第7話 トリセツ

 京都市学校歴史博物館の100年物のスタインウェイ。

 ハプスブルク家紋章付きのインペリアル・ベーゼンドルファー。

 そして、ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズの85鍵アップライトピアノ。


 第3音楽室には存在しない別々のメーカーのピアノ。それも、スタインウェイはアメリカで、ベーゼンドルファーはオーストリア、ブロードウッドがイギリスと期せずして国すらも違う組み合わせになったが、別に『いろいろなピアノを見ることが、人生における豊かな経験になるだろう』みたいな怪しいセミナーめいた主張をしたいわけではない。


 ひなのさんが楽器に元々詳しい人ではないのは明らかだし。

 とはいえ、あの不思議銀髪少女がドイツ紋章とか哲学命題などといった謎の分野に知見があることが分かったのは収穫と言えば収穫かもしれないが、根本的に興味があることにしか彼女の興味は向かず、たまたま今はそれがピアノに向いているだけ、ということ。


 しかも、その理由も『グランドピアノなんて高そうだから学校に居る今のうちならタダで触れられてお得』というくらいのレベルのものだ。

 とはいえ、高尚な意義を持って楽器を始める人間の方が少数派だと思うので、彼女の興味の持ち方が取り立てて極端に変、という訳でもないけれども。


 私は、幼稚園に入ってすぐには始めていたみたいで、自発的な動機があったかどうかすら、物心つく前だったので覚えていない。コンクールなどは朧気に覚えていることも断片的にあったりするけれども、それだって正確に幼稚園の出来事だったか、と言われてしまえば自信はない。小学校低学年とかのときのものと混同している可能性は十二分にある。人間の記憶なんて所詮そんなものだ。



 でも……だからこそ。



「――飾城先生。やっぱり私は納得できません」


 碧霞台女学園の職員室の隅には、いくつか半個室が存在している。それは時には勉強熱心な生徒が職員室まで来て分からないところを質問するために。あるいは、進路相談や学校生活の不安を相談するために。はたまた単純に狭い空間の方が落ち着くって理由で個人の自習スペースとして利用する者も居た。

 ともかく、そうした多種多様の用途で使われる小部屋に私は音楽の担当教諭である飾城先生を呼び出した。


 飾城先生は、少なくともひなのさんが所属する1年1組と、私の2組を音楽の授業を担当していることは確定している。そして第3音楽室のピアノに貸し出している張本人。


 また右手親指の関節部分の『タコ』や、第3音楽室のピアノの調律が割とちゃんとしている事実。

 ここから楽器経験者であることには違いないだろうと思い、名前で検索してみたら数年前まで音大に通っていたこと、そしてその音大時代には大学生のコンクールで受賞歴があることが出てきた。そういう面で見れば飾城先生もまた『本物』であることは確かだ。


「それは……1組の東園さんのことかしら、澄浦さん?」


「ええ。ひなのさんの演奏が稚拙なことも、そしてそれに反して彼女の『潜在性』が垣間見えることも、飾城先生は理解しているのでしょう?」


「……先生より、澄浦さんの方が『ピアノの先生』には向いていそうではないかしら?」


 飾城先生は、私の手に目線を向けながら言う。確かに、私の手は特にピアノ奏者として典型的な特徴が色濃く出ているからね。

 指が筋肉のせいでやや太めで無骨、とまではいかないものの手全体で見れば丸みを帯びた印象を受けるし、爪はどうしても癖でかなり頻繁に切ったりやすりがけをしたりしている。そういう部分を見て、私のことをピアノ経験者だと判断したのだろう。

 ちなみにピアニストが指が細長くて綺麗というのは、割と幻想寄りだ。あれは映画やドラマのピアノを弾くシーンでは手専用のタレントなどを起用して、物凄く綺麗な手を映像に映しているケースがあることから出てきた話だと思う。



 それはともかく。

 飾城先生は、そうした幻想に囚われることなく、私の手こそピアノ奏者っぽいという部分に考えが回っているのは、『本物』である一端であろう。


「ですが、飾城先生は『音楽』の先生なのですから」


「……澄浦さんは『音楽』に詳しそうですから言っちゃいますが。先生がピアノに触れたのって大学の授業くらいです。

 先生の場合、クラリネットが主専攻でしたので、あくまでピアノは副科扱いでしたから」


 実は、飾城先生が言ったことを私はちょっと理解していた。というのも、私は中学時代に吹部で学生指揮者をやっていたから。そして中学レベルだと指揮者というのは大抵の場合、部活の顧問がやる。

 その延長線上で、大きな大会だと最近は指揮者を外部から招いた人や非常勤講師などに任せることも出来る場合もあるが、それでも一般的には『学校の先生』か生徒に限定されることが多かった。だからほぼすべての音楽の先生は、指揮について学んだことがある。


 ……じゃあ、実際にはどのくらい? というところで簡単に音楽の教員免許取得のための音大の授業カリキュラムを調べたことがあって。そういう関係から、ピアノのスキルは音楽教員に『必須級』の扱いは受けてはいるが、その習熟度に関して問われているレベルは極端に高い訳ではないということは知っていた。



 ――だが、しかし。

 それはあくまで『免許』を取るための条件であって。


「曲がりなりにも、京都で私立の学校――それも世間体的には『お嬢様学校』だと思われている碧霞台女学園で。

 そもそも大人数採用されるわけでもない音楽の教員が、それほど年配でない時点で、飾城先生が生半可な実力では済まされないことは自明かと思われますが」



「……その視点を高校1年生の時点で持っている澄浦さんに言われても、私としては『貴女の方が優秀だと思う』という感想になっちゃうけれど……」


 飾城先生のこの言葉は、悪意を持って解釈すれば皮肉のように聞こえる代物だ。裏を返せば庇護すべき存在である『生徒』という立場であるだけの相手に放つ言葉ではない。

 それは『ひなのさん』に対する問題については、ここから初めて対等に近い立場で話し合えるようになったということで、即ちスタートラインにようやくたどり着いたこととなる。



 そして私の発言に対して、直接否定するような言葉を投げかけてこなかった以上は、飾城先生自身も『倍率の高い求人を潜り抜けてきて今、こうして私たちの音楽の先生をしている』ことについてある程度は自覚的であることだ。


 だからこそ、今一度。言葉に起こして明言をする。


「そんな飾城先生だからこそ、こうして聞いているのです。

 『ひなのさん』……あの子の、特異的な才能――いえ、『天才性』について、このまま放置して腐らせてしまって良いものだと、本当にそう考えているのですか?」



 東園ひなのという少女は、天才で異端で本物だ。同時にかなり歪でもある。

 しかし彼女は、その天才性を隠して『普遍』に紛れることも出来る。現に、彼女は恐らく1組において未だにその才能の馬脚を露してはいなかった。

 ただ、勉強が多少出来る少女という立ち位置に収まっている。私に対しては1組のクラスメイトに秘匿している部分を隠していない以上、相手によって自身の立場の使い分けも出来る小回りさもひなのさんは持っている。


 ……きっと、私に対しても彼女は全てを開示してはいないと確信している。出会ってまだ数ヶ月かそこらだし当然と言えば当然だけれども。

 でも……。まだ私はひなのさんの片鱗しか知らないのに――既に、彼女に囚われ・・・つつある。


 だからこそ、あの銀髪の少女の有する才気を野放しにすることを私はどうしても納得できない。



「……有り体に言ってしまえば、澄浦さんの質問に対する答えは『YES』ね。

 澄浦さんは私のことを『生半可な実力ではない』と言ってくれたけれども……、先生だって『天才』を見てきたことはあるわ。

 それは本当に生まれながらのものと思えるくらいに理不尽なものであったり、あるいは『努力の天才』というパターンもね。


 だから『天才』的な人物との付き合い方も多少分かっているつもり」



「……つまり飾城先生は放置が正解、と?」


「あくまで、これは先生ではなく一個人としての意見として聞いてね、澄浦さん。

 東園さんが本当に音楽の才能しか無ければ私ももう少し考えたかもしれないけれど……別に、彼女『それだけ』って訳でも無いじゃないでしょう?


 だから。無理に彼女を『音楽』に留まらせる意義はあまり無い、と私は考えています」



 確かに、ひなのさんの天才性――もっと俗に言ってしまえば『変』な部分というのは別にピアノに限った話ではなかった。

 清水寺の清水を使ってコーヒーを淹れているこだわりもそうだし、変なことに興味・関心を持つこともそう。癖の強い性格の持ち主の割には人間関係における立ち回りは上手い方で。それでいて社交的な感じでありながらゴールデンウイークのときなどは、出たくないイベントには不参加を決め込める。


 うん。やっぱり変な子だ。あの銀髪瞳ワインレッド少女は。



 ……ただ。ちょっとだけ気になったことを口にする。


「――もしかして、飾城先生。

 ひなのさんに『別の天才』のどなたかを投影していたりします?」


 そう言った瞬間、飾城先生の瞳は僅かに揺れた。

 というのも、一先生と生徒という立場で考えたら、ちょっとひなのさんに対する観察眼が高すぎるように感じた。私のように多分、2人でのお出かけを重ねていないのにも関わらず、接点が限られているのに飾城先生のひなのさんに対する理解度が妙にある。

 しかし、微妙にひなのさん本人の話から抽象化している部分も散見されて、つまるところこの先生はひなのさんというフィルターを通して別の誰かを見ているのでは? という疑念を私は抱いたのである。『天才』を何人も見てきたって話もしていたし。



 ただし、きっと場数が違ったのだろう。飾城先生の返答の際の表情や声色には、私にそれを指摘されたことによる動揺の影は全く乗っていなかった。


「……さあ、どうでしょう?

 少なくとも先生から澄浦さんに言えることは、その答えは貴方の『相談』とは些か無関係だということくらいですよ」



 ……この辺りが潮時かなあ。

 一旦は取り払われた『先生』と『生徒』という立ち位置をここで再提示してきた以上、今日踏み込めるのはここまでということだろう。

 やや突き放した物言いではあるものの、飾城先生は踏み込むべき場面とそうでない場面を上手く使い分けてコントロールしている。生徒に近すぎず、さりとて遠すぎず。

 それは端的に言えば……良い先生、ということなのだろう、きっと。




 *


「お、明菜ー。ここで会うのは久々じゃんー」


 結局、飾城先生との『相談』は「そう言えば、今日ちょうどひなのさんが第3音楽室の鍵を借りにきたけれど……」という追い出しにかかる言葉に私は乗せられることとなる。

 そうして、第3音楽室の外では結構会っていたけれども、ここでひなのさんと対面するのは確かに彼女が言う通り久しぶりであった。


「言われてみればその通りだね、ひなのさん」


 もっとも、それ以外の場所で度々会っているし、寮は一緒でそっちで顔を合わせることは毎日のことだし、メッセージアプリでやり取りもちょくちょくしている。


「いやー、雨で湿気が凄いねえ。

 今のところ風も強くないから窓を開けても大丈夫かな?」


 そう言った彼女のふんわりとした銀髪は、今日は湿気のせいかいつもよりも若干しなっとしているような感じだった。確かに締め切った第3音楽室は、ジトっとしていることもあり蒸し暑さを感じる。


「……ピアノのことを考えると窓を開けるのではなく、湿度を下げるためにエアコンを付けた方が良いと思うよ」


「あー、そう言えばピアノは可愛い可愛いペットちゃんだったね。2人しか居ない部屋で冷房を付けるのはちょっともったいないって思ったけど、そういうことなら付けちゃおっかー」


 生徒が勝手にエアコンを付けていいのかなとは思ったが、ひなのさんは事前に飾城先生から問題ないということを聞いていたらしい。

 私としてはそのまま24時間体制でONにしっぱなしにしてもらいたいところだけれども、現実問題として学校でそういう『無駄遣い』はあんまり認められるものではないだろう。いくら、ウチの学園が私立だとしてもね。


 楽器の保管は、節電やら環境やらに全く優しくないのである。



「おっ、除湿あるじゃーん! 明菜、こっちの方が良いよね?」


「そうね」


 ひなのさんが壁に備え付けられた空調操作パネルを少しいじって数秒後にやや大きな音を立てながら大型のエアコンが始動する。そしてこちらに戻ってきてピアノ椅子に座り、彼女は私の居る前で演奏を始める。



 ……あ。

 新曲だ。やっぱりJ-POPからの選曲であったけれども、これまで弾いていたドラマの主題歌じゃない。あれかな、あのドラマが先週で最終回を迎えたからかな。


 ひなのさんの私室にテレビは置かれていなかった気がするので、スマホやタブレットで見ていなければ、多分寮の談話室にあるテレビで見ていたのだろうか。


 まあ、新しい曲もぶっちゃけ下手ではある。というか前の方が弾き慣れていたこともあってか、今の演奏の方がミスが目立っている辺りからも、通しでの練習を始めたばかりとかなのだろう。前に聞いた限りだと、彼女、楽譜丸暗記しているっぽいし、そりゃあ1曲覚えるのに時間かかるでしょうよ。



 それから、何回か同じ曲を繰り返し演奏したり、躓いたポイントを重点的に弾いて気付けば30分が経過していた。


 ただ。

 私はひなのさんの演奏が終わるとき――この瞬間が最も緊張する。


「ふいー、今日はそろそろ終わりでいいかなー」


 普通だったらここで感想とかあるいはちょっとした口出しをする場面。だけど、ひなのさんはそれを私がすることを全く望んでいない。だからこそ、色々と言いたいことを私は意識的に押し込めないといけない。少なくともピアノに対面する彼女には尊大な承認欲求も、敬虔な向上心も存在しないのだから。

 間違っても気を抜いちゃダメな場面だ。


「……はじめてから30分くらいだけども、今日はこのくらい?」


「あれー? もうちょっと経ってるかなって思ったけど、そんなもんだった?

 ま、でも今日はおしまい!」


 そうして帰る準備を整えた私たちは除湿にしていたエアコンを切り、第3音楽室の鍵を閉め、旧校舎を後にする。


 鍵を返却するために一度、職員室を寄る必要があるが、旧校舎の玄関を出たところでひなのさんが一言。


「やっぱり、雨止んでいないかー」


「ずっと降っていたしね」


 私たちは折りたたみ傘をそれぞれ開き、その足で職員室へと向かう。

 きっと。初めて会った頃よりも私たちは仲良くなったのだろう。

 同じローズマリー寮の人たちや、ひなのさんのクラスの子たちよりも、もしかしたら私は彼女にとって別格の場所に居るのかもしれない。


 けれど。

 結局のところ。彼女との関わり合いの多くには――ピアノが関係していた。そして、ひなのさん自身はそこまでピアノに対する興味が高い、というわけでもなくて。


 だから、その原因はどちらかと言えば私にある。ひなのさんから見たときの私はきっと。ピアノを介することでコミュニケーションを取っている相手なのだ。


 それは確かに、他の同級生と比較して異質な関係であるとともに。……ちょっと、納得がいかない部分でも、ある。



「ねえ、ひなのさん」


「……なぁに、明菜?」



「……寮の七夕のお祭り。そろそろ締切だけど、希望は出した?」


「いやー、決めてないけど多分行かな――」



 私は、この銀髪の掴みどころがない少女を――少しだけ、自分の方に手繰り寄せたいと思った。



「――私が、一緒に参加したい、って言ったとしたら?」


 その刹那。正面を見据えていたはずのひなのさんのワインレッドの瞳は、私の方へと向けられた。私はそれを理解していながらも彼女と視線を合わせることはせず、じっと前だけを見つめる。



 私の問いかけに対する答えは。存外、あっさりと返ってきた。


「……いいよ。

 じゃあ、参加しよっか――2人で一緒に」



 折りたたみ傘と地面に打ち付ける雨の音の中でも彼女の声は私に辛うじて届いた。


 けれども、きっと。

 私の心臓の鼓動は、この雨の音にかき消されていただろう。

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