第6話 オーバーホール

 ピアノは消耗品だ。


 多くの部品が木製である以上、経年劣化はどうしてもする。グランドピアノ、と言われて想像する独特な黒色の光沢は、現在では多くの場合ポリエステル塗料が使われている。様々な環境的要因から保護するための塗装とはいえ、大げさに言えば黒く塗られた木材である。


 一概にピアノの寿命が何年か、というのは断言しにくいところもあるけれども『60年』という数字が最もよく見るものだろうか。ただし、性能の低下は20~30年程度から発生するので、60年というのは本当にあくまで『弾けるだけ』という状態にこだわったときのものではある。


「過湿も過乾燥も、暑いのも寒いのもピアノは駄目。理想的なのは、1年を通してコンディションが全く変わらないこと」


「……なんか、外国のペットを飼う際の注意みたいな話だね明菜」


 まあ、ひなのさんの指摘はあまり間違っていないのかもしれない。本当にピアノというペット・・・は、どういう環境下で飼育・・してきたかが如実に反映される。もっともピアノに限らず楽器の管理としては大体同じようなことは言われるけれども、ピアノの特異的なところは基本的にグランドピアノでもアップライトピアノでも一度置いた場所から動かすことはほとんど無いということだろう。それが、弦楽器などの湿度管理厳しい組とはまた違った難しいところだ。


 ひなのさんはそのまま話を続けて、気になったことを私に聞いてくる。


「一番ヤバい環境は?」


「……意外とありがちなのが床暖房かな。アレは本当に天敵。

 いや、屋外設置で野ざらしが一番まずいとは思うけど流石にしないでしょう? 後は水回りに近い場所もちょっとねえ……」


「温度と湿度の変化がダメってことを考えれば、確かにって気もするね。

 ……他には?」


「……人間本位の冷暖房」


「マジでペットじゃん!」


 だから絶対に人間に合わせた温度管理をする必要があって空調をよく使う場所というのは、あんまりピアノ設置には向いていない。

 その最たる例は――病院だ。大きいところだとピアノが置いてあったりするイメージもある病院だけれども、人間にとって快適にすればするほどピアノにとって劣悪な環境になってしまうこともある。


 また、この辺の真逆の現象が、古い空調設備を使用している音楽ホールなどでたまに起こる。

 冬の寒い時期に暖房をガンガンかけると温度は上昇するけども空気中の水分量が増えていないので飽和水蒸気量の関係から湿度は下がり過度の乾燥が発生する。だから、冬場に温度を極端に上げてしまうと楽器に影響が出るために空調の設定温度を上げるに上げられず、超寒い音楽ホールが誕生することがある。


 逆に梅雨時期とかになると、既に空気中に大量の湿気が存在していることから、これを除湿するために空調によって空気を冷やすことで結露によって取り出し、空気中の水分量を下げることで過湿状態を脱却するという手法を取ることがある。

 この場合は、今度は冷房による過冷却が起こり、冬のときとは別の要因だが結果としてはやっぱり超寒くなる。


 このほかにも舞台上の照明によって湿度変化も生じることから、客席にとって好ましい空調温度を諦めざるを得ないという状況も度々生まれるのだ。

 一応、温度と湿度を別個管理できたり、客席側と舞台側で別々の空調設備を使うことで、そうした状況を打破できるけれども、大掛かりな設備投資が発生するので、既にあるものを改善するのは中々大変だと思うが。



「でも、明菜? ピアノの寿命が60年って言うならさ?

 ここのハプスブルクの紋章があるピアノは絶対それよりも古いわけじゃん。それに前に小学校の博物館で見たピアノも明治時代のやつだったし。

 普通に寿命めっちゃ過ぎてない?」


「ああ、それは多分……『オーバーホール』をしているからだと――」



 ――オーバーホール。

 つまりは一度部品レベルまでピアノを全部分解してから、洗いざらい点検・清掃を行い、不良となった部品は交換し、再度組み立て直すことで元の性能の復元を試みる修理の最終手段である。


 ただし、普通はあまりやらないだろう。1つは、単純に費用が掛かり過ぎて、普通に新しいピアノが購入できる。

 それに加えて、治したところで元の性能に戻ることのが少ない。新しい部品を使えば、それだけまたそのピアノの個性は変わる。だったら新しいピアノの方が良いのでは? となってしまう。値段も変わらないのなら猶更。


 オーバーホールまでした治したピアノは、喩え音色が違ったとしても。それまでと『同じピアノ』だと言えるのだろうか。



「うわー、ピアノ版『テセウスの船』問題じゃんそれー」


「ひなのさん? テセウスの船、というのは?」


「ありゃ、明菜知らない? なんか意外だわー。有名なパラドックスに関する問題、なんだけどね」


 『テセウスの船』とは、ひなのさんが言うには。

 1つの船の部品が全部置き換わったときに、果たしてそれは同じ船であるか……という問いかけらしい。

 そして、ひなのさんはこのパラドックスをなんかのゲーム? のようなもので知ったとのこと。


「ね、ね? どう思う? 『テセウスの船』は同じ船? それとも違う船?」


 その食いつき方からして、ひなのさんはそうした哲学的な命題を好むという一面性が垣間見えてきたが、しかして私の答えは端的である。


「ピアノに関して言えば『同じ』ピアノになります。

 ピアノにとってその個体を保証するものはいずれかの部品、音色などではなく、製造番号ですから。仮に製造番号のプレートを交換したとしても、そこに書かれている製造番号名が以前と同一であれば『同じ』ピアノですし、全く同じ部品を使用していたとしても違う製造番号に変更されれば『別の』ピアノです。

 そこには音の違いすら介在する余地はありません」


 断言はしたものの、実際問題オーバーホールでどこまでの部品を交換したり既成のものと異なる材質の部品を使用して良いのかは流石に私も知らない。けれども、そうした整備上の留意点さえ除けば、ピアノの自己同一性は製造番号によって規定されると言って良いはず。



 でも。

 だからこそ、次のひなのさんの問いに。私はすぐ答えることが出来なかったのだろう。


「なるほどねえ。

 ……じゃあ、明菜はどう思うの?」



「……えっ」


「だーかーらっ! それはピアノに関する意見であって、明菜の考えじゃないじゃん!

 私は明菜がどう思うかについて聞いたんだから!」




 *


 私の考え。

 それを求められたことが無い、という人生を送っている人間は現代社会において皆無と言って良い。私たちは残酷なほどに個性や他者のアイデンティティを尊重し、大切に扱っている。


 たとえ、どのような意見であっても私たちは多様性という大義名分の下、受容や理解はせずとも存在を認めなければならない。

 ――そう。どんな意見でも。


 幸運にも私はそれを建前や表面上のことではなく、実践的事実として受け入れている社会で暮らしてきた。だからこそ、私の考え・・・・は一度も否定されることも疑問にさらされることもなく認められてきた。


 ……それがたとえ、何かの借用であっても。


「わ、私の考え・・・・は……。ピアノに関する措置と同じ意見で――」


 ひなのさんは柔和な笑みを浮かべながら、私の言葉を遮る。


「……そうじゃないでしょ、明菜。

 本当にそれは――明菜の考え?」


 揺れる銀色の髪の少女は私の目を一点に見ていた。まるで、彼女のワインレッドの瞳には、私の姿がそのまま映っているように。

 この瞬間、私はどうしようもなく自身の全てを見透かされたような思いが全身を駆け巡り、それは鳥肌のような感覚を錯覚させる。


 そして完全に『東園ひなの』という『本物』に飲まれかけたとき。ようやく私は――彼女の天才性の片鱗を僅かに掴んだような気がした。



「……その答えを出す前に。

 1ヶ所、ひなのさんに案内したい場所が出来たけど……良い?」


「……へぇ。

 もちろん、明菜がそう言うなら、付き合うよ私は」



 そうして私はひなのさんを連れて同じ敷地内の別のピアノの下へ移動する。


「これは……?」


「――『ジョン・ブロードウッド・アンド・サンズ』のアップライトピアノ。

 イギリスのピアノメーカーで……ピアノの創成期から存在するところのピアノ」


 ブロードウッドはピアノの歴史を語る上で必須級の老舗メーカーだが、しかして日本全国での普及率で考えれば相当珍しい部類と言っても良い。


「なんというか……見て分かるレベルで古いね、これ」


 ピアノ素人のひなのさんでも一瞥しただけで分かるようにかなりのアンティークピアノだ。優に100年は超えるだろう……これもまた、かなり高い確率でオーバーホールがなされたピアノであると推測される。鍵盤は既に黄色く変色していて、このアップライトピアノが歩んでいた歴史を体現しているようだ。

 また、鍵盤を見れば現在主流の88鍵ではなく85鍵である辺りからもビンテージさが垣間見える。


「ええ。流石に全部の部品を交換してはいないと思うけど……これも、きっと『テセウスの船』予備軍で。


 ――そして、誰でも自由に弾けるピアノなんだよね」



「ま、横の看板にしっかりとそう書いてあるし……」


 『旅ピアノ』という名称で置かれているこのピアノは、いわゆる『ストリートピアノ』の1つだ。全国各地に、そういう誰でも弾けるピアノというのは探せば結構設置されているものの、しかしやはりそこでブロードウッドを選んでいる場所というのは、恐らくかなり限られる。

 そのうえで、100年物のアンティーク品ともなればもう唯一無二の存在と言ってしまってもいいかもしれない程にはレアだ。



「ひなのさん……これ、弾いてみません?」


「……そう来るかー。いや、やっぱり明菜は一筋縄ではいかないよな……。

 ……ま、分かった。その明菜の企みに乗ってやろう!」



 そしてひなのさんは、椅子に座ってピアノを弾き始める。

 彼女が選んだ曲は、やっぱり例の『ドラマの主題歌』であった。



 ……。



 言葉を飾らなければ、やっぱり彼女の演奏は下手だ。特に今日は音が混ざり合っている。

 しかしギリギリのラインで曲として認識は出来るものなので、世間一般で流行りの曲を弾いているという部分も踏まえて、他の人が一瞬立ち止まったりもする代物になっている。


 しかし。彼女の真の脆弱性は演奏スキルではなく『暗譜』にある。しかし、それは身体の動きで直感的に覚えているもの。だからこそ、流れに乗っているときは問題ないけれども、一度躓いてしまえば取り返しが――


「……ありゃ? じゃ、ミスったとこからやり直して――」



 ――ひなのさんの演奏はミスをした場所、ちょうどその音――フレーズや小節などを完全に無視して何事も無かったように再開された。



「ちょ、ちょっと待って、ひなのさん!」


「……へ? どした、明菜?」


「そんな脈絡のない場所から、突然弾き直しが出来るの?」


「え? これってそんな難しいこと?

 くっくっ……もしかして明菜も出来ないことだったり?」


「いや、出来ますけど」


「出来るんかーい!」


 ひなのさんは釈然としない様子でやっぱり中断したところから弾き直した。

 暗譜と一口に言ってもいくつか別れる。


 1つは先ほど挙げたが、身体で動きを覚えてしまう暗譜。練習のために連続で弾いていると頭で理解するよりも先に身体の方が覚えてしまうということは往々にして起こる。自転車の乗り方や空気の吸い方を意識しなくても出来るのと同じ感覚でピアノを弾いている……というと、ちょっと天才っぽく聞こえるけれども、実際のところむしろピアノ奏者としては誰しも通る道だったりする。


 逆に楽譜に書かれている情報をそっくりそのまま完全に記憶するタイプの暗譜もある。暗譜というとこのイメージな人も多いけれども、ピアノの暗譜でこれを本気でやる人間は、むしろ超少数派だ。だって、完全記憶だけで楽譜情報を覚える前に基本弾けるようになるし。


 そして、音感を頼りに構成するタイプの暗譜……これは耳コピと言えば伝わるだろうか。曲を聴いただけで何となくそれっぽく弾ける人間は世の中に結構居るが、それはこの音感に由来したものに近い。ある意味楽譜を経由せず、直接音から演奏に直結しているとも言えるが、これの難点は完全に己の音感に全て寄りかかっているという点だ。

 弱点は耳で聴いた音と心中することになるため、環境変化や調律の違いなどで耳馴染みの無い音を出した鍵盤を前にすると、時に奏者のパフォーマンスが大きく崩れることがある。


 基本的にピアノ奏者の暗譜というのは、これらのやり方を複合的に組み合わせた結果の代物であることが多い。初学者であるほどに身体か耳のいずれかに頼り切りになりやすい。



 問題は完全に身体だけで覚えているタイプだと思っていたひなのさんが、実のところは――。


 演奏終了後、ぱらぱらとした拍手の中。ひなのさんに尋ねる。


「……もしかして、ひなのさんって。完全に楽譜を頭に入れてます?」


「え、そーだけど。

 丸暗記とか超苦手でやりたくないんだけど、楽譜見ながら弾けるわけじゃないし!」


 ひなのさんは楽譜を情報として完全に暗記していた。

 ……いや、それで丸暗記苦手って言われても全く説得力ないんだけど。



「それよりも、このピアノ。音楽室のよりも弾きやすかった感じがある!

 なんか軽いというか、私が持ってるやつにちょっとだけ近かったし、足のやつもあんまり押してないのに響くし!」


「……鍵盤がやや浅めで、ダンパーペダルが踏み込みに対して効きやすいのでしょうね」


 その他に。口には出さないが、音が混ざっていた理由は多分このせいだろう。

 アンティークピアノと言えば聞こえはいいけれども、寿命を超過したピアノを何とかやり繰りして弾けるものにしている都合上、弾き心地は癖の強いものになることが多いのだ。



 けれども。

 分かったことはある。


「ねえ、ひなのさん」


「……?」


「やっぱり、私は『テセウスの船』は同じものなんじゃないかなって思うな。

 だって――今、ひなのさん自身以外は別物であったピアノで聴いた演奏は……完璧にひなのさんの演奏だったし」


「明菜……それ、絶対褒めてないよねー?

 ……でも、明菜の考えは分かったよ!」


 今度はひなのさんは右手の親指を立ててサムズアップをしながら、『私の考え』を受け入れてくれた。



「……ちなみに、ひなのさんは『テセウスの船』はどっちだと思っているの?」


「まー、同一性の定義次第ではあるんだけど、さ。それを言っちゃ元も子もないし……。

 そうだねえ。私は『別の船』だと考えてる。

 だって――」



 ひなのさんは、一旦ひと呼吸いれてから、先ほどまで弾いていたブロードウッドのピアノに触りながら続ける。



「このピアノの全部の部品を入れ替えたらさ。

 今日、私がここで弾いて、明菜がここで聞いた曲は二度と聴けなくなるんだから。


 ……それはもう、別物じゃない?」


「……ピアノは音に関係なく『同じ』だと言ったはずですが」


 同じこと繰り返せば、ひなのさんは笑う。


「あのねえ。だから、それはピアノに関する意見じゃん?

 『思い出』の同一性まで、楽器は保証してくれないよ?」


「それは……確かに」


「――でしょ?」



 ……きっと、この時には。

 私は。『澄浦明菜』は。


 何も部品が入れ替わっていないはずなのに。ひなのさんの『オーバーホール』によって、きっと。

 これまでの――ひなのさんに真に囚われていなかった――私から『別物』になっていたのだと、思う。



 しかし、その変化に気付けていない、という意味では同時に『同じ』ままであった。


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