第5話 19世紀ホール
京都市学校歴史博物館は、大山崎の『
校舎や体育館などの新造・改築祝いとかで美術品が学校に寄贈されるってことも多い。まあ、それについては京都に限った話でも無いとは思うけど、特に京都は画壇として高名な人物も他の地域と比べると多いから、学校に普通に置いてあったり、あるいは校長室などに何気なく飾ってある絵とかでも、実は美術館で個展開けるレベルの画家が描いたものとかがたまにあったりするのだ。この博物館には廃校となった学校にあったそういう美術品も所蔵しているみたい。
というか、これについてはウチの学園もそうだった。ひなのさんがピアノを弾いていた旧校舎の玄関に置かれている絵……あの抽象画も、そこそことんでもない落款だったしねえ。
それはさておき。
先日の一件で、ひなのさんと連絡先を交換したこともあってこれまでよりも飛躍的に意思疎通を彼女と取りやすくなった。
と、いうことで。
「……あのさ、明菜。1つ気になったことがあるんだけどさ……」
「いきなり、なに? ひなのさん」
「明菜って、なんか姿勢良いよね? ……一緒に、隣で歩いていると特に思った」
1人で京都市学校歴史博物館に行ったのとは別の週末。平日に急にひなのさんがメッセージアプリで『前みたいな面白いとこ行きたい!』という誘いが来た。
それに対して『ピアノ関係で?』と返したら『明菜にレパートリーがあるならそれで』と返ってきたので、一緒に遊びに行くことになったのである。
ちなみにひなのさんは基本自転車移動で京都中を回っているらしいが、今日は私に合わせてのバス移動であった。だから大した距離は歩いていないのだけれども、ひなのさんはその短い歩行区間の中で私の歩き方にどうも注目したらしい。
「あー……それは多分、あれですね。ピアノ奏者も指揮者も、基本的にコンサート用で歩き方を訓練するので……」
「ほへー、弾いたりするだけじゃないんだ」
ソロのピアノコンサートでも充分目立つけれども、特に吹奏楽とかの方がこれは顕著だろう。単純に吹部のピアノ奏者は徒歩移動距離が他の楽器奏者よりも長かったりするし、指揮者なんかは最前だから超目立つ。
割とそういうコンサート用歩行技能は、必須スキルに近いものだったりする。
とはいえ、歩き方しか基本訓練しないので、走行フォームになるとボロボロになるピアノ奏者は多い気がする。だから、前にひなのさんの『走り方』が綺麗なことが印象に残ったというのもある。
「……でも、どうして?」
「え? いや、明菜の黒い長い髪が歩いていると綺麗にたなびいているよなーって思っただけだよ!」
……何というか。
やっぱり、未だにひなのさんの掴みどころが全く分からない。
*
「……それで明菜? 今日は、どこの博物館に行くの?」
バスから降り立ったのは駅前ロータリー。そこから目的地に向かうとどうやらひなのさんは思っているようだ。
「いや? もう着いているよ、ひなのさん」
「……んんっ?」
銀髪の少女は、その頭をひょこんと横に動かして疑問符が生じていることをジェスチャーでも表現した。その瞬間に揺れ動いた彼女の髪にちょっとだけ私は見とれながらも、こう答える。
「そこの『トロッコ嵯峨駅』の中に、割と京都では有名なピアノがあるんだよね。割とメジャーかもしれないけども――」
そう。ピアノは何も博物館の中にしかないわけではない。JRの嵯峨嵐山駅南口ロータリーに隣接する形で存在する『トロッコ嵯峨』駅の中? というか近くには、『19世紀ホール』と呼ばれる空間が存在する。博物館というわけではないので、当然見るだけなら無料だし、何なら併設される形でカフェもある。
ただ……。
「うわぁー! SLがあるー! すごいすごーい!」
……まあ、ひなのさんの興味は多分SL列車の方に行くだろうな、と思ってました。うん。
*
ベーゼンドルファーのモデル290。
それが、この『19世紀ホール』にあるピアノだ。ベーゼンドルファーは、先のスタインウェイと並び立つくらいに有名なピアノメーカーであるが、スタインウェイよりも更に少量生産に特化している。
「……で、その『べーぜんどるふぁー』? ってのは、どれくらい有名なの?」
「うーん……、逆に何で喩えたらひなのさん分かるかな」
「じゃーあー……、中学数学で!」
また難しい注文を……。
「……『ヘロンの公式』くらい?」
「あー成程。何となく分かったかも」
教科書だとさらっと流されるけれども、受験では割と稀に出てくる『ヘロンの公式』。ベーゼンドルファーも一般知名度は然程ではないかもしれないが、ピアノをやっていて、ピアノメーカーを調べたことがあればほぼ間違いなく耳にするもの。
ちょっと深掘りすれば出てくるくらいの位置に居る、というポジション的にはヘロンレベルかな……と思った。
まあ実際、『ヘロンの公式』を知っているだけで数学者相手に何ができるわけでもないように、ベーゼンドルファーだけを知っている一般人がいたとしても、ピアノ奏者相手に何かできる訳でもないと思う。
それはともかく。
奥にSLが数台展示してあって、手前はカフェになっているこのピアノの展示スペースに、ひなのさんを案内した理由はある。
「……ねえ、ひなのさんって。高校に入るまでは、電子キーボードとかで演奏していたでしょ?」
「え、あ、うん。そーだけど、何で?」
「最初に会ったときにグランドピアノの値段聞いてきたこと……それと演奏のときの、指の使い方を見て……何となく」
実はちょっぴり嘘、というか濁して伝えている。仮に彼女が『キーボード奏者』だと仮定してもそれでもあの弾き方は違和感が強いものだ。本当に独学で、誰からも指導を受けていなければ、ああいう演奏にはならない。
「……1回しか見ていないのに、そこまで分かっちゃうんだ。
中学のときに親戚の家から譲ってもらった
「キーボードだよね? どれくらいのサイズか分かる?」
「うーん……このくらい!」
ひなのさんは肘を曲げて両手で大きさを表現する……彼女の身長は私とあんまり変わらないくらいだから大体150cm台の半ばくらいだろう。両手をめいいっぱい広げずに結構余裕がある感じで表現した印象から、キーボードの横幅は概ね1メートルあるかないかだろう。
となれば……。
「61鍵のキーボードでしょうね、きっと」
「けん?」
「ああ、白い鍵盤と黒い鍵盤を数えた個数のことで、61鍵なら5オクターブ分になるんだけど……」
本当に子供向けというかピアノ奏者からすれば玩具にしか見えない49鍵を除くと、キーボードは大体、61鍵、76鍵、88鍵の3種類に大別される。……まあ、たまに73鍵とかちょっと珍しいのもあったりするけれども、基本的にはこの3種類だ。
で、一般に電子キーボードと言われてパッと思い浮かぶやつは概ね61鍵で、一応はこれが主流だと見て良いと思う。まず何よりも61鍵のキーボードはとっても軽い。シンセサイザーを買わなければ一般的なものなら5kgちょっとで、これくらいなら女子でも何とか持ち運びしても良いか……って思えるくらいの重さだ。そのため、学生バンドとか軽音部とかのキーボードは、特に奏者にこだわりが無ければ大体61鍵で済ますことが多い。まあ、楽器を演奏するという時点でこだわりがある人間も多いので、本当に概論ってレベルではあるのだけれども。
ただ61鍵は、ピアノ奏者の視点から立つとあまりにも鍵盤数が少なく感じる。これは当然と言えば当然の話で、グランドピアノもアップライトピアノも例外を除けばほぼほぼ88鍵――7.25オクターブばかり。何故ならクラシック曲だと61鍵ではそもそも弾けない曲というのは結構多い。
というかたまに合唱曲とかでも61鍵だとナチュラルに足りなくて、学校のクラス対抗の合唱コンクールレベルの水準でもクラス貸出用のキーボードだと実は音域が足りないなんてことは、ピアノ奏者あるあるだったりするのだ。
まあ中学では私は吹部の指揮者だったのに、合唱コンクールでは何故かピアノ伴奏をやらされた。吹部のピアノ奏者は別のクラスだったから、たぶん私しかクラス内でピアノを弾ける人間が居なかったとかそういうことなのだろうけれども。
というわけで、一度でもちゃんとピアノを学習した人間が電子キーボードを買おうとすると、まあ88鍵に憧れるのが多分普通だ。
それは弾ける曲のレパートリーという今まで挙げた理由が1つ。そして、更なる別の理由としてタッチの違いを多くのメーカーだと76鍵・88鍵を境とすることが多い点がある。88鍵のキーボードの殆どはピアノに似たタッチ感――平素に言えば、強く叩けばデカい音が出る……という仕組みになっている。しかし76鍵以下の場合は、タッチの強さに関わらず音量は音量ボタンで一律で調節、みたいな感じなものが多く、そういう電子キーボードは総じて鍵盤が
「……あっ! 私も分かるかも、それ!
なんかピアノってめっちゃ鍵盤重いよね? 全然音が出なくてびっくりしたもん!」
「ひなのさんは、最初から持っている電子キーボードの弾き心地に慣れてしまっているから、余計にそう感じるよね」
「うん!」
そして、これが。第三音楽室でかつて聞いた彼女の演奏の音の強弱がぐちゃぐちゃだった理由だろう。おそらく彼女が所有しているキーボードでは指の力の強さは音の大きさとは無関係だった。だからこそ、タッチの強さをあまり気にせずにこれまで独学で演奏してきたのだろう。
それは、別に悪いことではない。ただグランドピアノには適した演奏技法ではない、というだけ。
「はー、なるほどねえ。ちょっと、スッキリしたかも!
……でも、それと今、ここにある『べーぜんどるふぁー』? のピアノと何か関係あるの?」
「まあ、ええ。鍵盤数の話とリンクするんだけどね。
この『290』のモデル――『インペリアル』とも言うんだけどね、このグランドピアノの鍵盤数は……97鍵あるんだよ」
『インペリアル・ベーゼンドルファー』。
皇帝の名を冠するこのグランドピアノは。前世紀においては長らく世界唯一の97鍵ピアノとして名を馳せた代物である。ちなみに、ここに置いてあるのは更に自動演奏装置付きだったり。
運が良かったかどうかは分からないが、私たちが見に行ったタイミングでは、鍵盤蓋も屋根も開いていた。音を鳴らすと結構顕著に違うと聞いたことがあるけれども、その理由はフレームからして造りが違うため。ただ、そんな通常のグランドピアノのフレームの差異やら88鍵と比べて9本多い低音弦の本数などよりも、素人で一目瞭然な工夫が鍵盤側になされている。
そしてひなのさんは、それに目敏く気が付いたようだ。
「……うわっ! このピアノ、端っこの弾くとこが全部黒いっ!
白じゃないと、なんか凄い違和感あるねえ」
「それが、普通のグランドピアノには無い9個の鍵盤なんだよ、ひなのさん。
黒塗りすることで普段は使っていない場所ってことを明示しているんだ――」
製造年度によっては黒塗りされていない『インペリアル・ベーゼンドルファー』も存在するらしいけれども、セオリーとしては塗られているものだと考えて良いと思う。別に『インペリアル』に限らずベーゼンドルファーのピアノは超希少品だけれども、なんやかんやで日本ってブランドピアノとか高級ピアノが何故か結構あるので、この『インペリアル』もまたレアだけれども、不思議な場所に鎮座していたりする。
……まあ、ここも駅ナカだし充分に変な場所ではあるけども。一般の市民ホールとかにも『インペリアル』を置いている場所とかも探せばある。まあその場合、きっとグランドピアノの選定者か寄贈者のいずれかの癖が強かったのだと思うけども。
そんなことを考えていたら更にひなのさんが畳み掛ける。
「ねえねえ、明菜! 私、すごいの見つけちゃった!」
「ひなのさん?」
「ほら! ここ! これってハプスブルク家の紋章でしょ!? 双頭の鷲ってカッコいいよね~」
ピアノは全く興味が無いのにそれは分かるのか。
そういう意趣もちょっとだけ込めて、訝しげに私は尋ねる。
「……ひなのさんって、ヨーロッパの家紋が見ただけでどこの家か分かるの?」
ちなみに、私も流石に家紋はきちんと教えてもらったことが無いので分からない。
「うんっ! あ、だけどヨーロッパじゃなくて分かるのはドイツ系の上位貴族くらいだけどね。ちょっとドイツの紋章学を齧っていた時期があって――」
「……いや、家紋ってそういう勉強する時期って普通ある?」
「えっ? 気になんない?」
そう言いながら、ホーエンツォレルンとかヴィッテルスバッハとかヴェッティンなどの統一前ドイツ諸邦の王家や貴族家をすらすらと言ってきたから『あっ、これは本当に分かるやつだ』と私は内心で思い。
そして、ひなのさんの興味・関心が向く分野が割と意味不明というかかなり気まぐれで一貫性は恐らくあんまりないのだろうと容易に予想がつく出来事であった。
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