第37話 弾けないピアノと誕生日
誕生日当日の朝はメッセージアプリの通知音で目覚めた。
スマートフォンを寝ぼけまなこで開いてみると画面のブルーライトの眩しさとともに、日付が変わった瞬間からメッセージが送られていたことに気付く。
画面上の時計を見れば、普段よりも30分近く早く起きていたが、目も覚めたために、早起きした時間はメッセージ返信に使うことにした。
当然、ひなのさんからもメッセージは届いていたが、それはお祝いよりも今日の放課後についての確認に比重を割いていたので、スタンプだけで返信しておいた。……多分、他の友達へのメッセージ返信でてんやわんやになるから、負担の少ない文面にしようとか考えているんだろうなあ、ひなのさん。
そういう配慮は、恋人である私に対しては別にしなくても良いとは思っているが、それがひなのさんの魅力の1つであることもまた事実で。
とはいえ。小さい子どもであったときに感じていた誕生日が特別な日――みたいな意識は、大分薄れてきてしまっている。所詮、世間一般にとっては今日はただの平日でしかなく、私もメッセージ返信が終わればそのまま学校へ行く準備をすることになるからね。
*
食堂での朝食や、登校後に友達からお祝いの言葉を貰ったり、ささやかながらもプレゼントを頂いたりした。あと、先生方の一部も認知していたらしく、何故か授業中に『今日は澄浦さんが誕生日だから』と指名されたりもしたのは意外だったが、まあその程度だ。
プレゼントはコスメとかスキンケア用品で、私が普段使っているものだったり、あるいはビジュアルに自信がある子は一押しのアイテムを渡してくれたりした。
そうした感じで、普段とは違うちょっとだけ特別ながらもやっぱり『日常』の一日は去って行き――放課後。
クラスメイトなどから貰った誕生日プレゼントはひとまず、自室に持ち帰ってから、軽く身嗜みを整え直す。別にいつも通り授業を受けて、大した距離もない校舎と寮の間を歩いただけで汗をかくようなことは何一つなかった訳だけれども、そうは言っても、恋人が誕生日パーティを開いてくれるのに、そんな平常通りの姿を見せるわけにはいかなかった。
ただ、放課後からさほど間をおかずに寮のエントランスホールに集合――というか、これはひなのさんが意地悪だったということではなく単に放課後という時間的制約を鑑みてのことだろう――としていたので、出来ることだけをささっと行う。
学校用のナチュラルメイクはそのまま。ただ髪はドライシャンプーでさっとケアして、制服のブレザーとスカートは無香料の消臭スプレーをかける。
中に着るYシャツはこの日のためにクリーニングした後使っていなかったものを下ろして、肌着やインナーも交換。その際に石鹸系のクリームタイプの制汗剤を少しだけ使う。
僅かな時間だったために、これだけでもドタバタしてしまった上に、エントランスホールに到着した際にはひなのさんが既に待っていた。
「――ごめん! 待たせちゃった、ひなのさん?」
「……なんか、こういう場面で『今来たとこ』って言っても、定型句すぎて逆に信用できないと思うんだけど、本当に今来たばっかりなんだよねえ。
――って、明菜? え、え、まさかこの短時間でお風呂入ってきたの!?」
その、ひなのさんの驚きの反応が見られただけでも内心してやったりである。私たちはいつも通りバス停へと向かいながら話し続ける。
「シャワーくらいならこの短時間でも急げばいけるかもだけど、髪が乾かないでしょ」
一応、この寮には大浴場のほかに、運動部に入っている人が部活終わりとかで汗を流したいときなどに使うシャワールームがあることはある。個室のシャワーが何室も並んでいる部屋ね。だから時短でシャワーだけ浴びることも可能ではある。
「あー……。明菜の髪長いから乾きにくいんだっけ」
そうひなのさんは言いながら、私の髪の中に手櫛を入れるように触ってくる。着物のひなのさんの髪を触ったとき以来、私たちはお互いの髪を割と触りたいときに触るようになった。だから、ドライシャンプーを使ったというのもある。
しかも。
「……あの、ひなのさん。髪を触るのは良いけどさ。でも。
髪の匂いを嗅ぐのは……大分、恥ずかしいんだけど」
「えぇー? ダメー?」
「ひなのさんが一番恥ずかしいと思うタイミングで同じことをするよ?」
「あっ、やめます、はい」
そう言うひなのさんの手には、明らかにお出かけする荷物としては不釣り合いな無地の紙袋があったことに私は気付いていたが、その中身に何が入っているのかを聞くほど疎くはなかった。
*
普段通りの学園前のバス停から乗車した私たちであったが、しかし到着した場所は初めて降り立つ地域であった。
バスを降り立って、すぐに気付くほどにはここには象徴的な建造物がある。
外観は3階から4階建てで、ほぼ完全な左右対称性。色味から、コンクリート造りであることが予想できる洋風の大邸宅……ともすれば美術館や神殿としても通用しそうなその様式の名は――ネオ・バロック様式。
……碧霞台女学園の旧校舎とほぼ同一の造りをしたその建物の名は――。
「――京都市役所、ねえ。
1年間京都に住んできたけど、初めて来たよここには」
「……まあ、私も明菜の誕生日に連れて行きたいお店が無かったら来なかったかもねえ。偶然よ、ぐーぜん」
私たちが京都市役所を一度も訪れたことが無い理由は、そうした手続き云々で訪れる機会が未成年では限られているという理由以上に、実際に行くなら学園から最寄りの『区役所』であるという点に尽きる。
もっとも、私の出身地が『名古屋』という京都と同じく『区』が存在するエリア出身なせいで、その特異性があまりピンとは来ていないけど。
しかし、区役所を利用していた私が、京都市役所に全く興味が無かったか、と言えばそういうわけではない。建築について多少なりとも学ばされた過去がある私にとって――何より、それが他ならぬお爺様関連で名古屋の政治家の息がかかっているという意味でも――『京都市役所』という構造物の名は、存外大きい。
『関西建築界の父』と言われ法隆寺の壁画修復や国会議事堂の設計にも携わった人物の作品だ。
……名古屋市役所は、大阪府庁舎を設計した人物の作品だけど。
また、政令指定都市の中では最も歴史がある庁舎であることは間違いない。
……名古屋市役所は、京都に次いで2番目に古いが。
そして、ネオ・バロック様式を取りつつも、東洋文化との統合も図り、日本や中国の意匠のみならずインドや、イスラームの建築様式まで取り入れている点はまさしく異例であろう。
名古屋市役所は、ちゃんと国の重要文化財に指定されているけどね!
「なんで、明菜は市役所の建築で、京都と張り合ってるの……」
「普通の名古屋民なら多分気にも留めないと思うけど……ほら、私には『普通じゃない』伝手があるから……」
「ああ……」
ひなのさんは、そこでしっかりと私のバックグラウンドに思いを馳せることが出来たようだ。この手の『教養』を幼少期の私に叩き込むように指示したのは、私のお爺様とその『盟友』たる元々は議員をやっていた人だからねえ。
プラスアルファの部分の知識で、若干地元バイアスがかかっているのは認めるしかない。
*
「とうちゃーく!」
「……ここは?」
京都市役所の脇の道……というか、道の片側に市役所がある場所で、ひなのさんは立ち止まって声を発した。
勿論、用があるのは市役所ではなく、その反対側にあるビルであった。
そのビルは、特段不思議なものは無くアパートか、もしくは何らかの事務所などが入っているかは分からないが、さりとて一般的なものである。
ただ1つ、特筆すべき点を挙げるとすれば。地下が喫茶店になっているようであった。
となれば、ひなのさんの言う目的地は地上ではなく、地下であることは間違いないだろう。
そんな思考の中で、ひなのさんは先の私の疑問に答える。
「ここはね……コーヒーと
「また……随分と珍しい組み合わせの喫茶店をよく見つけてたね」
「えへへ……」
ひなのさんと会話しつつ外階段を下りて、地下の店内へと入る。
そこに広がっていた空間は、喫茶店としても異質なものであった。ひなのさんと一緒に喫茶店に寄ったことは祇園のときに一度ある。しかし、そこは内装はオーソドックスなカフェであった。
……まあ、後は京都駅地下街に行った際に、隣のビルにあったインクボトルの抹茶ラテを購入したこともあったか。しかしイートインスペースが限られていたあそこは私のイメージとしては喫茶店というよりもむしろドリンク販売店という印象だ。
翻ってこの場所。
一言で言い表すのであれば、喫茶店兼雑貨屋である。あるいはアトリエ的な展示コーナーも兼ねているだろうか。
ディスプレイも兼ねた大きな木目調の本棚が印象的で、そこには古書が『展示』されている。流れている店内BGMが多分ジャズ系統なので、私はそちらの楽曲には詳しくないが、きっと本もそちらに寄ったものなのかな、とは思う。
とはいえ。何より私の目を惹いたのは。
「――ヤマハのアップライトピアノ。しかも多分……『U7』ですよね、これ?
まさか、こんな絶版の名機がある場所をひなのさんが選ぶなんて、私も全く想定していなかった……」
「いや、私も明菜がそこまでピアノに食いつくとは思ってなかったよ! そんなに凄いピアノなのこれ?」
「場合によっては、グランドピアノを越え得るピアノだよ、これ――」
ヤマハの『U7』。
現行のヤマハのアップライトピアノモデルの中で最高級を誇るSU7の前身とも言うべきモデル。
最大の特徴は『アグラフ』という弦の抑え方が全ての鍵盤に使われていること。一般的なピアノ――それこそグランドピアノも含む――だと『プレッシャーバー』という部品によって複数の弦を一緒に抑えているが、『U7』あるいは現行モデルの『SU7』においては、これを全ての弦で独立させている。言うまでもなく、音の伝わり方が変わるので、音色がハッキリして調律もやりやすい。
現行のSU7なら300万円程度。同じヤマハであれば、普通にグランドピアノを購入可能な価格帯だ。
加えて、今目の前にあるピアノはSU7ではなくU7だ。ぱっと見では丁寧に手入れされているものの、どう考えても相応に古い。店員さんに尋ねたら1965年製とのこと。間もなく60年といったところだから、そろそろガタが来てもおかしくない逸品だが……『ジャズ』を流しているお店の目立つ場所に置いてあるんだ。
――使えるのだろう、きっと。
ひなのさんはどうも予約をしていたようで、注文も事前に伝えていたようだ。他にお客さんは居ないが、貸切までしているのか……というか、そもそも出来るのかはちょっと未知数。
「そいえばさ。明菜の実家にもヤマハのアップライトピアノがあるんだったよね?
それも、さっき言っていたU7とかSU7ってやつなの?」
七夕のときだったっけ、それを話したの。
「いや。流石にそこまで凄いのじゃないよ。ふつーふつー」
「ピアノが家にあるだけで、普通じゃないとは思うけどなあ……」
それは……そうかも。
でも、グランドピアノを最初は置こうとしていたと聞いている私のお父さんも、いきなりヤマハ最高峰のアップライトピアノは選択しなかった。暴走しなかった、とも言う。
と、そんなことを話していたら店員さんが私たちのテーブルへとやってきて、コーヒーと羊羹を持ってきた。
「――こちらが、チョコレートで、もう一方がいちじくと黒糖になっております――」
「ありがとうございますー!」
ひなのさんが返事をすると、チョコレートの羊羹の方を私の前に渡した。
「ありゃ? 明菜、黒糖のが良かった?
半分こする予定だったんだけど……」
「いや、そっちじゃないというか……あ、でも食べさせ合いっこはしたいからむしろOKなんだけど……。
これ……ピアノの羊羹?」
平皿の上に乗っていた羊羹はただの羊羹ではなかった。
それは、2オクターブちょっとの29鍵を模した長方形のピアノ。小さいけれども、ピアノをあしらった代物だと一発で分かる見た目をしたお菓子であった。
「そうっ! まー、色々考えたんだけど、やっぱり私と明菜の関係の原点で言ったらピアノなのかなーって思って。でも、普通にピアノ関係だと明菜が知っているものに絶対なる気しかしなかったからさ、こういうお菓子方向で攻めてみましたっ!
……ふっふっふっ、知らなかったでしょー? 明菜ー?」
「そりゃ、ピアノに多少心得があっても、羊羹には心得はないからねえ」
「……一瞬、アップライトピアノを特定したことで、ひやっとしたのは内緒だけどねっ!」
「全部口に出てるじゃん」
――羊羹のピアノ。
ひなのさんがどこまで考えてのものかは分からないが、成程大したものである。私たちの出会いのピアノは旧校舎の第3音楽室のピアノであった。そして私たちの学園の旧校舎とは、京都市役所と同じネオ・バロック様式――洋館である。
……これが六孫王神社にて『恋』と『鯉』の言葉遊びを『ダジャレと馬鹿にはできない』と言った私のセリフに適応しての『羊羹』と『洋館』であれば、やっぱり彼女は只者ではない。
そして、何より『羊羹のピアノ』は食べ物であり……
即ち、趣味でしかピアノが弾けないひなのさんと。
ひなのさんの前では、ピアノが弾けない私とを。
この上なく象徴する――『弾けないピアノ』なのだ。
正直、どこまで意図したものかは分からないし。それを直接ひなのさんに聞く、という野暮ったいことをするつもりもない。
でも、正直なところひなのさんがどこまで考えているかなんてはどっちだって良いんだ。私がそう受け止めたいから、そうする。……それだけ。
かつて19世紀ホールにて明菜さんにSL列車を見せたときの逆構図だ。あの時、私はひなのさんのことを理解していたわけではなかった。
でも、ひなのさんはそれを百も承知で、喜んで好意を返してくれた。
私たちの関係は、そうした恐らく相手が意図しなかった解釈をも、好意に乗せて、好きの気持ちとして伝達し合う関係――それって、とっても素敵なことじゃない?
そんなひなのさんの愛がこもった『ピアノ』を食して、コーヒーに口をつける。
「……結構、酸味が強めだね、このコーヒー」
私の発言に、ひなのさんは本当に嬉しそうな笑みを浮かべながら弾むように話す。
「――でしょ? 今、結構流行っている『浅煎り』のコーヒー。
でも、甘い羊羹との相性は抜群じゃないっ!?」
「そうだね、交互に食べると甘酸っぱい――」
「甘酸っぱい――それって、私たちにお似合いの味、じゃない?」
青春を形容する味覚として。確かに『甘酸っぱい』という言葉は一般的だ。
他ならぬ青春真っただ中の高校生で、しかも恋愛中の2人となれば、甘酸っぱさに溢れているものだろう。
でも――
「……言うほど、私たちの関係って『甘酸っぱい』かな?」
「うーん……どちらかというと――『甘々』?」
――女の子同士であることを放っておいたとしても、私たちはそもそも一般的な恋愛をどうもしていないように思った。
既に『あーん』ってお互いの羊羹を交換しながら食べている私たちには、酸っぱさの要素はもう、それこそ『浅煎り』のコーヒーくらいしか存在しないような気がする。
*
「あ、忘れそうになってたけど。ひなのさん?」
「……?」
後半は食べさせ合いっこに終始していた気がするが、私はふと思い出したことがあった。
「……紙袋、持ってきていたよね?」
「――あっ! 危ない、幸せ過ぎて忘れるところだったよー。
いや、プレゼント渡す側が忘れちゃまずいか」
「しっかりしてよ」
「あはは、ごめんごめん。
――じゃ、改めて。お誕生日おめでとう、明菜っ!」
そうして紙袋ごとひなのさんは手渡す。
「……中を見ても?」
「うん、いいよ。ラッピングしよっかな、とも思ったんだけど、渡してすぐ中身を見て欲しかったから最低限――」
ひなのさんがお誕生日プレゼントに選んだのは――薄い桃色のもこもこの部屋着。多分、ひなのさんが持っているやつの色違いだこれ。上は首元まで暖かい長袖のもこもこだが、セットになっているのは上半身と同じ素材のハーフパンツ。……ひなのさんが好きな私の肩を隠している一方で、私が恥ずかしがる脚を結構出すやつ。
「……完全にひなのさんの趣味で選んだよね?」
「もちっ! あ、普段は着なくて良いよ。私が居る時には、たまーに着て欲しいな」
「……つまり?」
「……明菜が、私とイチャイチャしたいときのサインとして使って――」
……ちなみに、この誕生日の夜。
私がプレゼントされた部屋着を着て、ひなのさんの部屋を訪ねたことは――語るまでもなかった。
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