第8話 久方の

 七夕。割と誰でも知っている伝統行事である。

 しかし『伝統行事』と称されるものの多くは、現在における一般普及率と比較して割と謎めいていることが多い。


 『詩経』にて牽牛けんぎゅう織女しょくじょという名で登場するのが紀元前。

 そしてこれが悲恋の恋愛物語として整備されるまで1000年前後の時を要し。更に『牽牛・織女』の伝説が『7月7日』と関連付けられるのは、乞巧奠きっこうでんと呼ばれる手芸の向上を祈るイベントに数十年かけてこじつけられたためである。


 この混合物に日本に流入するにあたり、何らかの要因で元々日本にあった布に関わる『タナバタ』と呼称される行事があり更に混合する。だから『七夕』というどこをどう読んでも『たなばた』とは読めない漢字二文字にこうした呼び名が付いている。

 そして、御伽草子に収録されている『天稚彦あめのわかひこ草子』の影響を受けていつしか牽牛は彦星という呼称へと変化し、とどめに『棚幡たなばた』という豊作祈願祭の概念が同名イベント繋がりで混同される形で江戸期に同一化されるという極めて複雑な過程を踏んでいる。


 そして『棚幡』が豊作祈願の意が込められているように、これらは本来『秋』……正確に言えばお盆に関連するお祭りだった。旧暦から新暦への移行過程において『7月7日』という日付を重視して1ヶ月近く早い時期に移設した地域もあれば、従来通り旧暦7月7日で実施する地域、はたまた旧暦換算が面倒なのでいっそのこと8月7日だったり、もうとにかくイベント開催しやすいタイミングということで土日などの曜日で指定地域も存在していて日本全国で見れば実はそんなに開催時期すらも安定していない。

 だからこそ『笹に願い事を書く』という行為はお盆にまつわる先祖供養にも関連するもので、そもそも何故笹なのかと言えば、こちらは神道の夏越の祓で執り行われる『茅の輪くぐり』と呼ばれる注連縄をくぐる祭事において注連縄を立てて設置する際の支柱として笹を使うケースがあり、その模倣からスタートしているという説もある。


 何なら、色々混ざって完成した江戸期の『七夕』は、7月6日の夜スタートで7月7日の朝終了のイベントで、現代に至るまでになんか1日ずれている。ただし『乞巧奠』の方は元々7月7日夜開催だから、別にどちらが正しいって話でもない。


 つまり、私たちが『七夕』と聞いて何となく思い浮かべる諸要素は、大体別のルーツのものが合体しているのだけれども……ここまで複雑な以上は説明されることも少ない。



 もう現代に至るまでにここまで魔改造されている以上、裏を返せば現代で多少七夕にアレンジが加わったとしても大局的には誤差の範疇でしかない。

 そうめんを食べたり、丸いLEDライトを川に流したり、1年で2回目のバレンタインデーと化しても、そうした改造自体が『伝統』と言える部分も内包しているわけで。



「お、明菜……って、浴衣とはまた気合入ってるねえ。

 なんか、普段着の私が申し訳なってくるよ」


 夕方、寮のエントランスで待ち合わせをしていたひなのさんの下へ行く。

 私が着たのは、サファイア・ブルーの落ち着いた色合いのアジサイの浴衣。梅雨明けなのでアジサイは若干シーズンからずれているけれども、まあ思いっきり夏感のあるものよりかは季節外れではないだろう。


 ひなのさんが私の浴衣をよく見るためにぐいっと近付いてくる。すると彼女の変化に私も気付くことができた。


「……そういうひなのさんだって、いつもつけていない『香り』がするけれど?

 香木系の香水でしょ、多分? 随分、挑戦的なものを選んだね」


 香木って嗅ぎ分けられていないと、お寺の匂いとかお線香っぽく感じるから好みが大分別れると思うのだけれども……。それを、わざわざ彼女が選択してくるとは思わなかった。普段のひなのさんは学校外のときでも制汗剤とかしか付けてなかったし。


「えへへ、清水坂の専門店で買ってみた!

 練り香水なんだけど、やっぱり明菜は気付くかー」


 ひなのさんはそう言いながら、スマホを取り出しさくさくっと調べて練り香水の商品サイトを私に見せてくる。値段はお手頃で2000円いかないくらいだった。

 アルバイト禁止の碧霞台女学園で、特例の許可をもぎ取ってまでテスト採点のバイトは続けているくらいなのだから、お金にはそこそこシビアなのかも……いや、でもそんなに節約とかをしているイメージも無いな。綿菓子を買いに長距離自転車移動していたこともあったし、なんやかんやで散財も多そう。


 というか普通の香水ではなく練り香水か。あれって持ち運びには便利だけれども、匂いが届く範囲が結構狭くて、割とすぐに消えちゃうから何度もつけ直す必要があるけど、ひなのさんそこまで分かっているのかな。


「……それで、明菜は今日のためにわざわざ浴衣レンタルしたの? それとも、それ私物の?」


「あ、自分のだよ。流石に持ってきては無かったから実家から送ってもらったけど――」


 私が言い切らないうちに、ひなのさんは口角をややあげてちょっぴりからかうように笑いながら告げる。



「――似合ってるじゃん?」


「……なんか、半分からかい混じりになってません?」



「いや……浴衣着るなら事前に伝えてよねっ。

 こういうのって普通2人とも着るやつじゃん!」



 ……まあ、それはごもっとも。




 *


 どちらかと言えばこれまで私がひなのさんに振り回されるケースが多かったから意趣返しで驚かせよう、という意図があったために敢えて黙っていた。

 けど、それはあんまりよろしくない振る舞いだったかもしれない。


「とりあえず明菜ー? 笹、行っとく?」


「暗くなる前に早めにやっておいた方が良いかもだねえ」


 本日の七夕のためにわざわざ大きな笹を寮の中庭に設置している……今日は運よく晴れているけれども雨だったらどうするつもりだったんだろう。

 ちなみに七夕は四寮合同イベントみたいなので、それぞれの寮の実行委員が協力して運営しているらしい。だから完全に日が落ちても中庭に運動会とかで使うような大型のテントが照明付きで設置されていて、そこが短冊スペースになっていて実行委員の人から短冊を貰って願い事を書けるようになっていた。


「……ってか、明菜ちゃんと下駄なんだ」


「ま、浴衣なのにスニーカーとかじゃ変でしょ」


 懸念点は中庭は芝生、というか草地なことだったが、そこは私の履物が下駄だと気付いたひなのさんが極力草が踏みしめられている場所を選んで歩いてくれたので、問題にはならなかった。……こういう配慮できる子だったんだ。


 ちなみに中庭にはそこそこ人がいて、ほとんどの子は私服だったけれども少数ながらも浴衣勢は存在したので、私だけが浮いているわけではない。とはいえそうは言っても少数派で周囲からは私がかなり気合いを入れているように見えることと、ひなのさんと2人行動している都合からクラスの友達も今日ばかりは私のことは意図的にスルーしてくるし、逆にひなのさん側も全く1組の子から絡まれたりすることがない。


「……1組の子に、私のことってどう説明します?」


 私がちょっと意地悪な質問をすれば、ひなのさんもある程度察したようで苦笑いしながら返答する。


「……あー、道理で話しかけられないわけだ。明菜も同じ感じ? ……って、明菜の場合は自分で浴衣着て来たせいだから完全に自業自得だけどね」


「浴衣については、ちょっと家のことを話せば納得してくれるとは思うから大丈夫、だけど……。

 それより、ひなのさんとのことはどう伝えたら良い? 第3音楽室のこととかピアノの話って周りにして問題ない?」


 思えば、ここで私とひなのさんが友人関係であることが周囲にも明らかな形でバレたこととなる。それについての口裏合わせは今のうちにしておきたい。

 私としてはこれまでのことをクラスメイトに話しても別に問題ないのだけれども、ひなのさんの方は、ピアノのことを一応1組の子たちには明かしていなさそうなので。


 でもどうなんだろう。秘密にした方がいいのかな。


「うーん……。

 隠しては……いるけれど、別に秘密にし続けるようなことではないんだよね。ま、でもあまり大っぴらにすることでもないよね。

 同じ寮だし、そこで仲良くなったーとかで良いんじゃない?」


「……やっぱり周囲には隠すんだ。それって何か理由が――」


「あはは、多分明菜が考えているような深刻な感じじゃないよ!

 ただ……ね? 第3音楽室に他の子をわざわざ呼び込む必要もそんなに無いかなって思っただけ」



 そこで会話は一旦途切れ、テントの下に居た実行委員の人たちから短冊を貰って、テント内の机の置かれたスペースにて油性ペンを使って短冊で願い事を書くこととなる。


 でも……願い事、か。

 今、これといって強く欲しいと思っているものは特に無いし……。何より短冊だから見ようと思えばだれでも簡単に見られてしまうものだ。あまりにパーソナルな願い事を書くわけにもいかない。意外と書けることが限定されそうだ、と思いつつ私はひなのさんに尋ねる。


「……何を書くか決まってる?」


 隣に並ぶひなのさんの練り香水の香りは徐々に希薄となっていて、かなり近付かなければそのエスニックで深みがある香りは感じ取ることすら不可能になっている。

 そんな消えつつある香りとは対照的に彼女の答えは明瞭で即答であった。


「うん! というか、もう短冊に書き終わっちゃった!

 ……じゃーん、『世界征服』!! どうよ?」


 短冊には彼女の発言通りの漢字4文字が達筆にデカデカと記載されていて、端っこに『1年 東園ひなの』と記名も入っていた……地味にこの子、油性のマジックペンではなく筆ペンを使っている。本当に多趣味だよねえ。


 私は軽く溜め息をつきながら、次のように告げる。


「……じゃあ、私の願い事は――

 『ひなのさんに征服された世界の解放』……にしておこうかな」


「願い事の力を、私の願いを潰すために利用された!?」


 そんなやり取りをしながら、笹に短冊を吊るす……まあ、人に見られて大丈夫な願い事かと言われたら、ちょっと躊躇う感じではあるのだけれども。

 とはいえ七夕イベントの魔改造自体は先人たちが歩んできた道なので、変な願い事を書くことすら魔改造の範疇だろう。


 即ち、世界征服を掲げるひなのさんと、征服された世界の解放を謳う私の願い事たちすらも――ある種の『伝統的』な願い事になるということだ。




 *


「明菜、ずっと下駄で動いているけど大丈夫? 足とか痛くなってない?」


「お気遣いありがと。でも、まあ慣れている……って程ではないけど、前に履いたことのある下駄だから、そんなにつらくはないよ」


 短冊を飾った後、一旦食堂へと向かった私たちは、七夕限定メニューとなっていた夕食を取り終えた後に、再び中庭へと戻ってきていた。

 完全に日が落ち、夜になって時間も経っていたので、身体には虫除けスプレーを再度かけ直して。そして、ひなのさんも今はもう同じ虫除けスプレーの香りを身に纏うこととなった。



 そして、既に中庭ではメインイベントの準備が執り行われた。私たちも再び実行委員の居るテントのところに行き、目当てのものを受け取り、少し中央から離れた場所に移動する。


「これがLEDスカイランタン……ねえ、明菜。これって、つまりは熱気球っしょ?

 なのにガスバーナーとかろうそくみたいなのって無くて大丈夫なの?」


「……実質的には光る風船みたいなものじゃない、これ。和紙の四角柱に詰め込んではいるけどさ」



 1人1個持って行ってよさそうだったけれども、ちょっと持て余しそうということで私とひなのさんの2人で1個持ってきたLEDで光るスカイランタンは、火を使っていない安全設計の代償として気球的要素が皆無となっていた。

 中身は風船。しかも見えにくいとはいえ紐付きなので余計に風船だ。まあ安全面を考えれば、そりゃそうなるけれども。学校の敷地内で、生徒主導で火気を空に飛ばすという危険行為は流石に行事でも無理だろう。


 安全への配慮と映えの両立――確かにどちらも現代を語る上で必須の要素な気がするけれども。



 しばらく詮無きことを話し合っていると、いつの間にかマイクを持っていた実行委員の人が話し出した。


「――それではみなさん。ランタンの準備は大丈夫でしょうか!

 合図をしたらみなさん一斉にランタンを手から離してくださいね!」



 そう言われて私たちは改めて2人でスカイランタンを手にする。紐は……うん、ひなのさんが持っているね。



「はい、では行きますよっ!

 ――いっせーのーで、どうぞっ! お手元のランタンを手放してくださいっ!!」



 その掛け声とともに、私たちもスカイランタンを手放す。すると淡い光を灯したスカイランタンは少しずつ上昇して私たちの手元から頭上、そしてそのまま空へと飛んでいく。……とともに、他の生徒たちが持っていたランタンも空へと昇っていっており、その数は数十個――とても数えきれないほどの灯りが空へと広がっていった。


 その光景に周囲からも、恐らく私の口からも声にならない感嘆の声が漏れ出る。


 ――それは確かに。圧巻の一言であった。



 しばらく、その空を私とひなのさんは無言で見続けていた。



 けれども、ある程度スカイランタンが空に上がり切ったところで、ひなのさんがぽつりとつぶやく。


「……ねえ、明菜」


「なぁに、ひなのさん?」



 その返事をして初めて彼女のワインレッドの瞳が空ではなく私の方を見つめていることに気が付いた。


「……私たち。お互いのこと、なーんにも知らないね」


「……だね」


 私はまだまだ、ひなのさんのことを知らないし。

 ひなのさんもまた、私のことを深く知ろうとはしてこなかった。


 それは、きっと……無関心だったのではなく、優しさだったのだろう。あるいは私たちは――賢すぎたのかもしれない。

 最初から、お互いが傷つかない距離感でいる居心地の良さに満足してしまっていた。


 傷付け合わないこともまた正しい距離感なのかもしれないけれど。

 しかし、私たちがそれを是ともう出来なくなっていた以上は、間違ったものだったのだろう。


 踏み込まなさすぎたのだ。

 


 そう思って、私はひなのさんの右手を軽く左手の人差し指でつつく。

 すると、彼女は何も言わずに私の手の甲を手のひらで包んできた。


「……どうせ手を繋ぐのだったら手のひら同士にしない?」


「……うっさい明菜」



 スカイランタンは空高く飛んでいたために、その時の彼女の表情は暗くて分からなかったけれども。



 ひなのさんの手首からは、匂いが飛んでいたはずの練り香水の香りがしっかりとしていて。



 ――その香りは、私の手にもいつの間にか移っていた。




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