第2話 趣味でしか、ピアノが弾けない少女
「……ひどい音色」
調律は……多分、ある程度はちゃんとされているはず、私立だから入札制ではないと思うけど。曲がりなりにも学校の備品だろうし、音楽の先生だって楽器のプロっぽい感じはした。
まず。ペダルの踏み方が全然なっていない、だからロングトーンの響き方が特にひどいことになっている。
ただ、それよりももっと致命的なのは、音の強弱がぐちゃぐちゃで予測不可能なところ。恐らくこれは運指の問題だろう。きっとかなり強い癖を持っていてそれが一切矯正されなければ、もしかすればそうなるかもしれない。
ちょくちょく入る雑音の多さも、運指の癖によるところが強そう。
しかし、それでも辛うじて『曲』としての体裁は保っている。疑問に思いながらも弾いている曲が『ドラマの主題歌』って朧気ながらも分かった、という部分に関して言えば、演奏としては破綻していても、それが曲と認識できる最低限のラインは超えているのだ。
その理由は……あ。リズム感かな。これだけ他の技術が酷いのにも関わらず、そこについてはほぼ一定だ。ピアノに関する技術は絶望的な一方で、それでも垣間見える音楽のセンス。
……気になる。
これがきっと私よりも上手な演奏であったなら。私はここまで興味を持つことは無かっただろう。
でも、私は。
――第3音楽室の扉を開くことを選択した。
*
そこでピアノを弾いていたのは、私と同じ制服を着た1人の少女であった。髪は銀色の前下がりのショートボブ――そのふんわりとした毛先を軽く揺らしながら曲に集中しているようで、私が第3音楽室に入ってきたことに気付いていない様子であった。
そして真っ先に気になったのは彼女の運指。不可思議でかつ不可解に舞っていたのは事前の想定通りだったけれども、直接見たことで更にはっきりとしたのは『指の腹』の部分で彼女は弾いていた。これは、無骨な音色になるはずである。
また、そんな彼女の指先を見ると――日常生活を送る上では、まだあり得る長さではあるけれども、しかしピアノ奏者として考えた場合、明らかに――爪が伸び過ぎている。近付いたことでカチ、カチと爪の当たる音も聴こえている。
恐らくきっと、どんなピアノ教室に通っていたとしても、間違いなくこのまま放置されることは無い弾き方。それは、全くピアノ経験の無い人物であれば当然あり得るものではあるのだけれども……しかし、そんな状態でもって、最低限ではあるが『曲』として認識しうるレベルにまでは辛うじて成立させている。
最早ピアノを弾き始めた頃のことなんて、ほとんど覚えていないから想像するしかないけれども、それでも全くピアノの『訓練』を受けていない人にとって、両手で違う作業をするというのが、基本的には容易ではなさそう……ということには流石に私も頭を巡らせることはできる。
全く誰からも教えを受けることなく、このような形でも成立させる……というのは、理論上は可能であったとして。実際にそこまで辿り着く前に、誰かの教えを請うか……それとも、諦めたり飽きるか、というのが『普通』だ。
だから、この少女が非凡であることは、その時点で疑いようのない話ではあったけども。更に、クリティカルな部分がもう1つあった。
――この銀髪少女の弾くグランドピアノの譜面台に、楽譜が置かれていなかった。
そこから導き出せる答えはただ1つ。
少女は、暗譜でピアノを弾いている。
体の感覚だけで弾き楽譜を全く確認しないのは、明らかにピアノ初心者がやりがちな行動であった。
そこに手を加えられていないということは、全くの初心者状態からここまで1人で仕上げているという非凡性を意味する。
*
一曲終わり、演奏をやめた少女は、気配から私に気付いた。
「誰……?」
この場において部外者は私。そして彼女が上級生なのか同級生なのかも分からないので、先に私の学年を周知する意味でも自己紹介をする。
「1年2組の澄浦明菜です。こちらに来たらピアノの音がしていたので、もしかしたら部活動や同好会の方かと思って見に来たのですが……」
そう私が言えば、銀髪の少女は納得したような表情を浮かべる……大方、今が体験入部期間であることを想起したようであった。
「私は、
「りょーかい、東園さん、ね」
「……ひなので良いよ? あと、別に
その後、二言、三言交わして彼女も私のことを『明菜』と名前で呼ぶこととなる。東園さん……いや、ひなのさんと話しながら彼女の様子を伺う。
腕時計はしていない。ピアニストとしてはちょっと伸びている爪だけれども、ケアが疎かになっているわけではない。キューティクルオイルは塗ってそうな感じ。
そして化粧はぱっと見やっているようには見えないけれども、爪のケアをしている以上は、自然な感じで薄くはしていると思う。校則で指摘されないラインのナチュラルさであるが、これについては私もほぼ同様だし。
しかし、同じクラスの腕時計の子くらいのレベルで分かりやすいアイテムなどは身に着けていない。暫定評価ではひなのさんはお嬢様ではなさそう、という仮定の上で、言葉を重ねていく。
「趣味、と言いますと何か理由があって此処で弾いているわけじゃないってこと?」
「そうだねえ。……あー、強いて言えば『
ひなのさんはグランドピアノを指差しながら言う。確かに新品で買うなら、どんなに安くても100万円が下限ラインでかつ、上を見ればそれこそ青天井の世界だ。というか値段よりもむしろよりネックになるのは、置き場の方なのだけども。
発言から察するに、ひなのさんはやっぱり庶民的な感性の持ち主と決め打ちして良さそうなので、そうした一般家庭の子供部屋……どころかリビングに入れるのも、最初からグランドピアノを置く前提でレイアウトを考えない限りは一般論としては厳しい。
……名古屋の家の自分の部屋に置いてきた私のピアノも、グランドピアノではなくアップライトピアノなのは、スペースの都合によるところが大きい。まあ、ミニマムなグランドピアノもメーカーで用意しているところはあるけども。
私が小さく頷けば『やっぱり?』って苦笑いしているひなのさんの姿があって。ちょっと不安になったので聞く。
「あと一応、ひなのさんにお聞きしますが……どなたか先生方の許可は取っているよね?」
「やだなあ、音楽の
「多分、同じだった気がしますが……あ。その『飾城先生』の右手親指の関節にタコがありました? あれば確定なんだけど……」
「えー! そんなとこまで見てないよー」
そういうものなのかな。ちなみに、その位置のタコは音楽由来ならば管楽器奏者の特徴である。勿論、人によって個人差は大きいが負荷がかかる場所なのは間違いない。
しかし、先生から許可を貰っている点はちょっと安心した。多分、ひなのさんは楽器に詳しくなさそうな感じがひしひしと伝わってきているから心配だったためだ。完全に先入観でしかないが、けれどもあの『演奏』を鑑みれば不安にもなる。
そして、私は会話をしながら、ひなのさんの演奏に対して言及する糸口を探し模索していた。彼女は色々と
更に、あの演奏を聴いていた私に対して、ここまで普通の対応をするというのも、超然とし過ぎている。下手、という自意識があれば、きっと恥ずかしがったり、そもそも私のことを拒絶するという反応があるはずなのに、このひなのさんは恐らく自然体のまま言葉を重ね続けている。
それが許されるのは。
認識能力のどこかに欠落のある『狂人』か、あるいは……『本物』の『天才』であるかのいずれか。
そして彼女との僅かな会話の中で、私の判断能力はこの銀髪の少女を『後者』ではないか……という警鐘を鳴らし続けている。
だから私は、意を決して問いかけを行うことを決意した。
「あの、ひなのさん……先ほどの演奏のことなのですが」
「……?」
ここで首を傾げるという反応に留まったところで、やはり自分の演奏を客観視できていないのは確定である。『狂人』か『天才』かの判断には至らないものの、しかしその2択に答えがある可能性が更に高まった。
そして、もし『天才』である場合。このままド下手な演奏のまま留めておくことは
――何より、私自身この才能の可能性を放置することを是とすることが出来なかった。
「単刀直入に申し上げて、ひなのさん。あなたの演奏には改善すべ――」
「――明菜、ちょっと待った。
私はそこから先の言葉を聞き入れるつもりはないから」
明確な拒絶。
更に、言葉だけではなく彼女は自身の両耳を手で塞ぐ真似までした。
流石にここまで苛烈な反応をされては、私も二の句を継げることは断念する。すると、しばらくしたらひなのさんは手を耳から少しだけどけたので、それを見計らって別の言葉を紡ぐ。
「……あの。どうして、そこまで頑なに拒むの――」
その私の本心からの問いに対して、彼女は耳周りの少しだけ乱れた髪を手でかき上げて整え直しながらこう答えた。
「私は。
――好きで、趣味でやっていることを。『作業』にしたくはないから」
そのまま彼女は赤いフェルトの細長い布――キーカバーを、鍵盤の上に乗せて、鍵盤蓋を閉めて、第3音楽室を後にした。
……彼女は。東園ひなのは。
――『趣味』でしか、ピアノが弾けない少女であった。
*
私は東園ひなのという少女のことを測りかねていた。即ち、彼女が『狂人』と『天才』のいずれかということ。
翌日、翌々日にも旧校舎の第三音楽室を放課後に訪ねてみたものの、そのときは不在で誰も居ないどころか鍵すら開いておらず。毎日ピアノを弾きに来ている訳ではないことは収穫ではあったものの、逆に言えばそれくらいしか分かることはなく。
とはいえ、別に彼女は放課後にしか現れない妖精ではなく、普通の女子高生である。しかも別クラスではあるものの、同じ学年だし、碧霞台女学園自体が全寮制ということも相まって調べようと思えば彼女のことは簡単に分かった。
ひなのさんは、入学直後にあった新入生の学力テストでは、抜きんでている訳では無いが上位層であることは間違いなく、既に『勉強ができる子』というイメージの確立には成功していた。
そして私は初対面の第一印象で『大分癖の強い子』という感覚であったが、1組においてはそうした噂が流れていないようで。狂人はおろか変人とすら思われていない。まだ1ヶ月も経っていないから何とも言えないが、しかしそれくらいの『擬態』は可能ということ。
また、部活には入っていないが、人付き合いは決して悪いわけでは無く、いくつかのグループにナチュラルに所属している渡り鳥。……まあ、そのおかげで2組の私でも簡単に彼女の周囲からの評価が手に入っているのだけれども。
結論として。
人当たりの良い優等生……これが、現状のひなのさんに対する評価であり、余程のことが無ければ今後それが覆ることも無いはずだ。
まかり間違っても、他者の指摘を真っ向から拒絶するような人物像ではない。だから、私にとってみれば彼女の世評はかなり乖離したもの、と言わざるを得なかった。
しかし、現時点において私は彼女のことをこれ以上詮索しようとは考えていなかった。確かに『本物』かもしれない才能が放置されることについては思うこともあったけれども、現状明確な拒絶を受けた身として、それ以上私に出来ることが無いと考えていたためである。
熱意が無いと自分で少し思ったが、けれども初対面の相手に向ける関心としては、これでも高い方だとも考えた。
だから必然的に、次のアクションは受動とならざるを得なかった。
*
その日は、6時半の起床時間よりもかなり早く目覚めてしまった。
「……んんっ、え……まだ5時じゃん……」
二度寝も余裕な時刻であったが、さりとて寝直す気分でも無かったので、取り敢えずベッドから出る。窓の外はまだ暗く、日の出もあと20分ほどはというくらいには外は薄暗く、街灯がついていて寮から見える信号は未だ点滅したままであった。
「太陽も信号も、おねむの時間……って、あれ?」
そんな窓の外を眺めていたら駐輪場の方から音がする。内心、不審者も警戒しつつ意識は完全に覚醒し、そちらに目を向ける。
すると、そこに居たのは不審者などではなく。今にも自転車用ヘルメットを被ろうとしている銀髪ショートの子――東園ひなのの姿であった。
私はぼけっとその姿を眺めていたら、彼女はヘルメットを被った後は、そのまま自転車で寮の敷地を出てそのまま走り去ってしまった。
「……えっ? こんな時間に、どこ行くのあの子……」
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