第46話 天才を喰らったピアニスト

 演奏中にひなのさんの様子を窺うことはあまり出来なかったが、その後の彼女は多少挙動不審さが垣間見えたことから、何らかの影響を与えることは出来たのだろう。


 とはいえ、ひなのさんはそれを長く引きずることはしない……って、この言い方は正確じゃないかな。自身を揺るがすようなことを前にしても、それを後に考えることができる。少なくとも表面上は今すべきことを優先することが彼女には可能なのだ。


 私からの誕生日プレゼントは、先ほどのボランティアコンサートで終わりだ。


「……ひなのさんは、この後は?」


「あー……なんか、友達が執拗にボランティアが終わる時間聞いてきてたから、多分これサプライズ的なのがあるっぽい。……明菜は聞いてる? グループは違うはずだけど」


「いや、聞いてないねえ」


「じゃ、別行動の方が良いかもね。変な気を遣わせちゃうのもアレだし。

 ほら、元1年1組メンバーで明菜からしたら面識薄い相手も居るから」


 サプライズを先読みしているところは何というかひなのさんらしい。うーん、もうちょっと恋人としては独占力があった方が良いのかな、なんて。

 今だって『そりゃそうだ』って普通に納得しちゃっているし。


「……ひなのさんともっと一緒に居たいよーとか、言った方が良い感じ?」


「あはは、すっごい棒読みだったよ、今のっ!」


 まあ、このやり取りは飾城先生の車の中でやっていたこともあって。ひなのさんは意図的にその後に続くはずであっただろう『明菜にはいっぱい愛してもらってるし?』という文言を外して。隣に居るのにメッセージアプリを通じて送信されていた。




 *


 ひなのさんは結局、夜にも私の部屋に訪ねてきたり、メッセージを送ってきたりしなかったので、誕生日は結構タイトなスケジュールだったようだ。


 翌日に開催された寮の新入生歓迎も兼ねたバーベキューパーティーには、元々参加しないって言っていたが、それにしたって彼女の姿を寮の中で一日見ることはなかった。あ、ちなみに私もバーベキューパーティーは今年は不参加である。

 小規模でカジュアルなコンサートだったとはいえ、翌日は流石に予定を入れたくなかった。


 でも、だからといって一日中部屋のベッドで寝ていたいって気分でもない。

 ソーシャルゲームを何も考えずにやったり。私物のタブレットでお絵かきをしたり。春休みデートで使った靴を思い出して、ちょっとだけ散歩したりしていた。あとは掃除とか洗濯とか。

 まあ、そんなことをやっていたら、いつの間にか一日は終わっていた。


 そして、その次の日は。例の混雑大嫌いな京都出身者の友達がいるグループと一緒に、ちょっとしたお出かけに出かけて。



 それでもう1日経過して。なんか誕生日以降、ひなのさんに会ってない気がするなー、とふんわり思い始めた頃に。

 私のスマートフォンに、ひなのさんからメッセージが届いた。



 ――明日の夕方に『第3音楽室』に来れる?



 私は、スタンプだけを返した。




 *


 ネオ・バロック様式の旧校舎。1年前と比較して、その建物には多少の親近感を感じるようになっていた。


 迷いのない足取りで玄関へと入り、上履きへと履き替える。ボックスの中に入ったスリッパは使われていないからか、多少埃が被っていた。そして、そのスリッパボックスの真正面には相変わらず京都の画壇の絵画――黒と金の曲線が何度も入り混じっている2メートルほどの大きさの抽象画。



「あっ……」


 ――今なら、この絵が何を示しているか分かった。


「……これは、楽譜だ」


 そこに描かれているものもまた『音楽』であったのだ。



 靴箱が並ぶ玄関を後にした私は、何も持たずにこれまで何度も歩んだ道のりを進んでいく。


 螺旋階段を上って3階の廊下にたどり着いたとき。

 ……やっぱり、奥の部屋からはピアノの演奏が聴こえた。


 廊下の窓は締まっていて。

 そんな窓の外では桜はとうの昔に散って、葉桜になっている。

 上履きで歩く音は響かず、ピアノの音のみが聴こえる。

 換気がなされていない廊下は、ちょっと古臭い感じの匂いがした。



 けれども、私は。そんな情報よりも、開けっ放しとなっている第3音楽室の扉……その向こうに居る、ピアノを弾く前下がりショートボブの銀髪の少女にのみ夢中であった。


「やっぱり、絵にはなるんだよなあ……ひなのさんのピアノを弾いている姿って。

 ……遠目に見ればだけど」


 近くによるとひなのさんの技術的なところの粗が目立ってしまうから、この距離が私にとってある意味、彼女が最も魅力的に見える距離なのかもしれない。



「……おっ。どうやら来たようだね明菜」


「呼ばれたからにはね」


 私が第3音楽室の扉を入って閉じた音に、ひなのさんは気付き演奏をやめる。

 ひなのさんがピアノ椅子に座り、その傍に私が立っている構図。これは今までの1年間で幾度となく遭遇したシチュエーションであった。



 ……違うことが1つあるとすれば。

 私はそのままひなのさんに近づいていき、彼女の背中の方から首に手を回し、距離を無くして……抱き着いたことだろう。


「ちょ、ちょ……明菜?」


 ひなのさんの動揺は、私の手首に当たる彼女の心音の高鳴りからも察せられたが、私はそれを意図的に無視して続ける。


「ひなのさん。

 ……好きだよ」


 私が想起したのは初対面のときのこと。

 思えば、あの1回だけだったかもしれない。ひなのさんが私のことを明確に拒絶したのって。今となっては理由も分かっていることだけれども、こうして仲良くなったからこそ、拒絶されることに私はより怯えている。


「知ってる。……なんか、今日の明菜は甘えんぼさんだなあ。

 ……良いよ。後ろからじゃ姿勢つらいでしょ。ほら、隣に座って――」



 私は。私たちは。決して長い時間じゃなかったけれども。

 ピアノの前で、お互いの肩に手を回しながら、抱き着くように座っていた。




 *


「……ほら、そろそろ離れて明菜」


「……やだ」


「っ……。ホントに今日は甘えたがりだね、明菜。

 でも、ほーら。離れるの。今日はちょっと真面目な話があって、明菜を呼んだのにー」


 言われて思い出した。ひなのさんに呼ばれて来たということに。開口一番のときには覚えていたのに、なんだか抱き着いていたら忘れてしまっていた。


「……じゃあ、ちゃんと聞かなきゃ、だねえ」


 私はピアノから一番近い机の席から椅子を持ってきて、ひなのさんの目の前に座る。椅子が変わったのに距離感がほとんど変わらないことにひなのさんは苦笑いしていたけれども、私が再度話を促せば、彼女はゆっくりと語った。


「……私の誕生日、のことなんだけどさ。

 まずは、ありがとね。あの後結局バタバタしちゃってたから明菜の演奏のお礼をそういえば口頭で伝えてなかったな、って思って――」


「いいよ、別に。あれは私がやりたくてやったことなんだし」


 音楽プレゼントなんて地雷だって言っていたのに、私はクリスマスから付き合い始めて5ヶ月で早々に自分の意見を翻してしまった。

 まあ彼女は、『クラシック音楽』にはともかく私こと『澄浦明菜のピアノ』に対しては興味があったみたいだから『好みを把握している場合』という限定条件は満たしていた気もするので、完全に以前の私と対立しているわけではないけれども。


 しかし、ひなのさんは感謝の言葉の枕詞に『まず』とつけた。つまりはこれが本題ではないのだろう。

 そう思ったタイミングで、彼女は更に言葉を紡ぐ。


「……明菜の演奏を聴いてからずっと思っていたんだけど、今日改めて自分で弾いて分かった。

 私……もう自分でピアノを弾くよりも。明菜のピアノを聴く方が楽しい」



「え……じゃあ、それって――」


「――あ! いやいやいや! 勘違いしないでねっ!

 ピアノを弾かなくなるわけでも、『趣味』じゃなくなったわけでもないからっ! これからも気が向いたら弾くつもりだよー」


「……びっくりした」


 本当に驚いた。

 これまでの私はひなのさんの趣味を維持するために、ピアノが弾くことをしなかったのに、一度弾いた瞬間に彼女にピアノを辞められてしまっては、今回自らの持論を曲げたことに後悔が募るし、何よりひなのさんの演奏をまだまだ私は聴き続けたかったから。



「――でも。明確に変わった。

 ピアノを弾くこと自体は今も『趣味』……なんだろうけれども、意味がね」


「……意味?」


「そ。私が弾いたことが、明菜に伝わっていたり、逆に明菜が改造したりするのを聴くのは……すっごく楽しいよっ!

 だから、明菜にはもっと私の演奏を聴いて欲しいっ! それで、明菜の演奏をもっと聴かせて欲しいんだ!」



 それは。私の言葉で言うのであれば。

 ひなのさんの『趣味』は、自身の曲解釈を私に託して、私が紡ぐ旋律を聴くことに変質したのだろう。

 現状、ひなのさんが自身の曲の解釈を私に伝達するための手段は、言葉ではなく『音楽』を経由する必要がある。だからこそ、彼女がピアノを弾くことをやめることはない。


 けれども、ひなのさんにとってピアノを弾くという行為は元々は目的だったのに、今の話だと手段に変わっていた。それは紛れもない大きな変化であった。


 ……ここで思い出す。

 飾城先生との会話の中で、先生は開口一番に『やりやがった』と言ったことに。


 一連の会話では、先生は私の変化にしか言及しなかったけれども。まあ、気付いてはいたのだろう、ひなのさんの変化にも。

 しかし、それについては飾城先生は言わない。だって、あの先生は自らの領分を弁えて、無理をすることが無いのだから。


 私が『東園ひなの』の『音楽』を自ら演奏して、不可逆的に変質したように。

 ひなのさんもまた、決定的に変わってしまっていた。



 私は。

 ――『天才』を喰らったピアニストになったのだ。



 その言葉は、ふと京都国際マンガミュージアムでひなのさんの言っていた『神絵師の腕を喰らう蛮族』を何だか思い出してしまって苦笑する。


 ……そっか。

 何者にもなれないと思っていた私は……『蛮族』になったんだ。




 *


 私とひなのさんの関係を恋人同士というのであれば、なにも変わらなかったけれども、しかし細かなところでは大きく変質したゴールデンウィーク。

 けれども、世間一般においては、ただの長期休暇が終わっただけである。時折、この私たちと世間の隔たりの大きさに眩暈を感じることもあるけれども、それだけ私にとってひなのさんと共にする毎日が濃厚であることの証左であった。


「あ、東園さんってゴールデンウィーク中に誕生日だったんだってー? おめでとー」


「へへっ、ありがとー!」


 こうしてクラスメイトの中には、それだけ激動であったひなのさんの誕生日など知る由もなく、全てが終わった後にお祝いをする人だっている。

 それは悪いことじゃないが、やっぱり基本的にひなのさんという天才少女は、周囲の心地よさを維持するための見えない壁がどこかにある。



 正直、当事者でない限り彼女の変化を察知することは、多分不可能なのだろうと思えてしまうくらいに。未だにクラスメイトの誰一人として『第3音楽室』を介した関係にすら気付いていない始末だ。


「明菜さんって、ゴールデンウィーク中にボランティアやってたんでしょ? 偉すぎじゃないー?」


「えー、そうかなー」


 そして、私もまた。別にそういう踏み込まれない友達の距離感というのは嫌いじゃないのだ。だから私も、2人で居る時のひなのさんだけが例外、なのだろう。



「はいはーい、明菜っ明菜っ!」


 ひなのさんの部屋で2人きりになった途端、急に小動物みたいな感じになる私の銀髪彼女。基本アクティブだから違和感は無いが、しかしそれでも教室版ひなのさんとのギャップが凄い。


「どうしたの、ひなのさん?」


「私たちって、結構デートに行ってるじゃん?」


「そうだねえ……」


 恋人になってからで言えば。

 着物デートから始まって。バレンタイン一緒にやったり、お互いの誕生日祝ったり、カフェとか焼肉に行ったり、お花見散歩デートとか、まあ色々やってはいる。


「そろそろ付き合って半年になるからさ……そろそろ、出てくるんだよね、欲が?」


「よ、欲? ひなのさん、もしかして――」


 私がにやにやしながら胸元でバツを描くように手をクロスさせると、自身の失言と、からかいに気付いたひなのさんは突っ込みを入れる。


「そっちじゃなくて! 今、話しているのは別の欲っ!

 そろそろ、明菜と変化球的なことをしたいって欲求の方!」


「あー……『あんまり良さ気じゃないプレゼント交換会』みたいなやつ?」


「ま、そこまでいかなくてもいいけどね」


 ひなのさん曰くの『欲』は、私にしてみれば可愛いワガママ的なものだから、別に全然かまわないし、良いんだけど……。なんで、この子、時折変な方向に突っ走ろうとするのかなとは思ったりする。


「……で、何をやりたいの?」


「キャンプ!!」


「え。それは別に普通のデートじゃない?」


 というか友だち距離感で行くならゴールデンウィーク中のバーベキューパーティーに参加すれば良かったんじゃ、と思うし、恋人同士なら、確か前に行った水着の温泉のところにグランピングの施設があったはずだから、そこに行けば解決なのでは? と思ったが、ひなのさんは斜め上に行った。


「部屋でキャンプしたい!!」


「……んんっ? 部屋って、寮の?」


「そう!

 私か明菜の部屋、どっちでも良いけどねー」



 ひなのさんが不思議なことを思いついた……と思ったけど『部屋キャンプ』ってスマートフォンで調べてみれば意外と検索結果に出てきてびっくりした。


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