ピアノが弾けない少女たち

エビフライ定食980円

第1章

第1話 ピアノを弾かなくなった少女

「――本当に、これ・・は持って行かなくて良いのか。……明菜あきな


「……うん、お父さん。

 というか、中学でもピアノはもうほぼ家でしか弾いてなかったし。それにこれ……アップライトピアノは、流石に寮の部屋に入れるには大きすぎるし、防音とか色々問題があるよ――」


 『澄浦すみうら』という表札が示す一軒家の2階の南窓の部屋、それが私の部屋だ。

 ベッドやドレッサー、家具、そして私の髪色と同じ真っ黒なアップライトピアノも置かれている、いつも通りの私の部屋。……けれども、よくよく目を通せば、既にそこには生活感が希薄となっていた。


 壁まで伸びる本棚には、持て余したかのように空きが目立っているし。

 クローゼットを開ければ、季節外れの衣替え用の服が衣装ケースの中に入っていて。

 何より、勉強机の上には卓上カレンダーの1つすら置かれていなかった。



 ――この春から、私は全寮制の私立の高校へと進学することに決めた。学校の名前は『私立碧霞台へきかだい女学園』。俗に言ってしまえば、京都にあるお嬢様学校だ。

 そして、私は既にもうトラックで運ぶ荷物はもう積み出した後であった。最低限の家具は寮に備え付けられているから、私物を詰めて小さなコンテナパック、段ボール数個分で事足りた。



 だから、今更、こんな大物の荷物がどうこうなる訳ではないことはお父さんも分かっているはずなのに。そう思ったら私の髪がピアノに少しかかっていたので、髪を整えながらお父さんの反応を待つ。

 しかし、それは煮え切らないものであった。


「……明菜。サイズが問題なら、電子ピアノでもキーボードでも良いじゃないか。それなら、ヘッドホンだって繋げるから音を気にする必要だって――」


 私はお父さんの言葉を途中で遮って、目の前にあるアップライトピアノを優しく撫でるように触りながら言う。


「……このピアノに、消音ユニットを付けるの嫌がったのお父さんだったよね?

 レットオフがずれてタッチが結構変わるから、私にそういう環境で練習させたくないって……というか、元々はグランドピアノを私の部屋に置こうとしていたじゃん。

 なのに、今更お父さんが電子キーボードで許容するのは……なんか、違うと思うよ?」



 私がそこまで言えば、お父さんは一度嘆息し、それからゆっくりとこう告げた。


「……そうか。明菜の考えは分かった……まあ、好きにしなさい。

 ただ……せめて京都に行くまでは、明菜のピアノの音を聴かせてくれないか?」



「……お父さん、そっちが本命だったでしょ? ……いいけど、さ。

 じゃあ、何弾けば良い?」


 最初に通しにくい要求をしてから、後から妥協案のように見せかけて本命の提案をする……いかにも仕事人間であるお父さんがやりそうな手口だ。

 いささか、乗せられていた感が否めないけれども、確かに『それくらいなら』という気持ちになったのは本当で。


「……まあ、待ちなさい明菜。こういう場で、お母さんのことを省いたら、まずいことになるだろう?」


「……お父さんって、お母さんには頭が上がらないよね」



 結局、それから数日の間は、お父さんとお母さんの為に毎日数曲の独奏会を開くことになり。

 引っ越しの日が来て、15年間ずっと住み続けてきた自分の我が家を後にして。


 そして私は。



 ――ピアノを弾かなくなった。




 *


「――出席番号13番、澄浦明菜です。中学までは名古屋に住んでいました。趣味とか特技は……ちょっと浮かびませんが、中学時代には吹奏楽部で指揮者をやっていました」


 入学式を終えての最初のホームルーム。私は自己紹介を終えて一礼すると、自分の長い髪が少し乱れたのを感じたので着席しながら整える。1年2組の所属となった私の周囲には当然、知っている子は1人も居なかった。

 とはいえ周りの子も結構京都の府外から来ている子が多くて、実情は存外似たり寄ったりなのかもしれない。無難なパーソナリティ情報を開示して、それを自己紹介と位置付ける……良くも悪くも目立たない処世術というやつだ。個性というのは第一印象で見せるものでもない。


 皆、一様にアッシュグレイのブレザーと黒のボーダースカートという制服を身に纏った私たちが、外見の印象で与えられる『個性』とは精々、春先のこの時期にアイボリーのセーターを着るか否かとか、真紅と白で構成されたストライプのネクタイの締め方だとか、他には白色で指定のソックスのメーカーを気にするくらいの違いだ。


 一瞬、特技でピアノのことを言おうかと思ったけれども止めた。

 というのも、俗にお嬢様学校とも称される場所だ。どうせピアノというポピュラーな楽器に触れたことのある人間なんて幾人も居るだろう。


 確かに私は両親の影響もあり、小さい頃からピアノには触れてきていた……けど、それだけだ。

 最後にピアノのコンクールで入賞した経験は、幼稚園のときだし。それ以降はパッとせず、ずるずると中学を卒業するときまで習い事自体は続けていたが、正直に言えばまともな成果になることは無かった……惜しいところまで行くことはあったらしいけどね。


 で、まあそういう環境な訳だから、他の楽器にも当然触れている。しかし、これがまたピアノ以上に酷かった。一通り弾けるようにはなるのだけれども、そこから先がどうしても続かない。代役としてならば充分だが、メインを張るにはちょっと厳しい……どの楽器もそんな評価だ。

 中学の吹奏楽部で結局指揮者をやっていたのも、どの楽器についての知見があることを評価されてのことであるとともに、どの楽器を弾かせても宝の持ち腐れになってしまうということで……実際、適任ではあった。


 しかも私は『学生指揮者』としては結果もついてきて、何だかんだで去年は吹コンで東海支部大会まで出場できた。

 ……もっとも。普通中学レベルだと指揮者は顧問の先生とかがやるから、私の『学生指揮者』というのは悪目立ちしまくって、地元での進学を諦めた……という経緯がある。


 だって、学生指揮者は珍しくて母数が少ない。そのため、比較対象が少ないから過大評価されている節はひしひしと感じた。実際、私の代の吹部は、単純にレベルが高かったというのもあるのに。



 けれども、まあ。何も知らなければ私のパーソナリティとして開示する情報なら、最も無難な話でもある。実際に支部大会まで出ているのは事実だから、初対面での会話の取っ掛かりにはしやすい。もう、吹奏楽部に入るつもりも無いけれど。



 それにほら。


「――です。中学時代にはシンガポールで開かれた国際吹奏楽祭にピアノ奏者として参加いたしました。ですので、ここ……碧霞台女学園でも、吹奏楽部に所属しようと考えております、以上です」


 クラスメイトレベルでも、既に明らかに私を上回る経歴の人なんてごまんと居る。『本物』の実力ある人物というのは、然るべき場所にはしっかりと存在していることを……私は知っていたけれど、それを再確認することとなった。




 *


 全く新しい環境で、初めての寮生活をスタートして1週間が経った。

 ちょっと意外だな、って思ったことは京都の学校なのに京都弁を話す子があんまり多くない、ということ。でも、少し考えてみれば、私も含めて京都以外の場所から来た子ばっかりだったし、当然と言えば当然な話である。

 まだ、しっかりと話したわけじゃないけれども、上級生もそんなに訛っていない印象だ。……まあ先の話だけど、夏休みとかに地元に帰って『明菜ってそんなどすどす言ってたっけ?』みたいなリアクションをされなくて済むという意味では助かったのかもしれない。


「明菜さんー? 放課後にファミレス行くー?」


 話の流れで、私の後ろの席の左腕の腕時計がトレードマークの子がそう言ってきた。1週間も経てば、まあ誰しも慣れてくるわけで。

 既にファミレスには4人くらい誘っているようだけれども、人によってはお嬢様なのにファミレスに行くんだ、って思う部分かもしれない。


 ほら、よく創作作品などではお嬢様は、牛丼屋さんやファーストフードに初めて行くみたいな描写があったりするからね。下手すると毎日朝はステーキ、夜はフルコースみたいな極端なケースもまれにある。

 でも実際のところ、それはお金持ちか否か、上流階級か否かという問題ではなく、単なる家庭環境や両親の教育方針によるところが大部分を占めるわけで。別に貧しくてもチェーン店を嫌悪する人間なんてごまんと居る。


 傾向的には、むしろ一代で大きく成り上がったり、玉の輿に成功した両親を持つ場合に起こりがちな問題とも言える。代々続く由緒正しい本当のお嬢様家系では、逆に庶民に擬態できないことや、庶民と全く話が合わないことを『リスク』と考えるケースが多い。


 だから、このファミレスに誘ってくれた子が、別にお嬢様ではないことに直結するわけじゃない……というか。

 この子の付けている腕時計、デザイン的にかなり可愛い系の角がない台形状の形をしているやつだけど、これ私たちが中学に入るくらいにジュネーブサロンで、高級ブランドメーカーの最新モデルとして紹介されていたものだったはず。


 現実世界のお嬢様はファンタジー世界のように、縦ロールだとか口調だとかで一見して分からないように生息しているのだ。


「あ、ごめん! 今日はちょっと部活、見て回ろうかなって思ってて……」


「あー明菜さん、まだ決めてなかったもんね。中学じゃ吹奏楽やってたんでしょ? それじゃダメなの?」


「高校に入ってまで続けるつもりじゃ無かったから――」



 なお対面で話している腕時計の子は、器械体操部に体験入部しているらしく、話を聞いているとどうも経験者っぽい感じがしていた。




 *


 現状、実際問題として、今私を最も悩ませているのが部活をどうするのか、だろう。

 極論、絶対に所属しないといけないわけではないので無所属でも問題ないと言えば問題ないのだけれども……。かといって、別に習い事とかも引っ越しの兼ね合いもあって今は辞めている都合上、放課後に暇な時間を作る意味もあまり見いだせないのは事実。


 一応、楽器は触れたことのあるものも多いんだけど……。真面目に長年続けてきた人たちや才能ある者には私は叶わないことを知っている。けど、反面。完全な素人集団に混ざるには浮いてしまうことも自覚している。ここの兼ね合いがどうにも難しい。


 才能がないだけで、ストイックな練習にも付いていけるだけの気力と体力はある方だという自負もあって。多分、緩くて下手な子歓迎! みたいな部活や同好会に入っても、きっと無意識で雰囲気を壊してしまうかもなあ、と感じている。

 ……というか、軽音楽同好会の見学をした際に「あっ、これは私がサークルクラッシャーになる」と感じてしまった。


「部活棟と、新校舎の方はもう大体見て回ったから……あとは、旧校舎か……」


 入学式で手渡された学校の地図と、スマートフォンで開いている碧霞台女学園の部活動一覧のページ。それらを照合するに、大体目に付く部活動は既にチェック済みだということが分かる。


 残された旧校舎とは、今では老朽化のために授業では殆ど使われていない場所みたいだ。古い校舎というだけあって一通りの設備は整っている。

 なお旧校舎はコンクリート造りのネオ・バロック様式……ちょっとあべこべな感のあるこの組み合わせから見るに、恐らくは大正時代辺りに建てられた洋館風の建物だ。頑強な作りはまだまだ現役の建物としても使えそうな雰囲気はある。



 靴箱の並ぶ玄関。靴箱の中はほとんどが空だが、全く靴が無い、というわけではところを見るに、人の出入り自体はあるのだろう。そして、上履きを持ってこなかったので『ご自由に使ってください』と書かれたボックスの中にあるスリッパを一足借りる。


 そして、そのままボックスから目線を上げて……私はじっと壁――いや、正確には壁にかかっている高さ2メートルほどの大きな絵を見やった。



 その絵は、黒と金の曲線が何本も折り重なっている抽象画。きっと、この絵を意識して見る人間なんて、きっと殆ど居ないだろう。

 ……でも。


「黒と金……、抽象画……。そして、此処が京都ってことを考える、と。

 落款らっかんは……やっぱり。

 ――『本物』は、然るべき場所には、しっかりと存在している……」


 そこに刻まれていた署名から察するに。京都の画壇で高名だった人物の品……しかも、学校に置かれているということは、これまで世間に出回ったことの無い非公開品であろう……ということが何となく察しがついて。

 つまり、この絵は。ここでしか見られない『本物』なのだ。



「ええと、旧校舎の第3音楽室は……3階か。

 随分と奥まったところに……って防音対策かな、これは」


 第3音楽室を活動拠点としている部活は、スマートフォンで開きっぱなしの部活動一覧には無かったけれども、同好会レベルだと部室すらないところもあったりしたので、万が一のための確認でもある。それに、ちょっぴりの探検気分が無いと言えば嘘になる。




 *


 地図とスマートフォンを片手に、螺旋状の階段を登って3階へとたどり着いたとき。



 ――私はピアノの音を耳にした。


 廊下の窓は開いていて。

 そこからは満開の桜が色彩を彩るように咲き乱れているのが見え。

 私以外には誰も居ない廊下は、私のスリッパの音が響く。

 また、開け放たれた窓からは、春の陽気の心地よさと、土の香りが仄かに漂う。


 ……けれども、私はそうした五感から入る情報よりもピアノの音の方が遥かに気になった。


「……弾いているのは、多分ポップスのピアノ編曲……? って、もしかして。これ、今期のドラマの主題歌のやつ、だっけ。


 うん、多分……そのはず。だけど……でも。

 何というか――」



 私は、そこで一旦言葉区切って、第3音楽室へと近づいていく。それにつれて、ピアノの音は大きく聴こえるようになり疑念は確信へと変わっていった。


 そして、第3音楽室の扉の前に立って。

 部屋に入るかどうか、それを決定する前に、その『確信』を小さく呟いた。



「……この演奏。ド下手だ……」

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