第50話 渭樹江雲の夏季セミナー

 夏が近づいてきて徐々に憂鬱になるのは碧霞台女学園生徒特有の現象と言えるだろう。


 期末試験、夏季セミナー、多すぎる夏休みの課題、というボスラッシュが待ち構えているためである。何も知らない去年の方がまだ事前段階から気分が沈まなかった分マシと言えるかもしれないレベルだ。


 一応、一縷いちるの望みとして、夏季セミナーは今年限りで3年生になったら実施されない。オープンキャンパスとか就職活動とかで忙しいからね。

 というか、私たち1組はまだ大学進学希望組だから仕方なさは多少あるが、就職組に対してもこの夏季セミナーは等価に降り注ぐのは流石に可哀そうな気がしないでもない。他人事ではあるけどね。



 とりあえず、まずは期末試験の勉強だ。

 進学組だけ集められた1組においても好成績をキープしている委員長と、英語が足枷になりまくっているが基本的には上位層なひなのさんという2人を筆頭に、グループで勉強会をしたりした。

 私の成績は、学年全体でみれば平均よりちょっと上程度。しかし、学年が上がって授業編成がクラスでバラバラになったおかげで、模試以外の指標では、クラス個別で見るようになってしまった。

 そうなると、クラス内での私の成績は中の下くらいまで降下する。まあ、基本的に勉強できる勢が集ったクラスだから仕方がない。


 でも、それはある意味利点でもあって、クラスの大体の人間が私よりも五教科の勉強は出来るので割と誰からでも勉強を教えてもらえる。

 反面、デメリットとしては勉学面によるスクールカーストの低下があり得た。……はずだったが、しかし何というか2年1組においては、なんと私はハイパー陽キャとして君臨している。


 どうしてこうなった、と思ったが、私に関する表層的な情報を整理する。


 帰宅部なのに勉強が相対的に苦手。

 他のクラスにも友人が居る。

 委員長&副委員長のコミュ力強者どちらのグループにも所属。

 なんか異常にコスメや美容ケアに詳しい。

 あと、手の爪のケアを欠かさない。



 ……あれ、これらの要素は陽キャのギャルじゃん。

 黒髪ロングで、校則違反と言えば誰でもやっている気付かないレベルのナチュラルメイクだけなのに、クラスメイトからは割とギャルだと思われているらしい。

 ……多分、ひなのさんによる情報操作とかも混ざっているんだろうなあ、これ。




 *


 といった感じで、2週間のテスト勉強期間を勉強会でちょくちょく埋めた私たちであったが、いざ本番のテストに挑むと、手ごたえは普段と大差なく。

 そして帰ってきた結果もまた、やっぱり1組の平均点ラインを越えられないくらいの位置であった。


「いや……化学のテストの平均点45.2点、1組最高点74点って何事……」


「マジで難しかったよねー、化学」


 ひなのさんともはや恒例となった個票個人成績票の見せ合いを行うが、平均点のあまりの低さにびっくりする。かくいう私は化学については平均を辛うじてオーバーして48点だった。


「このまま平均点ごと下がっていったら、私も赤点取る羽目になるんじゃ……」


「まー、そうなったらそうなったで手伝うよ、私も」


 そう語るひなのさんは頼もしいけれども、そもそも赤点は取りたくない。まあ一番赤点を取ったらマズいこの1学期末は乗り切ったが、今年は本当に死屍累々になるだろう。夏季セミナー後に夏休みの宿題と並行しての補習は辛すぎる。


「というか、明菜。結構勉強のやり方工夫するようになったでしょ?

 もうちょっと、結果出そうなものだけど……」


「授業の難易度が凄く上がっている感覚があるのに、勉強時間は増やしていないからだよねえ。

 小手先の工夫じゃ、やっぱり成績維持でいっぱいいっぱいかも」


「え!? 勉強時間増やしてないの!? 1年生の時から?」


「そうだけど」


「私、多分2倍くらいにはなってるよ……。ある意味、明菜のが凄いよそれ」


「ひなのさんは元の勉強時間が全然だったじゃん」


 やったことと言えば、まとめノートを廃止して板書ノートをまとめ用途で使うようにしたり、その板書ノートを見開き1ページで左側に板書内容、右側に先生の口頭の話と分けて書くようにしたりしたこととか。

 勉強時間は変えずに、内容整理だとかマーカー色塗りみたいな些事にかける時間を減らして、とにかく暗記と復習に力点を置くようにしたことが大きいと思う。

 この他にも、色々友達から聞いて『良いな』と思ったやり方は取り入れている。


 ただし、それによる効率上昇は授業の難易度上昇に相殺されて、成績は変わらなかった。

 ともかく、赤点は嫌なので、少し成績を上げておこう。そう簡単に上がるものじゃない気もするけど、私にはひなのさん先生が付いているので安心感が段違いである。




 *


 とは、言っても。

 心機一転、勉強に力を入れようと思っても、期末テストが終わったこともあり、すぐに1学期は終わってしまった。


 今、私たちは2年1組の皆と共に、貸切バスに乗っていた。理由は単純、夏季セミナーへの移動のためである。ずっと予期していたこともあってクラス全体の雰囲気はお通夜のような空気となっていた。


「ひなのさん、今年は体調崩さないよね? 平気?」


「うーん、多分。常備薬色々持ってきたし!」


「それは、体調崩してからの対策だね」


 当たり前のようにひなのさんは私の座席の隣を取ってきたが、去年ひなのさんがこの行事で体調を崩していたために、ひとまずバスは外の景色が見えて酔いにくそうな窓際に移動してもらった。

 一回、ひなのさんには私の膝に乗ってもらって、私はさっと通路側にスライドして。


「まー、バスの中は体調崩しやすいかもだから、今は寝ときなよひなのさん」


「んー……、そうする」


 ひなのさんは存外素直に私の言葉を受け入れて、そのまま目を閉じて眠りの体制に入っていった。それから間もなく彼女の頭が私に寄りかかってきたので、すんなり寝たと思いながら、少し私は笑う。



 ……そう言えば、あの日帰り温泉に行った帰りもひなのさんはこうして寝ていたっけ。


 しかし、その時とは違うのは。ひなのさんの寝息につられて私も一緒に寝て、お互いがお互いの体温で爆睡してしまったこと。私たち2人はどうも到着まで起きなかったようで、通路を挟んで反対側の席や前後の席の子たちが揺すったりして私が先に起きた。そんなちょっと恥ずかしい珍事も挟みつつ、地獄の夏季セミナーは再び始まりを迎えたのである。



 そして。



 ――そんなひなのさんが体調不良を私に訴えたのは、それから2日後の朝のことであった。




 *


「……それじゃあ、悪いけど澄浦さんは、部屋から東園さんの荷物を持ってきてくれますか?」


「………………はい」


 私は無力だった。悔しかった。

 体裁で考えれば、私はひなのさんの身内ではなく友人でしかない。だからこそ、ひなのさんが体調不良で倒れても、私に出来ることは先生方に伝えるところまで。


 看病だったり、病院への付き添いなんかを申し出ることすらできない。それどころか、ここで私の必要以上の、友人に対して向ける動揺以上の感情を剥き出しにするわけにもいかないから、私は何もひなのさんの助けになれない現状に対してすら、先生の前では手を握りこぶしにして耐えることも出来ない。


 去年お見舞いしたひなのさんはほぼ復調気味だったので、調子が悪そうには見えなかったが、しかし今日私に体調不良を訴えてきたひなのさんは熱っぽい感じもあったし、明らかに調子が悪そうであった。


 でも。何もできない。

 私はその場を後にして、自分たちの班の部屋へ戻る。ひなのさんの荷物を届けるために。


 そして、それで私はお役御免で日常へ戻ることを余儀なくされるのだ。

 誰も居ない部屋に入ると思わず声が漏れる。


「……悔しいな。こういう時、何もできないのは」


 それは誰にも伝わるものではなかったが、他ならぬ私の心の奥底に突き刺さった。


 今は……大人には勝てない。そして大人になっても、家族には勝てない。

 これから少なくとも10年は、私はこういう場面ではひなのさんに手出しができない状況がきっと幾らでも来るのだろう。それはつらいし、逆に私が倒れたときには、今度はひなのさんが同じ気持ちになるのかと考えるとそれはもっとつらい。


 ……加えて。感情ですべてが動けるわけでない自分も何より嫌だった。

 私は先生方に『私はひなのさんの恋人なんだから、絶対ついて行きます!』と涙ながらに懇願することが……できなかった。それが出来るほど『不器用』でなかった。



 今の私には、ひなのさんの荷物を届けることしかできない。どうしようもない無力感に囚われつつも、それでも私は何か出来ることがないかと考え。足掻く。



 そして――気付く。クリスマス前のとき、ひなのさんの睡眠リズムがおかしくなったことがあった。その時、彼女は私の部屋の香りと同じアロマを焚くことでリラックスして熟睡できた、と言っていた。


 けれども、まさかホテルの部屋でアロマを焚くわけにはいかない。というか、そもそも夏季セミナー用の荷物にアロマなんか持ってきてはいない。


「……流石の私も恥ずかしいけど、腹くくるしかない……か」


 ひなのさんの荷物として、私は自分の私物を忍ばせる。それは……ドライシャンプー。あまり使用頻度は高くないものの、ひなのさんの前に出る時に事前にお風呂に入れない場合には度々使ってもいる……私の髪の匂いとひなのさんにはインプットされているはずのアイテムだ。

 ……これを、ひなのさんに渡す。


 そして。

 ……私は、今着ている制服の上着――アッシュグレイのブレザーを脱いで。寝間着のまま先生に連れられたひなのさんの制服に身を通した。

 試したことは無かったが、身長はほぼ一緒だったのでちょっと丈が違ったりきつめの部分はあったけれども、問題なく着ることは出来た。


 そして、脱いだ私の制服のポケットの中に、急いでドライシャンプーとメモ書きを入れて。ひなのさんの荷物と一緒にして元来た道を早歩きで戻り。……ひなのさんの荷物として私の制服も共に担任の先生へ渡したのであった。



 メモ書きには。

 『どうしても寂しかったら、制服も使ってちゃんと寝てね』


 ――とだけ書いて。




 *


「明菜……やったね?」


「ええ、まあ。

 これは流石に自分でも攻めたとは思ってるよ」


 結局、ひなのさんへのお見舞いが許されたのは最終日の朝だけだった。

 病院にも行っていて医師の診断は『環境変化による体調不良』という当たり障りのないものであった。けれどもひなのさんは2年連続であったこともあり、結局3日目以降のカリキュラムには一切参加できない結果となった。概ね治っていたらしく、今のひなのさんは割とほぼほぼ本調子っぽいが。

 またバスで私とともに爆睡していた目撃情報と重なって『バス移動が負担なのでは?』という結論に先生方の間ではなったらしく、取り敢えず帰路については特例でどなたかの先生の車に同乗して帰るらしい。だから、このお見舞いの隙に慌てて私たちは制服を元に戻した。


「まー、最悪バレても『明菜も私が倒れたことに気が動転して持ってくる服間違えた』とかで言い訳できるとは思ってたけどさー。……よーやるよ、ホントに」


「あ、その言い訳は危うかったかも。

 だってひなのさんを先生たちに送ったときには私は制服着ていたし」


「ひゅー、危ない。ま、その場合でも私が体調不良を言い出したのは朝のタイミングだったから着替え時点で動転してた解釈にすれば大丈夫だろうけど……。

 でも、ね? 明菜、忘れてたことがあったね? 私は荷物が届いた後、すぐ病院……行ったんだよ?」


「……あっ、もしかして病院は制服だった?」


「そ。だから匂いどころか、ちょっとだけ明菜の温もりも残ってたよ。

 めっちゃ恥ずかしかったけど……嬉しかったのは間違いないんだけどさ」


「あー……なんか、ごめんね?」


 先生方に囲まれながらも顔を真っ赤にしていたのだろうか。体調不良だから見抜かれないという計算もあっただろうが、ちょっと悪いことをした。


「――ってか、明菜も大変だったんじゃない?

 着慣れてない制服で、あの長時間セミナー受けていたんでしょ」


「……まー、正直肩は凝ったね。

 慣れない服での勉強は、予想外にキツかった」


 制服って入学してから着慣らしていくものだから、いきなり別人のものというのは、ちょっと大変だった。


「でも、ひなのさん。

 私はそれをする価値は充分にあると思って、行動に移したから後悔は無いよ」


「おおー、言い切ったか。

 ……まあ、感謝はしてるよ。

 明菜のおかげでぐっすり眠れたのは確かだし……、去年と違って今年は明菜って恋人が居るのにさ……体調悪いのに頼れないってのは結構メンタルにも来てたから、マジで助かった」


「……そう言ってもらえるなら、私も恥ずかしい気持ちを抑えて強行した甲斐があったよ」


 そう言うと、もうすっかり本調子っぽいひなのさんは、久々の私の『失言』を見つけたのかからかいモードに移行する。


「私は明菜の匂い……だーい好き、だけどね?」


「……いや、私の匂いでしか安眠できないとか、大分特殊だよ。

 へんたいひなのさん?」


「……」



 なお、先生の車で帰宅するひなのさんは、私が2日間くらい着ていた彼女の制服の消えなかった残り香で安眠していたらしい。

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