはとても話が早くて助かる。俺はどうやらいい女に巡り合ったようだ。
『思ったんだよ…』
俺は相手の度肝を抜かせるべくタメをつくる。
事件物の小説がどうしてここまで万民を魅了しているか知っているか?
ただの空想の人が起こした事件、実在しない夢想がどうしてここまで我ら現実の者に影響を与えるのかを。
人間味によるあり得るかもという期待?
人格破綻者のエキサイティングな思考跳躍?
違う、どれでもない。
なぜなら彼ら作家は論理的に組み立てた道筋で、その都度こちらが気持ちよくなるタイミングで事実を開示するのだ。
そうであるから人の手を渡り、受け継がれてきたのだと彼は思っていた。
結論はいつも最上のタイミングで、
見る者を二度見させてこそ、凄みが増すものだ。
『さて質問だ。学校にはどれくらいの人数の生徒がいる?』
俺は口論相手を誘導するように打ち込んだ。
彼はその時、その作家になった気分だった。
ああ、これは癖になる。手のひらで転がすことのなんと気持ちの良い事か。
さあ、貴様はもう俺の手の内だぞ!
『ああもうわかった。縁じゃ足りないってことね』
もうこいつ嫌い。
こっちがわざわざ隠したのに当てるとか、場がシラけるというものだ。
嘘でもいいから、それは何だ⁉、みたいな反応はできないものか。
彼は落ち込みから数分の時間を置いて返信を行った。
『なんで言っちゃうかな。俺は悲しいよ。ひん‥‥‥‥』
泣き顔のスタンプを添えて送った文章に相手は呆れの言葉を返す。
相変わらず、返信の早いこと。俺なんて打ち込むのに一分はかかるのに。
彼は相手の打ち込みの速さに感心する。いつ見ても思うが、女子のフリック入力は早すぎないか、まるで自分が爺になった気分だ。
『わかりやすすぎるでしょ…もっと隠しなさいよ。それとも私はそんなに馬鹿に見える?』
彼はその問いにすぐに否定を返す。
そんな卑下、彼女とは無縁のものとすら思える。
だって彼は彼女に何度も助けられたのだから。勉強方面で……。
『いいえ、あなたのおかげで高校に入学できたのでそうは思いません。ありがとうございます』
その文章には収まりきらない想いを込めて、送信する。
だって事実、それはこいつのおかげなのだ。
コイツがいなかったら、俺は今頃第二志望の学校に行っていただろう。
彼は勉強などもちろん嫌いだ。これまでろくにしてこなかった。する必要すらないとさえ思っていた。今思えばなんと楽観的なことか、なぜ何とかなると思っていた。
それにあれにもちゃんと楽しさがあった。達成感という楽しさがだ。
ここで本来の話を思い出す。
謝意を述べ、少し話がずれ始めたところで軌道修正する。
『まあ、つまり!俺はそれだけ皆を支えたいという事だ!』
『で?具体的には?』
『皆が仲良くするようにする!』
『考えなしと……』
確実性を伴わない回答を彼女は容赦なく斬り捨てる。その物言いに少しカチンときたが、自分でも抽象的だったのは自覚し、押し止まる。
失敗はある。何事もトライ&エラー、一回でうまくいくことなど稀だ。
彼は顔をスマホから周囲に移す。その目に映る景色に感激を受けながらも文字をタップする。そうして涼やかな景色を見渡した彼は相手の同調を求めた。
『周りを見ろ。カモもクワクワ鳴き、朝日が照らす河川敷はこんなにも平和に満ちている!』
彼の言葉通り、それは春の訪れを知らせる素晴らしい景色だった。
澄み渡る青空、芽吹く自然、咲き誇る桜、零れる花びら、日差しに身を晒す鳥たち。そんな平和のそのものである景色に同様の感想を得た彼。その高尚さを伝えるべく書いた言葉であったが、彼女には届かなかったらしい、物理的に。
『いや、私見えないし…』
その苦言は無視する。もうこいつに出鼻をくじかれようとも構いものか、何度止められるかわからない。言いたいことはすぐに言ってしまおう。
彼はさらなる妨害(事実)が来る前にフリックを急ぐ。
数か月前まではいちいち指定の文字が出るまで画面をタップしていたが、最近になってやっとこの便利性を理解した。確かにこの方が早い。
彼は慣れない手つきながらも着実に文章を作成していった。
そうして完成した文章を相手に送る。
『これを学園にも伝播したいんだ!あわよくばそうなるように学園生活を支えたい!』
言ってやった…。
打ち込み終わった俺は、ある種の高揚感に包まれた。
そう、目的は達した。まずは第一の目標である記録を刻む。それを成し遂げたのだ。
そんな全てを終えたような雰囲気を醸し出す彼のことなど知ったことではないという風に、会話は続く。
『まあ、あんたが何やろうが勝手だけどさ』
彼が期待した回答が来るわけでもなく、そもそも顔が見えないので分からない。
だが、意識は少しこちらに向いたようだ。
『興味が湧かないでもないから、聞いたげる。なんでそんなことするの?得ある?』
それを見た俺は笑い声を堪えるのに必死だった。
何を当たり前な、愚門だな。
これは人間として当然の感情、誰しもが望む理想の体現。
ほら、お祝い動画を見るとこちらもなんだが良い気分になるだろ?
『知ってるか?皆が楽しいと自分も楽しくなるんだぞ』
なんの不思議があるんだ?という風に打ち込んだ彼は目的地を目指すべく歩く。
あと堪えるのには失敗したようだ。ランニング中のお姉さんに怪訝な表情を向けられた。
まあ、赤の他人だ。もう会う事はない。だから気にしないようにしよう。
『こんなことわざもある。陰徳あれば陽報あり、とな』
彼は最近して気に入ったことわざを出した。
この前ネットでたまたま見つけたが、その時に「これだ!」という衝撃を受けた。
彼はこれを天啓だとすら思ったのだ。そうして脳裏のその言葉を叩きこんだ。
以来これは彼の座右の銘になっている。
『見えないところで頑張れば、自分に良い事が返ってくる、か…。使い方が間違ってるような気もするけど、まあいいや。言いたいことは伝わった』
おや、自慢したいと思ったら意外と博識であったか、まあ有名か。
『わかってくれたか』
とりあえず伝わったことに安堵する。正直に言うと否定されてばかりだと少し不安になってしまう。
いや、やめるつもりは毛頭ないが……。
『わかってないけど…』
わかっていらっしゃらないかあ~……。
『おっと話してる間に、もう学校についたたぞ。お前も遅刻はしないようにな。また学校で会おう』
目前に見えた学校の校舎に、制服を正す。
大丈夫、俺ならできる。肝心なのはファーストコンタクト。お気楽に、接しやすく気さくに、明るく。
仏頂面で座っている奴などとっつきにくて仕方がない。
塀に囲まれたコンクリートの校舎、それがまるで監獄のような存在感を放つため、生唾を飲む。
心なしか鼓動も早くなっている。こんな年にもなって入学に緊張するなど。
その場で立ち尽くし、呼吸を整える。武者震いだろうか、これからが楽しみでしょうがない。
もう校門まで目と鼻の先、‥‥‥いざッ!
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