第10話 撃排冒没の夏季セミナー
「……私、この学園に入ったことを初めて後悔したかもしれない」
「明菜さんがそこまで言うとは相当だよね……同意しかないけど」
夏休みに突入したかと思ったら最初の週には、1年生限定の夏季セミナーが入っていた。
4泊5日で、京都市街から離れて山間部の大きなホテルを借りて1日9時間集中的に勉強をする狂気の合宿。これが何と強制参加である。この夏休みの出鼻を挫くイベントにはほぼ例外なくすべての生徒が不満を表明していた。そもそもウチの学校ってお嬢様学校であれど、そんなに勉強ガチ勢の超進学校って訳でも無いから想定外と言えば想定外であった。
とはいえ、何より一番キツいのは追試組だろう。この1週間は合宿に来てしまった以上は追試すら開催されない。1週間勉強漬けにされた上で翌週から追試日程となったら、最早絶望しかないのである。
で、9時間の内訳もまた狂気を孕んでおり、授業とは異なり1コマ90分という絶望的な長さのセミナーである。それを午前中は8時45分スタートで2コマ、昼食を挟んで更に3コマ、そして夕食後20時スタートの最終コマの6コマ構成となっていて、夜の9時半までひたすら勉強だけをし続けるのだ。高校受験のときですら、私そんな勉強したことないんだけど。
それでも頑張っていいとこ探しをするなら。このセミナーで教えている先生は有名な予備校の先生で、90分の授業で2クラス分面倒を見ている割にはその大人数をものともしない。分かりやすい……かは、ちょっと先生運によるのでノーコメント。
そしてホテルの宴会場みたいな場所でセミナーをやっているので、机も椅子も凄く良いものだ。……肉体的な疲労感は軽減されているとはいえ、根本的な1日9時間の日程のせいで焼け石に水にしかなっていない点には目を瞑る必要はあるが。
何より大きなホテルということで、露天風呂付きの温泉と豪華な食事。これは手放しで喜べるものだろう。ホテルのご厚意で90分授業の間の15分休憩にはジュースや軽食が用意されているのは加点ポイントだが、でもこれ絶対不満逸らしだよね、うん。
後、豪華な食事についてもう少し加えて言うと、本当に豪華で、初日にはフレンチフルコースが出た。つまりはテーブルマナー講習会も兼ねていたわけだが、そこは碧霞台女学園がお嬢様学校である地力が出て、ほとんどすべての生徒が既に作法的には問題ない水準をクリアしていて、結果美味しい夕食を食べられた、という生徒が大多数だったのである。
あ、私もテーブルマナーは問題ないので、優雅な夕食会風の勉強愚痴大会に参加しました。こういう瞬間にはクラスメイトもちゃんとお嬢様なんだなあ、と実感する。まあ付けているアイテムやアクセ的に普通の女子高生じゃ手の届かないものを持っている子も多いからそうだろうなあ、と薄々感じていたが、そうは言っても日常生活でセレブオーラを消す擬態能力がかなり高いのである。うちの学校は、ファーストフードでクーポン駆使するわ、ケチってドリンクセットにせずジュース持ち込みするお嬢様ばかりなので。
で、思えばこれが高校生になっての初めてのお泊り旅行なわけだけれども、2日目の夜は同じ部屋の子は全員爆睡で即就寝。完全消灯時刻すら待たずに全員寝るというちょっと女子高生としてそれで良いのか……という感じのストイックさがあった。全部、勉強による疲労のせいだけど。
冒頭の会話は、同じ部屋になった子とのものだ。
それも3日目の朝起きて、心地よい寝起きとホテルの布団のふかふかさに囚われて幸せな気持ちで微睡んでいたタイミングでふとこれから9時間の勉強が待ち受けていることを気付いてしまって目が覚めた、あまりにも矮小な人類2人の会話である。
*
とはいえ、人間というのは良くも悪くも環境に慣れる生き物だ。
悲しいことに折り返しの3日目の午後の3コマ目の授業が終わってみれば、この時点での疲労感は2日目と比べるまでもなく格段に楽になっていた。5日を待たずして発狂したり憤死したりすると言っていた子も、今では夕食のデザートを気にしている始末である。
人間のバイタリティの強さに感心するとともに、あれだけ初日に不満を言っていた割には、そこそこ順応してしまう部分には思わず業を感じざるを得ない。
これだけの『成果』を見せられてしまっては、もっと厳しい条件……例えば無人島で暮らすなんて荒唐無稽なことも、割と行ってさえしまえば何とでもなりそうと思ってしまう。
だからこそ、この3日目の夕食になって初めて自分以外のことを気に掛ける余裕が出来たとも言えるだろう。
「……あれ?」
「明菜さん、どうしました?」
「……ううん、何でもな……くはないか。ちょっと、私の分の席取っておいて。
1組の子と話してくるね」
「りょーかい――」
ふと、ひなのさんが属している友達グループを見つけたものの、そこに銀髪の彼女の姿が見えなかった。ひなのさんは一匹狼って訳では無いが、さりとて自分の価値観や信念で単独行動をしたり団体から外れることもしばしばある子なので、大方そういう感じだろうと思ってその子たちに、ひなのさんがどこに行ったかを聞いてみる。
しかし、返ってきた返答は予想外のものだった。
「あ、東園さんなら――合宿中に風邪ひいちゃって、今は別室だよ?」
「……え?」
*
「――ひなのさん!? 大丈夫!? ……っぽそうだね、割と」
「あ、うん。
今、微熱くらいに戻っているし……あ。どうせ来たなら明菜、冷蔵庫に入っているゼリー取って」
夕食後1組の担任の先生に確認を取って案内されたホテルの和室の一室。そこに、ひなのさんは隔離されていた。どうやら昨日の夜に発熱があったらしく、今日の午前中は大事をとって病院に行っていたらしい。まあ、診察結果は普通に風邪であり、ひなのさん曰く『多分、初日の就寝時にクーラー付けっぱなしで寝たから冷房で冷えたのが原因だと思う』とのこと。
咳とかくしゃみみたいな症状はなく、熱とだるさくらいで、それも大分改善されているようだ。
「熱さえ平熱に戻れば、明日からでもセミナーに戻っても良い、ってさ。
まー、喜べば良いのか分かんないけど……っと、明菜ゼリーありがと」
「……まさか、ひなのさんの看病をするタイミングが、こんなところでやってくるとは考えもしなかったけども」
「本当にそれね。『夏風邪は馬鹿がひく』って言うけど、まさか当事者になるとは思わなかったよー」
ひなのさんは布団から起き上がりながらゼリーを食べている。その様子を見て思わず言わざるを得ない。
「ゼリーだけで足りる?」
「あ、ご飯は明菜が来る前に食べちゃってて、もうお皿もホテルの人が持って行った後なんだよね」
……なんというか。私がお見舞いに来た意味、そんなに無い気がしてきた。
治りかけ、とまでは言わないが、病状は一番キツいところは既に過ぎ去ったみたいだし、更に話を聞いている限りひなのさんと同じクラスの友達とかは今日の昼頃とかもっと早い時間に様子を見に来ていたっぽい。
「……となると、ひなのさんは今日はこのまま寝る感じ?」
「そうなるかなー。あ、でもお風呂は入っておくと思う。でも、大浴場に行くわけにもいかないし、部屋にあるバスルームでシャワーを軽く浴びるくらいー」
着替えとかのひなのさんの荷物は同じクラスの子がもう持ってきているようだし、バスタオルなどもホテル側で準備されているので、本格的に私がやることがない。精々、ひなのさんが食べ終わったゼリーや、飲み終わっているスポーツドリンクのペットボトルの残骸を隅の方にまとめて、後々ホテルのスタッフが持っていきやすいようにするくらいしかない。
先生からもあんまり長居しないように言われてるし。そろそろ戻ろうかな。
「……じゃ、そろそろ私は戻ろうと思うけど……。ひなのさん、何かある? 先生とかホテルに伝えた方が良いことがあるなら、私から言っておくけど」
「とくには無いかな。わざわざありがと。
……あ、でも1つだけあった。明菜に対して、だけどね」
「……? 私に出来ること、多分あんまり無いけど――」
私の言葉が紡がれる前に、ひなのさんは差し込むようにこう続けた。
「別に風邪関係のことじゃなくて、さ。
この勉強合宿が終わったら、ちゃんと夏休みに入るじゃん?」
「まあ、一応今も夏休みではあるんだけど……そうだね」
「そしたらさ。
……うん、いっぱい遊ぼうね?」
布団から身体を起こした状態で、普段よりかはぼさぼさしている銀髪を、いつものように楽し気に揺らしながらひなのさんは言った。
私は黙ったままだけれども、頷くことで彼女への返答とした。
*
ひなのさんのお見舞いの後私は夕食後の1コマに参加して、そのまま4日目最終日を迎えた。そのひなのさんも朝からは無理だったみたいだけれども、午後のセミナーからは戻ってきていた。
そのとき彼女の周りには1組の生徒しか居なかったので私自身は声をかけることはしなかったが、周囲から彼女は体調の心配半分と『上手いタイミングで熱出しやがって』というからかい半分で色々と突っ込まれていた。
実際、ひなのさんは何だかんだでセミナーの日程のうち、半分くらいには参加していないことになるから、正直私もちょっとずるいと思う気持ちは介在している。特にこの夏季セミナーは強制参加の割に通知表には一切影響していないことが明らかだから、サボりたいと考えている人間が大多数なはずだ。
人によっては友達関係の難しい舵取りを要求されかねない場面だが、案の定というかひなのさんらしいというか、割と卒なく反感を受けないように上手く立ち回っていた。あの銀髪少女は基本明るいし、気安いし一緒に居て安心するような雰囲気があるけれども、決してその全てが天然というわけではなく、結構計算して動いている面もあるんだよね。
結局、私が次にひなのさんと話したのはこの夏季セミナーが終わった後になる。
それはともかくとして。この5日間の長い合宿は終わってみればあっけなさを感じる……ものでもないや、普通に辛かった。友達も例外なく解放感を感じて、帰りのバスではニッコニコだったけれども、実際問題として苦痛を強制的に与えられてそれから刑期満了して出所して得られている解放感は、何というかマッチポンプ的である。日常に回帰する喜び、というのは非日常を経た上でならままあることだと思うが、しかしその『非日常』が強制的に与えられたものであるから、私は100%喜びを享受することはできないのである。
……まあ、最大限擁護するなら。こういうことがあるからこそ、私達、碧霞台女学園の生徒のほとんどは塾に通う必要が無くなっているし、きっと今日までの5日間の詰め込み教育を実施した先生の質も、市井のものを遥かに凌駕しているというのは確かだろう……今から受験対策の話をされても、って部分は多大にあるが。
そして、もう1つ評価すべき点があるとすれば。
バスに乗って学校に戻ってきたとき。5日間分の旅行セットを詰め込んだ鞄を傍らに置きながら、寮の自室の扉を開けたとき。
確かに『ここに帰ってきた』という安堵の気持ちがあったこと――即ち、この寮の部屋を確かに『自宅』と認識している自分が居たという点については、恐らくこの夏季セミナーが存在しなければ、私は深く実感することが無かっただろうと思っている。
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