第45話 誰かのためにしか、ピアノが弾けない少女

 『音楽』とは何か。

 どんなアプローチから音楽に関わったとしても、恐らく必ず直面する問題だ。抽象的かつ曖昧、しかし個人差もある。


 こう言い換えても良い――あなたの『好きな音楽』は何?

 これに対する回答は、例え聞き専の人であっても千差万別であろう。それだけ、私たちの音楽は多様化している。



 しかし。

 これらの質問を特に音楽関係者ではない一般の人にした場合、半ば暗黙の前提となっている事項が1つある。特に、日本においては。


 それは『音楽』とは『ボーカル入りの曲』のことであり、インストインストゥルメンタルは意識外にあることが殆どである、ということだ。歌詞に、歌のメロディにこそ主眼が置かれやすく、それ以外の『音』は枝葉として扱われすらする。



 となれば。ピアノ奏者にとってのライバルは、同じピアノを弾く相手ではないということも理解できるだろう。

 現代社会において、私たちは時間を使うときに、Aというプロのピアニストと、Bというピアニストのどちらを聴こうか悩むことは少ない。誰かのピアノの演奏か、それ以外のポップス、アニメソング、バンド――それどころではない、あらゆる娯楽作品が私たちのライバルとして立ち塞がっている。

 人が遊びに使える時間は有限であり、しかし娯楽は無限とも言える広がりがあるこの時代に。ピアノという武器は……あまりにも頼りない。


 インストの不利を背負い、娯楽選択の不利を背負った『クラシック楽曲』というのはスタートからして『若者に選ばれにくい』コンテンツである。

 『クラシックとは高尚』であり、自分には無関係だと考える価値観は、これでは途切れないだろう。



 それでも、私のピアノの多くは、当然ながら『クラシック』で構成されている。としたときに、小学生に……あるいは、ひなのさんに受け入れやすい曲は何か。



 その答えが――1曲目の選曲。

 ――『クラシックメドレー2019』という選択であった。




 *


 このメドレー曲は4種類のクラシック音楽で構成されている。


 ルロイ・アンダーソンの『トランペット吹きの休日』。

 ベートーヴェンの『歓喜の歌』。

 オッフェンバック作のオペラ・地獄のオルフェにて使用されることもあるカール・ビンダーが作曲した序曲第3部の『天国と地獄』。

 ジョアキーノ・ロッシーニ作のオペラ・ウィリアム・テル序曲第4部の『スイス軍の行進』。


 これらの選曲は、文字としてみると意味が分からない。

 オペラから2曲、管弦楽から1曲、交響曲から1曲とジャンルもバラバラだし、後の3曲は19世紀初期から中期の成立であるものの、『トランペット吹きの休日』は1954年に作曲されたクラシックにおいては『最近』の曲だ。



 それでも、この4曲がまとめられている理由はひどく単純だ。

 すべて、小学校の運動会で頻出する曲なのである。


 原曲はすべてピアノ独奏曲ではないため、私は編曲された楽譜で弾く。それは全音ピアノピース出版の編曲版であったり、それ以外の楽譜から持ってきていたりもするが、そうした『本来の曲』が有していたシチュエーションは、この場に限っては不必要である。


 だって、この場に居るほとんどの人間はこれを『クラシック』ではなく『運動会』として認識しているのだから。



 そう。『脈絡変換』である。


 テンポをやや速めて、スタッカートを強調したり増やしたり、跳ねるような演奏をすれば――ほら。


 ひなのさんや先生、職員から始まった手拍子の輪は、瞬く間に子供たちにも波及した。何が起きているかといえば、そう『高尚』なことは起きていない。これは『知っている曲が流れたからテンションが上がった』だけである。

 まず、私は『クラシック音楽』というものをその底流まで導くことを第一義としたのだ。



 ――そして、それだけには留まらない。

 このメドレーはその名が示す通り、2019年に発表された曲で。もともとはピアニカの魔術師というアーティストによって演奏された曲……なのだが、当然現代社会のもたらす『脈絡変換』は、古い音楽だけに直撃するわけではない。


 ピアニカが主役となって演奏されているこのメドレー自体は、私が中学生だった頃に、ショートムービー特化型のSNSにおいて大きく話題となり、現在では再生数が6億回を超えている。


 つまり。『運動会』という概念から、更にもう一度脈絡変換が行われ、SNS利用者にとっては『ムービー音源』という新たな『場』を確立しているのだ。


 それがちょうど……2021年ごろだったので、小学校高学年で早くからスマートフォンを親から買って貰った子たちなら、もしかしたらそちらの『脈絡』でこの曲を認識できるかもしれない。そうした期待を持っての選曲でもあった。


 クラシックではなく運動会。

 運動会から更に、ショートムービーの音源。


 2度の脈絡変換を経て、クラシックを私たちの世代に届けたこのメドレーは。

 まさしく現代に生きる次世代の『クラシック音楽』であった。




 *


 私から見て、正面の上の方に時計があったので時刻をチェックすると大体5分経過していた。


 1曲目の演奏を終えて拍手を受けつつ、そのまま2曲目に入る。



 運動会、ないしはSNSという『既知』のフィールドに持ち込んだ私に対しての期待値は2曲目にして上がってしまったが、ここでの選曲は……ショパンの『別れの曲』。


 1曲目とは打って変わって雰囲気は大きく変わり、スローテンポとなる。序盤のフレーズは有名……とはいえ、流石に先の4曲と比較してしまうと知名度は劣る。現にこの場においてもピンと聞いている児童は半々かそれ以下といった感じだ。


 しかし先ほどまでの意気揚々とした高揚感のある雰囲気からの極端な落差の変化は、ギャップとして耳に入っていく。

 ……それに。ひなのさんに視線を向ければ、彼女は小さく頷いた。


 やっぱり、聞いていたんだね。……和風アトリエで、エラールのピアノを弾いたあの夏の日のこと。



 そこから中盤へ到達し、曲調はやはり大きく変わる。

 優しい甘い旋律から激情的で急激なものへと。


 私はその部分を指で弾かない。手で弾かない。腕で弾かない。

 肩から体重を乗せて――『音』でこの場に居るすべての存在を飲み込むように。



 別れの曲とは日本での通称で、悲しみとか別離、といった表現をされることもしばしばある。一般に通じる『通称』というのは存外、作曲家が付けたものではなく後世になってから派生的に名付けられたものばかりだ。

 『別れの曲』という名にしたって、この楽曲が使用されていたドイツ映画の邦題からそのまま広がった、という理由に過ぎないのだから。……流石に、これはかなり稀な命名ではあるが。


 しかし『別れの曲』を、そんなドイツ映画の曲として認識している人間は、もう居ない。これもまた『脈絡変換』で。



 ……なれば。3曲目は自明であろう。


 ――脈絡変換の王、『G線上のアリア』だ。

 冠婚葬祭、そのすべてで利用可能という現代社会への適応性。これには、周囲の子どもたちも先ほどより聞き及びがある、と集中の度合いが変わる。


 知らない曲で感情を揺さぶるのは難しい。……いや、それが無理というわけではないのだけれども、興味があるものの方が気を引きやすいのは当然なのだから。

 知らないクラシック音楽にも容易に手を出せる人は、クラシックそのものに興味があるからだ。


「……」


 そういう意味では、この場において。

 ひなのさん以上に、私の演奏に聞き入っている人物はほかに居ないだろう。……だって、2曲目からは私とひなのさんにとっては『思い出』なのだから。


 ひなのさんは口を結んで、私を真っすぐに見据えている。その姿はどこか聞き入っていながらも、何かを考えているような表情にも見えたが、私が譜面へと目を落としてしばらく後に戻したときには、その表情は変わっていた。



 そう言えば。G線上のアリアはヴァイオリン独奏のための曲なので、本来ピアノの役割は伴奏でしかない。よって、今私が弾いているのは全音ピアノピースによる編曲版だ。


 こうなると、G線上のアリアという『通称』を私の演奏曲に適用するのはちょっと不適格かもしれない。このあだ名がついた理由は、ヴァイオリンの弦のうちG線じーせんだけで弾けるように、バッハが作成した管弦楽曲を、別の人物が編曲の際に調を変えたことから付いた名だからだ。

 ……あ、G線だけで弾けるように後世『書き換えた』という事実が、たまに『バッハ』がG線だけで弾くことを目的に作曲したものだと、結構勘違いされているので注意ね。


 閑話休題。

 そういう意味では、やっぱり曲の『名前』というのは曖昧なところに立っている。バッハがこの原曲を作った時代には調も名も違う。


 また『アリア』は英語やフランス語においてはAirと表記されることから、日本に入ってきた当初は『空気』と誤って訳されていた事実もあるらしい。

 そしてG線はGは、原語読みに忠実に従うのなら『ゲー』である。


 つまり、この曲は日本での定着の仕方次第では『G線上ゲーセン場の空気』みたいな何とも言えない同音異語を有する呼称になっていた可能性が、ごく低確率ながらある……与太話の類だけどね。



 つまり曲の名前なんて、その場の時々で移ろいゆくものなのだ。既に著名となって定着した名が変わることは早々無いとはいえ、未来が保障されているわけではない。



 ……そして4曲目は。これまでの傾向から予想されるようにエルガーの『愛の挨拶』となる。

 この曲も、元々はドイツ語でタイトルを付けられていたが、出版の際の都合でフランス語表記に記載変更されていて、やっぱり名前が変わった曲である。意味は同じなんだけどね。


 バレンタインの買い物のときに、ひなのさんに対しても説明したが、この曲はエルガーが婚約記念として作った曲だ。なお、エルガーも婚約相手もどっちもイギリス人なのでフランス語はあまり関係無い。元がドイツ語だったのは、婚約相手がドイツ語が得意だったからと伝えられているからだ。



 愛の挨拶に関しては、エルガー自身がちゃんとピアノ独奏版を作成しているので、誰の手によっても編曲がなされていない。

 だからこそ、エルガーの表現を借用できる。劣化コピーできる。あるいは、これを弾くピアノ奏者は数多と居るので、その模倣を私は行える。



 ――ゆえに。

 これは。『私の音楽』ではないのだ。

 ひなのさんとの思い出の旋律を借用してもなお、私は私だけの音楽を紡ぐことができない。それが現実であり、過去の私のピアノの限界だ。



 ……きっと。

 私が何にもなれなかったのは。才能が無かったこともそうだけど、もっと致命的なのが、この部分だったのだろう。


 私の音には個性が……無かった。

 誰かの意見を、自分の言葉だと平然と思って使っていた私の矛盾を指摘したのは――やっぱり、ひなのさんだった。



 しかし。

 『充電器誕生日プレゼント』が代表的なように、今の私は自分の意見や判断を言葉にしてひなのさんに伝えることができている。


 だから。

 もうひなのさんと出会う前の、過去に生きているのは――ピアノだけ、なのだ。



 で、あれば。

 私はやり直そう。


 ――『出会い』を。



 5曲目……ラストソングに何を選択するのかは、もう1つしか残されていなかった。



 最終曲は……ポップス。

 去年のドラマの主題歌。去年のトレンド曲で……ひなのさんとの出会いの曲である。




 *


 私の演奏は、最後の曲のみ決定的に違った。


 この曲だけは、中学時代の私には絶対に選択できない曲。だから、2週間程度で仕上げざるを得なかった曲。


 なので技術的な側面で言えば、最も稚拙であったし、ミスも多い。

 けれども、それに私は構うことなく弾いていく。


 ――歌声が聴こえる。

 子どもたちは歌っていた。去年のドラマの曲だ。ちょっと古いかもだが、サビくらいなら口ずさむことはできるだろう。



 ひなのさんの弾いていた『音』から、似通った楽譜はすぐに見つけられた。しかし、その楽譜は記号以上の役割を既に果たしていなかったために、私はこの2週間でびっしりとその中に追記をした。


 ……書いたのはひなのさんの曲解釈。

 どこのフレーズが好みで。どこを強調して。どこをゆっくりと弾くのか。


 その1つ1つは、かなり独創的で。しかし、ひなのさんの技術では理解力に彼女の演奏スキルが追い付いていないことも多々あった。それをなるべく私の技術で補填する。


 運指は基本に遵守しつつも、ひなのさんの表現をするにはひなのさんの演奏技術をコピーした方が良ければ、無理な奏法も真似て。

 ペダルの踏み方も極力適切に行いつつも、ひなのさんのロングトーンの使い方のが良いと思えば、そちらを優先する。


 そこにあった楽曲は。

 ――徹頭徹尾、ひなのさんのための『音楽』であり。



 私は。

 ひなのさんのためにしか、ピアノが弾けない少女になっていた。



 改めて言うが。前半4曲と比較して、技術はどう考えても劣る。

 音楽上の問題も多く、不備が重なったこれを『上手』と表現するのは、いかにひなのさんびいきな私でも不可能だ。



 しかし。

 それでも最も盛り上がった曲が、最後に演奏した曲であったという点については。客観的に見ても事実だったといえよう。




 *


「……やりやがってしまいましたね、澄浦明菜」


「……口調が崩れていますよ? 飾城先生?」


 ボランティアコンサートが終わって。後片付けで、偶然飾城先生と2人きりになるタイミングがあった。

 そこには教師としての立場の飾城先生の姿はなく。辛うじて敬語は崩していないものの、私のことをフルネームで呼び捨てにした辺り、私がやったことを全てではないにしろ理解しているようであった。


 先生から次の句を貰えなかったので、私が質問を重ねる。


「演奏会を私物化したことについて、ですか?」


「――それは織り込み済みです。

 そもそも最初からそういう話で、この貴方のことをピアノ奏者として推薦したのですし」


「……では?」


「分かっている癖に、しらばっくれる態度はよろしくないですよ。

 ――最後の曲。最後の演奏……あれは。『東園ひなの』の『音楽』でしょう?

 貴方の音楽ではない」



 私からすればほかの曲もまた、私の『音楽』だと認識していないが、しかし大意として飾城先生の言い分には理解も賛同も出来た。


「……ええ、その通りですが何か?」


「そこで真っ向から認めますか。

 東園さんという天才の音楽を正面から受容した貴方は……もう、元のピアノ奏者には戻れませんよ」



 趣味でしかピアノを弾いていない少女が、弾きたいと漠然と描いていたモノの、ひとまずの『不完全な完成形』を、私は彼女に全力で見せてしまった。

 それはもう、かつて飾城先生の言っていた天才を放置することと相反している。



「……はぁ。けれども、今日の貴方の演奏を見た者の中で、ちゃんと音楽をやっている人間は私くらいしか居ないのですから、私が言うしかないのですね……」


「……?」



 飾城先生は、かなり嫌々であったが音楽に携わる人間として次の言葉だけを告げて、私を追い出しにかかった。



「……ようこそ。

 新たな音楽家――」


「え……っと?」


「――ほら、もういいでしょう。あとは東園さんのところに行っておきなさい、ここの作業は先生がやっておきますから。

 彼女……というか、本来は東園さんの誕生日なのでしょう?」



 ひなのさんの誕生日。それは、生まれて初めて私自身が『音楽家』と形容された日となった。


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