第17話 『欠落』と『不完全』の到達点
国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だったらしいが、短いトンネルの先にはクラゲの国があったし、白くなったのは窓の外ではなくひなのさんの頬であった。
まさかのパノラマクラゲという映えスポットで、ひなのさんが恐怖というか、マイナスの感情を引き出すとは思っていなかった。彼女自身ですらも予期していなかった事態だろう。
でも、クラゲ自体が苦手ではない、というのはこのゾーンに入ってきた当初に言っていた通りで、クラゲの種ごとに小さな水槽に入れられて展示されている場所は、普通に楽しそうに見ていたし、なんか理科室みたいな場所に居る飼育員さんがやっている活動には興味深々であった。
そしてクラゲのエリアを抜けた先。
「……ありゃ? イルカショーってやってないみたいだね明菜」
「イルカの子育てのために中止、だって――。あ、でも水槽は見られるっぽい」
実際、イルカショーが開催されていたとしても、混雑確実の催し事にひなのさんが乗るのかは未知数なところがあったので、このくらいまったりしている方が私たちの性には合っているのかもしれない。
わざわざ意図的にスルーすることもないので、屋外ではあるけれども、イルカの居るプールへと赴く。
「――おおー。別にショーとかじゃなくても普通に跳ぶんだねー」
「……そう、だね……」
私は。
――全く思いがけないことで想定すらしていなかったが、この場所の雰囲気に飲まれていた。
イルカに、ではない。いや、正確にはイルカも含めたこの空間そのもの、と言うべきであろうか。
一番大きなプールの反対側には、プールの半周を囲うほどの観客席が設置されている。それは本来、イルカショーを行う場所なのだから、当然である。しかし、入口にあった売店を除けば、ここに人の気配はほとんど無い。こんな真夏の屋外ステージなど暑すぎるので、イルカさえ見てしまえばさっさと移動するということなのだろう。だから、お客さんが居ない。来てもイルカを堪能したら去る、というわけだ。
……水族館であることは十二分に理解している。
けれどこの観客席の光景は、若干だけれども音楽ホールを想起する。
そして、その緊張はむしろ客席に目を背けて水槽を見たときにこそピークに至る。観客席全体から見られる位置で客席側に背を向ける行為は、どうしようもなく中学の指揮者時代を思い起こすものであった。
無論、それは嫌な思い出じゃない。背中に視線が集まっているという錯覚は否応なしに、その部分に熱を持たせ。まるで熱量の帳尻を合わせるかのように加速度的に指先や足先から熱が引いていく。この感覚はいつまで経っても慣れない。
恐らくその熱の移動すらも、緊張が起こす幻であったりするのだろうけれども、手先の冷えの錯覚は、指揮の乱れ、ピアノを含めた楽器の奏者として舞台に立ったときには演奏ミスへと直結するもの。
とはいえ、それで致命的な失敗を起こしたことはほとんど無いものの――私は終ぞその感覚に慣れることは……無かった。
……しかし、そのとき。私の背中に集まった『熱』が、右肩の辺りから徐々に抜け出るような感じを私は覚えることとなる。
そこには……ひなのさんの手が、私の肩にしっかりと乗せられて。その直後に私は右の耳元のすぐ近くから彼女の声によって――
「……明菜。ちょっと席の方に行って座ろっか――」
ひなのさんに連れられて、このイルカショーの舞台観覧席の上の方に座ったとき。私は初めてプールの向こう側に、ここに来るときにちらっと見かけた広い芝生の公園が広がっていること――そして。
その公園の更に奥には高架の線路があって。今、この瞬間に、まさに新幹線が通過していった姿をぼんやりとした頭で眺めながら、『音楽ホールに新幹線の音はしない』という至極当然のことに漠然と思い至り、正気を取り戻した。
そして、私のことを隣の席でじっと見ていたひなのさんが口を開く。
「……だいじょぶそう?」
「ひなのさん、どうして分かっ――」
ワインレッドの瞳は私を捉えたまま、彼女は言葉を遮った。
「……明菜ね。……この場所に来た瞬間から、歩く姿勢が良すぎ。
今までで見たことないくらい、綺麗な歩き方してた――それ、コンサート用の歩き方だったでしょ?」
「歩き方だけで……? って、そっか。
話したことあったね、そう言えば」
春の初めの頃にそんな話をしたような気もする。碧霞台女学園に入学してから今まで歩行に関して強く意識したことは無かった。完全に無意識であったとはいえ、この場所に発表会やコンクールを幻視したのであれば、私はたとえ無意識であっても歩き方だけは違えないという自負はあった。
その『見覚えの無い歩き方』という情報だけで、ひなのさんは一発で私がどういう状態にあったのかを見抜いてきた。やっぱり、この銀髪少女の観察眼は尋常ではない。
「……しっかし、クラゲでは私がイカ釣り漁船を想起して、イルカショーで明菜はコンクールを想起するとか。
お互い、全く予期しない部分に地雷抱えてるよね」
「……まさかこんなことになるなんて。
ベタな場所に行くって感じで来たのに、普通じゃ絶対ありえないよね、お互い」
「まーねー。でも、私と明菜っぽいと言えば、ぽくない?」
「そうかもしれないけどさー」
ベタな観光地に来たら、予想外のアクシデントで楽しみ切ることができない。まあ、そう考えると、どうしようもなく私たち然としているとも言えるけれども。
「――で、明菜。これは、私に話せることかな?」
その言い回しは、若干ひなのさんがエラールピアノの一件を気にしているかのように感じたものであったが、まあ私がまだ本調子ではない故の気のせいだろう。そういうことにしておく。
「……まあ。欠落していたからなんだろうね、きっと――」
誰も観客の居ないイルカショーの舞台。完全なものをお客さんが満員で行われるイルカショーだと規定すれば、この場所の現在の状況は『欠落』していると言える。京都という大都市にある水族館なのだから、もし実際にイルカショーが開かれるのであれば何十分も前からお客さんが座席を確保しているだろう。あるいは、何時にイルカショーをやるのかチェックしにくるお客さんも居るはずだ。
そういう環境であれば、きっと話し声くらいは聴こえてきたはずで、そしてそれが無かったからこそ、私はこの場所と音楽ホールとが不自然に被ってしまった。
それは『欠落』故の私自身のハプニングであった。
また、逆に完全に音楽を行う場所であれば、私はここまで急激に緊張をすることは無かったはずだ……良くも悪くも、本当はそういった状況に慣れているから。
あまり表に出さなかったものの、ひなのさんが即座に看破するほどに動揺した理由は、ここの光景に既視感を覚えていなかったというのも大きい。この観客席は音楽ホールと通じる部分はあるけれども、本来似て非なるものだ。それを無意識下で無理やり私の知っているものに被せようとした結果、未知の音楽の場を空想の中で構築して、そこから不要な緊張が送り込まれた。
それらの原因をまとめるのであれば。
「……これも、ある種の――『不完全の美』なんだろうね、きっと」
「不完全の美?」
「あ、ごめんひなのさん。ちょっと説明不足だったかも。
元々は千利休が言ったと言われているやつで、詫び寂びって言い回しの方がまだ一般的かな? 簡単に言えば、完全なものではなく不完全なものに美を見出すってことなんだけど――」
欠けた茶碗とか歪んだ茶碗なら、完璧で整った茶碗とは違った趣きがある――とか。茶道を離れれば、完璧な満月よりもちょっと満ち欠けがあったり雲がかかっている方が綺麗だとか。
そして、こうした『欠落』に美を見出す行為は何も日本人独特の感性というわけでもない。
西洋において宗教芸術で神やそれに類する聖なるものを描くとなれば、完全なる美が追求されたが、同時に完全なものへの探求は逆にその過程において『不完全の美』を評価することにも通じる。
世界で最も著名な『欠落』の美と言えば、恐らく『ミロのヴィーナス』と言ってしまっても良いはずだ。そして古代ギリシアとか中世日本などに飽き足らず、今なお私たちは不完全なものを愛でている。
「ひなのさん。私たちは前に、京都国際マンガミュージアムに行ったよね?」
「そうだね」
「あそこには、本当に沢山の漫画があったけど……果たして、どれだけの作品が完結しているのかな?
そして未完結……それがまだ不完全な作品だからといって、評価が変わることは……あると思う?」
私の問いかけに対して、ひなのさんは逡巡考えた後にニヤリと笑ってこう答える。
「……うーん、ある!!
完結していないよりも、完結していた方が良いでしょっ! 少なくとも、完結済みってのは充分評価ポイントになると思うよ?」
話の流れをぶった切るような反論意見。
しかし、流石に私もこの反論を想定していないわけじゃない。
「そ。『完全』を追い求めることもまた美意識として当然あって然るべきの考え方。
……だけど。だからといって『不完全』なものを、ただ『不完全』であることだけで『完全』の下に置くことは別問題、なんだよね」
『不完全の美』とは「不完全だけども美しい」ってことでもない。
私個人の意見としては、『完全』であることと『不完全』であること、そのどちらにもそれぞれ別個の評価軸があって、好悪はともかく優劣をつけ合うものでもないと思うけれども、『不完全の美』の意識としては不完全な方が優れているというニュアンスも時には入る。
漫画の完結・未完結の話で言えば。
完結している作品なら、安心して物語を最後まで読めるというメリットは他に代えがたいものかもしれない。
しかし未完結の作品は、ライブ感というか一緒に追っている感覚を味わうことができ、常に最新の情報に触れられるのであればネタバレなどを踏まずに新鮮な気持ちで作品に向き合うことが可能だ。
結局のところ、そのどちらに価値を置くか、という問題である。『完全』であることが素晴らしいという意見、あるいは『不完全』なものを追い続けその成長過程を楽しむ方が良いという主張――そのどちらもが貴ばれるべきものだと私は考えていて。
その両者は相反しているようで、その実どちらも尊重されるべきものだと思っている。
「……つまり、明菜は。
観客の居ないイルカショーの舞台に『不完全』性を見出したからこそ、感情を強く揺さぶられた……ってこと?」
「多分、そうなんだと思う。
そして、それはきっと私が『完全』よりも『不完全』であることの方が、心を動かされやすいってことなのかもしれないね」
『不完全』性は贋作であることを保証しない。未完結の漫画が偽物だと、多くの人間が言わないように、『不完全』な作品であることと『本物』であることは両立する。
「……本来は茶道の話なのに、そうポンポンと漫画とかに適用しちゃっていいの?」
「あくまで、取っ掛かりとして『不完全な美』という形容を借用しただけだから。
というか、ひなのさん前に言ってたし――『私がどう思うか』の方が、ひなのさんにとっては大事なんでしょ?」
「あー、テセウスの船のときの。……よく分かってんじゃん」
「だとすれば『不完全』なものって何でも言えるって私は思うよ。
別に漫画じゃなくても――」
「ラノベとか、絵とか?」
「それも勿論そうだけど――他にも、音楽とか。
……リリースカットピアノ。あれも、機械的なある種の『欠落』の産物だし」
ポップス等でも最近は頻出している技法で、電子だからこそ可能であるところのリリースカットピアノ。普遍的になったこともあり、その賛否は結構大きく割れてはいるが、今となっては世代によってはあらゆるグランドピアノの音色よりも聞き覚えのある『ピアノの音』かもしれない。
……多分。ひなのさんも、ウチの学園でピアノに触れるまではリリースカットピアノの音のが耳に馴染んでいた気がする。だって、彼女が弾いている曲、原曲だとピアノ部分は大体リリースカットだったし。
打ち込み音楽のセオリーともなりつつあるこれを『不完全』というと、生演奏至上主義者のように聞こえてしまうかもしれないが、そうではない。『
「はぁー……、私がいつも聴いている曲も『不完全』を貴ぶ代物ってことかー。
『完全性』については哲学でも少し齧ったことはあったけどさ……明菜は、そういう考え方をするんだねえ」
彼女の有している『完全性』の解釈も気にはなったものの、私はそれよりもひなのさんにちょっかいをかけることを優先した。
「そうだよ? ……『不完全』なピアニストさん?」
そう私が言ったら、ひなのさんは一瞬、その赤い瞳をぱちくりとさせた後に、溜め息混じりで言う。
「あのねえ……。それを言うなら、明菜は『不完全』な聴衆……だよ?」
「え。それって、どういう――」
「……そういうとこ。はあ、まあ取り敢えず、今はいっか。
ちょっと、ここで待っててね、明菜――」
そう言うと、ひなのさんはいきなり座席を立って観客席の階段を飛び降りるかのように駆け下りて、このイルカショーステージの入口まで走って行く。
「え、あ、ちょっと……。行っちゃった――」
追いかけても良かったが、待っていてと言われたこともあり、一旦は立ち上がったものの、諦めて座り直し、あの不思議少女を待つことにした。
景色の奥で、新幹線が再び通過したとき。
ひなのさんは何やら片手に持って帰ってきた。
「……それは?」
「じゃーん! クラゲのミックスソフト!!」
青と白の入り混ざったソフトクリームのてっぺんには、クラゲの飾りが乗っていて。そしてその飾りから縦横無尽に赤とか紫とか色とりどりの触手がソフトクリームに伸びている。……ひなのさんが言うにはその触手は海藻で出来た麺だと店員さんに聞いたとのこと。
「はいっ! 明菜も食べようよ!」
「それは良いんだけど……それなら一緒に買いに行けば――」
そう私が言い終わらないうちに、ひなのさんはソフトクリームに勢いよく口を近づけて、ぱくっと一口食べる。
「――これで『不完全』なソフトクリームの完成っ!」
……。
これ、絶対私が照れるのを狙ってやってきているよね、うん。この銀髪少女は基本的には天真爛漫さはあるけれども、計算高いところがあるからなあ。
ただ、でもひなのさんの
「そんなに勢いよくかぶりついたらさ。
海藻麺のクラゲ触手が……刺さらない?」
「いひゃい……」
「ひなのさん、おばかですか」
結局……その『不完全』なソフトクリームは2人で一緒に食べた。
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