第40話 哲学の道&蹴上インクライン
結構遅めの集合にしたのと、学園からバス停までの道中でちょっとゆっくりしすぎたこともあり、現在時刻はまもなく正午といったところだった。
「……そう言えばさ明菜。お昼ご飯をどうするかって決めてる?」
「いえ。この辺りは結構お店が多そうだって調べてて思ったから、歩きながら探そうかな、と。
……それに、多分ひなのさんの方が詳しいでしょ?」
「おおー、根拠なきプレッシャー……。
でもっ! 今回ばかりは明菜の予想通りというか、銀閣寺周辺に来たら明菜と一緒に行きたいなーって思ってたカフェがあるから、そこでお昼にしない?」
「もちろん。ひなのさんのセンスは良いからね」
もっとも、センスが上限突破してこの間は高級焼肉店に行ったけれども、基本的に彼女のお店選びの審美眼は信頼している。
哲学の道からは早々と外れた私たちは1本別の道へと入っていき、ひなのさんの話にはどうやら、そこそこ有名なカフェらしいということを聞きつつ、それから間もなくして到着した。
そこにあったのは、ツタが建物周囲に生えた白い洋館。
八角形の尖塔が特徴的ながらも、全体としては古典的なコロニアルスタイルを取った建物。
こういう建物の形容にはしばしば『絵本の中から飛び出してきたような』といった語彙が使われるが、しかし日本におけるコロニアルスタイルの源流は明らかにアメリカの伝統的な住宅様式からの系統進化である。
即ち。
「――ヴォーリズ建築……風かあ」
「……ヴォーリズ?」
「あ、うん。20世紀に日本で活躍したウィリアム・メレル・ヴォーリズって建築家が作った建物のことを言うんだけど――」
主な特徴は3点ある。
建物はアメリカの伝統建築のスタイルを模していて、自然志向。しかし、それでいながら生活についての視点が含まれている。その為、多くの著名な建築家とは異なり、彼の建築作品は最大で千数百軒程度存在すると言われているが、その中には多くの『ただの住宅』が含まれている。
計画的な住環境の構築こそがヴォーリズの真骨頂であり、どこからどう見てもアメリカ式の洋館風の建物なのに、当時の日本人の住みよい環境構築のために和室や床の間を設置する、なんてこともしていたり。
しかし、まあ。ひなのさんに対して言うのであれば。
「本当に一言で表すなら『一般受け』しやすい建築なんだよね、ヴォーリズって。もっと、俗に言うなら『映え』やすい。
だから、ヴォーリズ建築は割とあらゆるところで模倣されてて、実際にヴォーリズ本人が作ったかどうかってパッと見ただけじゃ分かんないんだよね」
そう言ったらひなのさんがスマートフォンでお店の情報を調べてくれて、その結果、この喫茶店はヴォーリズ本人の作品ではないものの、彼が遺した建築事務所が担当していたということが分かった。
「へえー。文化祭のときに教えてもらったピアニストくらい全然知らない人だ」
あー、ミケランジェリね。確かに建築家としてのヴォーリズの知名度自体はどうなんだろう……ミケランジェリと同等レベルの知っている人には巨匠、というポジションではあるのかも。
「興味無さそうだけどね、ひなのさん。
緑色のパッケージのリップクリーム。あれ、ひなのさんも持ってるでしょ?」
「あれっしょ? アメリカっぽい絵柄の女の子がマークに描かれてるやつ。
今も持ってきているよ」
「あ、出さなくてもいいから。
……それ、日本に持ち込んで広めたのってヴォーリズだよ」
「えっ、そうなのっ!?」
正確に言えばリップクリームという形ではなく塗り薬だったと思うけども。ともかくヴォーリズは建築家としてだけではなく実業家としての側面もあった。ぶっちゃけ謎過ぎる組み合わせだが、歴史上の人って割とそういうことがある。
それは果たして、今の世の中が専業化しすぎなだけなのか。
はたまた、歴史に名を残すくらいの人物は天才だからなのか。
……そんなことを考えていると、ふと思った。
私はともかく、ひなのさんという『天才』もまた。歴史に名を残せるくらいの人物なのだろうか、と。
*
「――びっくりした」
「どったの、明菜?」
映えな洋館に入って2階に行ってお昼ご飯の注文を行った私は、端的にひなのさんに驚きを伝える。
暖炉を含めたあらゆる調度品がアンティークな調度品で揃えられていることに驚いたのではない。
店内に置かれたテーブルや椅子の高さが敢えてバラバラで、お客さん同士の視線が微妙に逸れるような作り――それこそ『住みよい』空間造成というヴォーリズの理念に乗っ取った内装であることでもなく。
はたまた、注文したグラタンとサラダとドリンクのランチセットが、先日の高級焼肉屋さんのランチよりも高額だったことでもない。
「……まさか、またアップライトピアノが置いてあるお店だったなんて。
最近、ひなのさんがおススメするお店でピアノがあること多いよね?」
そこにあったのは、木目調のアンティークピアノ。結構古めかしさはある。
「あははー……完全に偶然なんだけどね。ってか、ピアノがあるお店の調べ方なんて知らないし!
――で、これはなあに? ヤマハ? それともスタインウェイ?」
「……いや。
『ペトロフ』だね、きっとこれは――」
「おー、初めて聞いたかも。もしかして今までで初出メーカー?」
『ペトロフ』はチェコの老舗ピアノメーカーだ。
流石に私の周囲においては、コンクール用途として使われることは殆ど聞いたことがないけれど、しかしヨーロッパメーカーとしては生産台数が結構多めのピアノメーカーだ。
どちらかと言えば、高級品よりも大衆向けという高品質でかつリーズナブルな方向性のピアノが多く、メーカー希望価格はともかく実販売価格だとヤマハのピアノとそれほど遜色ない値段でヨーロッパピアノが入手できるのは魅力的である。
もっとも、チェコ自体の物価が安めだから日本に輸入すると割安に見える、という側面もあるのと、チェコの現地文化では代理店も含めた販売店舗でも、しっかりと最終調整をしてからお客さんに納品する都合が、若干日本のピアノ文化と合ってないというところがあるためだ。日本のピアノの『常識』ではメーカーからの出荷時点で完璧に仕上げるというのが基本思想なので、販売店調整必須という概念が馴染みにくい。
しかしそれは低品質を意味するものではない。『完璧主義のピアニスト』であるミケランジェリは、スタインウェイを最も愛用していたものの、ペトロフの愛機でコンサートを行うことだってあったくらいには、ペトロフのピアノも良い代物なのだ。
またミケランジェリは優秀な弟子15人のために15台のペトロフのピアノを用意した、なんて話もある。
本国ではかなりスタンダードだし、というかそもそも『アップライトピアノ』について言うのであれば、ペトロフはその世界的な普及前から製造している先進さも兼ね備えている。
あと、日本ではアップライトピアノは、グランドピアノを買えなかったりスペースが無い人用、という認識が根強いが、ヨーロッパでは割とそれぞれ個性がある別の楽器という考え方すらある。
「……木彫りっぽい感じで部屋のレトロな雰囲気に合ってるよね。
でも、珍しいよね、黒くないピアノって……。って和風アトリエで弾いたのとかも木目だったけども」
「あれはエラールね。
ちゃんとした場所で使う用途のピアノは基本黒だけど、別に家に置くとかなら無理に黒色だけにこだわる必要はないからね」
ただ。身も蓋もない話をすると、現代においては外装が黒色以外のピアノってメーカーにもよるが殆どの場合、追加オプションなので値段が高くなるというのもある。フォーマルな場面にも使えて安いともなれば、黒が主流になるのはある意味当然とも言えよう。
「……で。これまで明菜から色々ピアノについて聞いてきたけどさ。
結局、どれが良いの?」
「シチュエーション次第だね。
私が弾きやすいって意味の良さなら、当然実家で使っているからヤマハのアップライトピアノだし。
まあスタンダードにいけば、スタインウェイを『良いピアノ』に挙げるのが無難だよね。
――でも。『京都』と『ピアノ』って話になるなら。
私は、この『ペトロフ』を選ぶかな」
「へえ、それまたどうして?」
「『音楽』ではなく『美術』の領域でちょっと訳ありだから――って。
来たみたいだね」
店員さんが私のグラタンと、ひなのさんのハンバーグセットを持ってきたことで私たちは一旦会話を止めて、ご飯に集中することにした。
――アンティークな店内には、クラシックではなく古典的なジャズの音楽が流れていた。
*
「なんだか景色を楽しみながら歩く、って良いねっ! ハイキングみたい!」
「短い時間ならね」
「おっ、出ました。明菜のインドア派発言っ!」
のんびり食事を終えた私たちは再び哲学の道へと復帰した。ほんのちょっとだけ人通りも減った気がする。みんなもご飯に行っているのかな。
とりとめのない話をしながら、春先のぽかぽかした陽気の中ひなのさんと一緒に歩く。その時間はどこまでもゆったりとしていて……楽しい。
ただ、途中でお土産屋さんとか雑貨店に何回か寄ったのだけれども……。
「……なんというか。私たち京都に住んでいるから、お土産系のものはあんまり欲しくならないね」
「思えば、明菜と2人で買い物行くときって大体食べ物か必要なものしか買ってないし……」
西陣織のがま口財布とか和風な柄のボストンバッグとか、観光で来ていたら買っていたかもな、ってアイテムはちらほらあるのだけれども、実際に京都に住んじゃっているといつでも買えるが故に、あんまり買おうとは思わない。細かい雑貨類やアイテムも『今のとこ足りないものないしなー』っていう気持ちが強い。
見るのは楽しいんだけどね。完全に冷やかし客である。
「ま、無理にお金使うことはないか……」
「必要になったらまた来れるしねえ」
結局、私たち――というか私と、私に合わせてくれるひなのさんのペアだと。
購入したものを、後々思い出として部屋に飾ることはあっても。
端から思い出づくりのためだけに、何かを購入することが乏しいのだろう。
そんな風に考えつつも、水路とともに併走する歩道を更に歩き続ける。そろそろ終着地点かな、とか考えていたら。ひなのさんがいきなり大きな声を出した。
「――あっ! 猫だ! 明菜、明菜! 猫ちゃんが居るっ!
行こう、行こう!」
「わ、ちょ、ちょっとひなのさん引っ張りすぎ――」
「あ……。えへへ、ごめん。
でも、猫ちゃん見たいから行きたいけど……ダメかな?」
「ダメなわけないじゃん」
「いよーしっ!」
哲学の道は京都でも有数の猫スポットとしても有名だ。今までずっと見なかったけれども、どうやら哲学の道エリア全体に満遍なくではなく特定の地域に集中して居るっぽい。
実際にひなのさんに半ば連れ去られる形で、猫を追ってみたら。そこらじゅうに猫が何匹も居る場所に出た。
「すごい、すごーい! 猫ちゃん一杯いるねー。
あー……見ているだけでも癒されるー……」
「……そーだね」
「うーん、首輪とか付いていないから飼い猫じゃなくて野良猫なのかな?」
「ひなのさんは猫、飼ったことないの?」
「猫ちゃんだけじゃなくてペットは一度も。まあ金魚とかなら小学生の頃に――あ、寝転んだっ! 可愛いー」
「……うん」
ひなのさんは、私の話を聞いていないわけじゃなかったが、しかし明らかに猫に熱中していた。メロメロとも言う。
「ぷくぷくまるまるしているから餌とかはちゃんと貰ってるんだろうねえ。良かったねえ」
「……」
「毛並みもこもこしてそー。触りたいっ……けど、一応野良猫だし止めておいた方が良いのかな……。むむむ、でも触りたい……」
「ひなのさん」
「なーにー、明菜――って! うわあっ、木登りしてる子も居る!
見た目に反して俊敏だねえ」
……ひなのさんと一緒に遊ぶ中では、これは初めての経験だった。
彼女は絶対に私よりも他のことを優先はしなかった。それはむしろ恋人のときよりも、友だちだけだった頃の方が強かったことから、恋愛感情以前の彼女の処世術としての行動だろう。
だから、今。彼女が猫に熱中できているのは、他ならぬ私が一緒で、私に対しては気を許しているからだと分かっている。普通の友人相手だったら、逆にひなのさんはその友人から目を離すことはない。断言したっていい。
……でも。
これが、ひなのさんが私に心を開いているからとは言っても――ちょっぴり寂しい。
「…………にゃん」
か細く、ひなのさんにだけ聞こえるように告げた私の声は。しかし、彼女を振り向かせるのには絶大であった。
「――えっ、明菜!? 今の、明菜だよねっ!」
かなり気恥ずかしさもあったが、それでも止めようとは思わなかった。
「……ひなのさんが、触りたいなら。
私を触ればいい……にゃん」
「……明菜。それは、流石に反則。
私が猫ちゃんに構ってて……寂しかったの?」
――まだ、私はひなのさんを煽る。
「……にゃん」
呆けていたひなのさんのワインレッドの瞳が、徐々に染まっていく。
何色に? ……好色に。
「……そっか、そっか。明菜は猫ちゃんだったのかー!
ふふっ、じゃあ……子猫ちゃんを存分に可愛がってあげなきゃ……だね?」
――それから20分くらい経ったあとに。
私は近くのお手洗いでメイクのし直しと、それから髪の梳かし直しが必要になった。
*
「……お互い、さっきのことは忘れよっか」
「……そうだね」
哲学の道は終端まで到達したので、今はそこから次の目的地へ移動しているところ。ようやく顔の赤さも引いてきたために、私たちは性懲りもなく再び手を繋ぎ直す。
「それで、歩き終わったのに徒歩移動なんだね」
「なんかバスとかで行くよりも歩いた方が早そうだったから――」
「どのくらい?」
「1kmちょっとかな?」
「……哲学の道の距離分くらい無い?」
とはいえ桜並木ではないただの街中なので、先ほどよりかは歩くペースは上がる。その歩幅の速さには、少なからず私たちの照れによる加速分も乗っていたが、それをひなのさんに指摘できるまでメンタルは回復していないし、彼女もきっと同じだろう。
明らかに口数が少なくなっていたが、それでもひなのさんと一緒に居るのはとても素敵で。居心地が悪いとは一切思わなかった。
「あっ、ひなのさん、ここかも。
そこの階段降りていけば良いと思う、多分」
「りょーかい……って、いやいやいや、明菜?
ここ、下は線路なんだけど!? 入っちゃって良いの?」
「ひなのさん、よく見て。他にも人が居るでしょ?」
「あ……ホントだ……」
「――『
もう廃線になったみたいだけど、船を引き上げたりするときに使う鉄道跡らしいよ」
インクラインとは傾斜の意味で、一言で示すと貨物用のケーブルカー路線のことを指す。
この場所は建設当時はインクラインとしては世界最長だったようで、そのため表向きは産業の遺産としてこうして保存されている。
じゃあ、裏の理由は? と聞かれそうだが、これは自明で。実質的には桜並木の観光名所として大多数の観光客には知られている場所だ。
しかも、ただの桜並木だけじゃない。
「……おー、なんか線路の上を歩くのって現実味が全く無いね」
法律上問題なく線路の上を歩きながらお花見が出来る場所なんて早々ない。そういう意味では蹴上インクラインの存在意義は非常に大きい。
「……昔の映画で、線路の上を走るやつあったよね、明菜?」
「あー……もしかして、スタンド・バイ・ミー?」
「いや、天気の子」
「そっちかー」
あれって小6とかの頃の映画だっけ。確かに昔の映画だ。
それからしばらく無言で、私たちは線路の上を歩く。桜に包まれて。
「……あーきな」
「……ひなのさん?」
「ふっふっ、呼んだだけ」
「……なにそれ」
そのやり取りの直後、私と繋いでいたひなのさんの左手がもぞもぞと動く。私は右手を彼女の動きに任せていると、おずおずとではあったが、ひなのさんは私の手に指を絡めてきた。
「……明菜って、いつでも爪をちゃんと切っているよね」
「これは、もう――癖みたいなものなので」
絡めた彼女の指先が、そっと優しく私の爪に触れる。
「明菜の手……やっぱり、好きだなあ……」
「ひなのさんの指はすらっと長くて、好きだよ?」
「……ほんと、私たちって指の形も全然違うよねえ」
私の手はまだ。指の筋肉が残っているピアノ奏者っぽい手。
しかし、ひなのさんは、指が細くて綺麗な手。
もしかしたら初対面の頃よりはひなのさんの指にもピアノを弾いていることによる筋肉が付いているのかもしれないけれども。
それでも、どちらの手がよりピアノ奏者らしいかと言えば、まだまだ私だった。
「――折角だし。写真撮ろうか、明菜」
「……そだね」
ひなのさんが自撮り棒を取り出して撮影した、その1枚の写真が私たちが初めて『恋人繋ぎ』をした思い出として。
私たちのピクチャーフォルダーに残ることとなった。
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