第35話 京の水藍
「あ、今流れているのってクラシックじゃない、明菜?」
ひなのさんとバレンタイン用の材料買い出しへ行ったときの一幕。別に特別な場所にやってきたわけではなく、スーパーマーケットの売り場でしかない。
その音源を流している機材も『店内放送』みたいな
しかし、そんな場所にも世間一般には『高尚な音楽』と認識されているはずの、クラシック音楽は偏在する。
「あー、エドワード・エルガーの『愛の挨拶』だね。
何というか、ありきたりというか、意外性が無いというか……」
「エルガー?」
「そりゃ、ショパンとかベートーヴェンに比べちゃ流石に知名度は落ちるか……。
ほらひなのさん。『威風堂々』の人」
「あー、作曲家まで認識してなかったけど分かる曲名だ!」
エルガーくらいなら伝わるかな、と思っていたがどうやらダメだったようだ。興味の対象外のジャンルについてどこまで知っているか、というのは見極めにくい。けれども、仕方がないことではある。
私も、もしひなのさんから動画投稿サイトで有名になったDTM作曲家について言われても、彼女が定番と認識している人でも知らない可能性は全然あると思うし。
「しっかし、明菜が居るとホントに助かるねっ!
『威風堂々』ならともかく、今流れている曲くらいだと、フレーズは聞いたことあるなあ……と思っても、曲名なんて知らなかったもん!」
一応、『愛の挨拶』という名前は知らなくても聞いたことはあったらしい。冠婚葬祭全てで起用される脈絡変換の王である『G線上のアリア』には及ぼずとも、『愛の挨拶』もまた現代社会においては割と耳に入りやすい方のクラシックだと思う。ショパンの『別れの曲』とは逆に、全音ピアノピースでは簡単詐欺の方の難易度詐称が行われている曲。
でも。この場においては、そこまで的外れな選曲でもない。いや、スーパーの売り場で流していること自体は充分な脈絡変換ではあるのだけれども、元々はエルガー自身の婚約記念で作成された曲で、ちゃんと『恋人に贈る』という目的においてはバレンタインチョコとこの曲は一致しているからね。
「……でもその割には、明菜は微妙な反応だったよね?」
「まあ……正直、王道ではあれど安直でもあるしねえ……」
「じゃあ、どういうのが良いの?」
「……うーん。例えば、バレンタインデーに合うクラシック曲を100曲ピックアップしたアルバムとかなら世の中にあるから、そこから選ぶとかかな」
「そんなピンポイントなアルバムあるんだ!?」
確か有名どころだとエリーゼのためにとかパッヘルベルのカノン、エルガー作曲ならエニグマ変奏曲のニムロッドの方が入っていたと思う。
「逆にチョコから攻めるなら、ショパンかな。
毎朝彼女にホット・チョコレートを作って貰っていたって話があるくらいだし」
「……ココアみたいなやつ?」
「ココアパウダーは入ってないけどね。あ、でもショパンはスミレの花の砂糖漬けをホット・チョコレートに好んで入れてらしいよ」
「女子力高いねっ!?」
もっとも。既にショパンの時代にはチョコレートドリンクは薬から今の価値観に近い嗜好品ポジションにはなっていたらしいけど、何分ショパン自身が病弱だったために、単純な甘い物好きで飲んでいたのかは分からないけどね。
*
「エプロン姿の明菜かわいいっ! 写真撮って良い?」
「……ひなのさんが一緒に写るなら良いけど。でも、これ家庭基礎の調理実習で使ったやつだよ」
買い出しとは別日にお菓子作りのため、ひなのさんの部屋に集合した私たち。彼女の部屋の冷蔵庫に材料を全部突っ込むのは申し訳なかったために、私の部屋でも一部預かっていた。その材料とエプロンを持参して部屋を訪ねたが、しかしそのエプロンに反応されたのは意外だった。
調理実習用で、何の柄も入っていない無地の茶色のエプロンだ。可愛さの欠片も無いと思っていたし、別に真新しさも無い気がするが、ひなのさんの反応は違った。
「えー、なんだかカフェ店員みたいじゃん!!」
「カフェ店員は可愛いのくくりなのかな……。どうだろう……」
ちなみに、ひなのさんのエプロンも同じく無地だが、色は濃い緑系統。正直、彼女の方もカフェ店員感は強い。
「じゃ、早速作って行こうっ!」
「おー」
「棒読みだね……明菜」
まずはお互い初手バターをレンジでチン。そして二手目にはそれぞれ違うボウルにて粉と砂糖をぶち込む。
「――って! 私も明菜も、初手クッキーの構えじゃんっ!」
「え? だって100%チョコレートはしんどいでしょ。ひなのさんも友チョコ沢山貰うんでしょ?」
お互いに友チョコを貰う想定なので、板チョコの固め直しみたいな代物は相手がしんどいと思うと判断の上、チョコお菓子ではあれど、クッキー系をベースにすることを決めていた。流石に分量は全然違うが。
恋人の本命チョコなのだから、優先的に食べるのは自明なのに、それでもド直球でチョコレート単品を贈ることを判断しない辺りは、何というか私たちらしさは感じる。
そしてヘラでボウルの中身をかき混ぜていくのだが、この作業はキッチンでやるには狭かったので、こたつローテーブルに移動して行う。
一塊になってきたら、一旦手でこねまとめて、そのまま冷蔵庫へ投入。ひなのさんは更にナッツを砕いてこの生地に入れるようなので更に時間がかかっていた。
「とりゃとりゃー!!」
キッチンに戻ったひなのさんは、言葉とは裏腹に結構ゆっくりめのペースで包丁でナッツを刻んでいるが、そんな彼女に私は一言声をかける。
「あ、私もちょっと砕きナッツ欲しいから手伝うよ?」
「ホント? ラッキー」
とはいえ包丁を使った作業は交代でやるしかなく、あんまり作業効率の上昇にはなっていない気がするが、元より急いでないのでまったりと調理を続ける。
ひなのさんの生地も寝かしに入ったところでお互い、ちょっと休憩。序盤はチョコの出番なく終わった。
「――そいえば、明菜は。
私に贈る本命チョコを、クラシックをモチーフにするのかなって一瞬思っていたんだけど、多分違うよね」
「あ、うん。
というか、そんな風に思っていたんだ」
「まあね。それこそ買い物のときに聞いた、ショパンのホット・チョコレートとかならさ、充分バレンタインでも通用しそうじゃん?」
そういう考えが全くよぎらなかったと言えば嘘にはなる。しかし、今作っているチョコを選ばないことはあっても、それを選択することはなかっただろうとほぼ断言できる。
「理由は2つあるよ。
――1つは、前にひなのさんに言われたからだね。……ピアノがどうこうではなく、私自身がどう考えているか。ひなのさんは出会って間もない頃からそれを重視していたし」
「『テセウスの船』のやつだ! よくそんな些細なことを覚えていたね?」
「些細かな? 結構、印象に残っているけれども――」
思えば、私が最初にひなのさんに囚われたのはあの時だっただろう。だから忘れることができないのかもしれない。
トロッコ嵯峨駅にある19世紀ホール。あそこで交わしたやり取りは当時思っていたものとは比べ物にならない程に、私たちにとって決定的な分岐点であった。
「……それで、もう1つの理由はなあに?」
ここまでが1つ目の理由で、主にひなのさんに関わる理由だ。
一方で、2つ目については完全に自分の中の意識の問題である。
「私は……作曲家ではない。そこに尽きます。
同じ学生を相手取っても実力は半人前だし、全然未熟だけれども……それでも私は『音楽』という場においては、ピアノ奏者や楽器奏者――次点で指揮者としての在り方しかしっくりこないんだよね。
だから偉大な『作曲家』の模倣は、適切じゃない」
「……作曲家とピアニストって何か違うの? なんとなく似ている気がするけど」
「ピアノ奏者は必ずしも作曲をしないし。
作曲家は必ずしもピアノの演奏が出来るとは限らない。
そうしたときに、私の在り方は――作曲家でも……あるいは、音楽家でもないから。
もっとも。多分私が知る少数のピアノが弾けないクラシック作曲家を探すよりも。ひなのさんが知っているポップスの作曲家から、楽器ができない人を探す方がこの類型例は見つけやすいとは思うけどね」
これは自覚と自負の問題だ。
別に誰かから言われてどうこうなるものでもない。ただ、自分がそう感じているだけということ。
「――明菜って、そういうところは頑固だよねー」
「……そういう私は嫌い?」
この問いかけが褒め言葉の催促の呼び水にしかなっていないことを分かっていながらも私は紡ぐ。
「まさか。明菜が頑固なのはちゃんと芯があるからだし、それに。
私……の才能に寄りかかってこないからね。
……やっぱり、好きだなあ、私。明菜のこと――」
その言葉を受けて、私はじんわりと心の中で温かいものが広がった。
けれども、私はひなのさんの『才能』に寄りかかるつもりはないが、ひなのさん自身には先導されて優位に立たれたい気持ちはあるので、更に挑発することにした。
「……もっと。好きって言って欲しいな、ひなのさん」
「……っ。
……もー! 明菜、ホントにそういうとこだよ!? どれだけ私のことをきゅんとさせるの! 明菜って結構小悪魔だよねっ!」
「ひなのさんも人のこと言えないほどには、小悪魔だけどね。
……で、そんな私は嫌い?」
先ほどとほぼ同じ質問を投げかければ。ひなのさんは露骨に顔を赤くして視線を逸らしつつも、しかししっかりと私の頭を右手で撫でながらこう言い切った。
「……だいすき」
……私は満足した。
*
「――で、完成したわけだけど。
ひなのさん。だいぶオシャレなものを作ったね」
「えへへ、ブルーチョコクッキー! 外側はホワイトチョコにバタフライピーのエキスパウダーを練り込んでみましたっ!」
完成品を見てみると、鮮やかな真っ青のチョコという中々見られない珍しい色合いになっていた。バタフライピーってのはハーブの一種で、今回ひなのさんは青色の着色に用いたようだ。
「でもでもっ! 明菜のだってめっちゃ可愛いじゃん!
最近話題になってたよね――スプーンクッキーって!」
「ひなのさん、こういうの好きそうかなって思って。
デコレーションはちょっとポップになりすぎたかもって思っているけど」
「ううん、むしろそれが良いんじゃん! 明菜って年賀状のときも思ったけどさ。教養はあるのに、絵とか作るものは可愛さ100%みたいなのが多いよね?
食べるのもったいなーい!」
スプーンクッキーはその名の通り、スプーンのかたどったクッキーだ。スプーンで言うところの『つぼ』の部分にチョコを塗って、カラーシュガーなどを使ってデコレーションしている。あ、ひなのさんが頑張って砕いたナッツもデコに使った。
しかし食べるのが勿体ない、か。素直に嬉しいけれども、根本的な部分を指摘する。
「ひなのさん、安心して。
バレンタイン当日までは食べちゃダメだから」
「……今、食べられないのがもったいない!!」
ひなのさんの意見が180度変わったが、仕方ない。
このお菓子作りをバレンタイン当日の放課後にやるのは、ちょっと時間的に大変なのよ。
*
バレンタイン当日。帰宅部である私とひなのさんは、帰りの会終了後にお互い落ち合って、足早に寮へと戻ってきた。
もう中身が分かり切っているチョコ。それを綺麗にラッピングして。そのラッピング作業すらも、私たちは相手の目の前で行っていた。
だからサプライズ感は最早ゼロに等しい……が。
「ひなのさん……私の本命チョコ。受け取ってくれますか?」
「もち! 明菜も、私の本命……貰ってよね?」
「……喜んで」
ひなのさんの部屋の入口で、この口でのやり取りをしたけれども、まだお互いにチョコを手渡してはいなかった。
彼女の部屋の奥へと入っていって、私たちはひなのさんのベッドに腰掛ける。
そして、自分が作ったチョコのラッピングを自分で丁寧に開いていき。
私はスプーンクッキーを。ひなのさんは青いチョコクッキーを手にして。
「やっぱり、ひなのさん……綺麗だねそれ」
「ふっふっ。綺麗なのはチョコ……それとも私?」
「どっちもだよ」
「……ありがと。明菜も可愛いよ?」
同じやり取りの繰り返しになるじゃん、と思ったらひなのさんは笑ったので、私も笑う。
「やっと、明菜のチョコが食べられる! ずっと、楽しみだったんだー」
「じゃあ、早速食べ合わせ……と行こうか。
はい、ひなのさん……あーん」
「――明菜も。あーん……」
私たちは同時に。お互いの口元に自分のチョコを持っていき、そのまま食べさせる。
ひなのさんの青いチョコは……とっても甘かった。
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