十五話

 青空を映す池の上をとんぼの群れが飛んでいた。辺りを囲む木々や茂みからは、うるさいほどに夏の虫の音が響いてくる。暑さは一時より収まってはいたが、秋の気配を感じるにはまだ早い。見える緑には初夏と変わらない威勢があり、眩しいほどの鮮やかさを放っている。


 そんな場所に隊列を組んでひた歩く一団があった。三十人ほどの武装した男達は、武器や鎧をカタカタと鳴らしながら黙って歩き進んでいる。その先頭には唯一馬に乗った男――エレミアスがいた。手綱を握り、正面を見据えて馬を進めている。さらにその前には一人の部下が立ち、エレミアスを先導していた。


「本当にこの辺りなのか」


「はい。そう聞いています」


 先導する部下は振り向いて言った。エレミアスはそれをいちべつし、再び正面に視線を戻す。


 彼らがここに来たのは、ある犯人を捕まえるためだった。その犯人は、バロッサ聖堂にいたシュライアー司祭を殺害し、送られてきた情報ではその後、この辺りの森に逃げ込んでいったという。つまり、殺人犯を捜しにきたのだ。本来なら地方のバロッサで起きた事件は、その当地の騎士が担当するものだったが、今回は司祭の殺害という深刻な事件なため、団長であるエレミアスが直々に出向いたのだった。


 人通りのない、のどかな街道をしばらく進んでいくと、視線の先に青々とした山林が見えてきた。その景色をエレミアスはじっと眺める。初めて見るものではなかったが、それをさとられないよう何気なく口を開いた。


「夏山の景色も、いいものだな」


「こんな任務でなければ、もっとよかったでしょうが……あの山林です。犯人が目撃されたのは」


 先導する部下は前方を指差した。そこはまさにエレミアスが眺めていた山林だった。


「あそこに、犯人が逃げたのか?」


「目撃者はそう言っています。……何か?」


 振り向いた部下は馬上のエレミアスの表情に小首をかしげる。


「いや……ふむ、そうか」


 エレミアスはすぐに平静を装った。意識して無表情を作る。だがその胸の中では不穏なものを感じていた。


 そんな団長の様子など知らずに、隊列はどんどん進み、山林の中へと踏み込んでいく。頭上の枝葉が陽光をさえぎり、周囲は薄暗くなるが、それでも隊列の足は緩まない。まるで何かを目指しているかのように。


「どこに犯人が隠れているかわからない。もう少し注意しながら歩いたらどうだ」


 前進し続ける部下達にエレミアスはたまらず言った。


「山林の入り口付近にいるとは思えません。隠れるのなら人目のない、もっと奥だと思いますが?」


 間違ったことを言っていますか? と目で問う部下に、エレミアスは何も言葉が返せなかった。部下の態度が何かおかしい。異を唱えることは普段もあるが、どこか反抗的な、冷めた目を向けられたのはこれが初めてのことだった。それも相まって、この山林の奥へ向かうことに、エレミアスの中の不穏は膨らみ、徐々に焦りへと変化し始めていた。黙々と進む隊列に、それ以上行くなとも、引き返そうとも言えるはずがない。自分はここに殺人犯を捜しに来ているのだ。部下を止めれば、たちまち問い詰められるだろう。だが、奥へは行きたくない。どうしても行かせたくない――


「団長、どうしましたか? 顔色が悪いように見えますが」


 部下の刺すような視線に、エレミアスは思わずどもった。


「ち、違う。少し暑さにやられただけだ。大したことではない……」


「そうですか……無理はしないでください」


 気遣う声に感情はない。もう、お互いが気付いていた。だがそれでも団長と部下という役を演じ、進み続ける。決定的な証拠にたどり着くまで。


「……お? あれは……」


 先導する部下が何かに目を止める。山林に入ってかなり奥へ来たところだった。


「団長、見えますか?」


 反応をうかがうように部下は見上げてくる。


「……人影、のようだな」


 エレミアスは絞り出した声で言った。その頭は真っ白だった。どうすべきか、何と言うべきか――思考を乱す団長には構わず、隊列は人影のあるほうへと突き進んでいく。


「……ん?」


 かごを持った若い男は一団に気付き、怪訝な顔で見つめる。そんな彼に部下の一人が話しかけた。


「こんなところで何をしている」


「何って、山菜を採ってるだけだけど……」


 抱えるかごには確かに山菜が入っていた。それをいちべつし、部下は続けて聞く。


「この辺りに、村があると聞いたのだが?」


 これに男の表情が引きつる。


「あ……あんた達は……?」


「警戒することはない。我々はマイツェルト騎士団だ。ほら、エレミアス団長もいる」


 背後を示した部下はエレミアスを見せる。そこで初めて気付いたらしい男は、引きつった顔を途端に緩ませた。


「何だ、エレミアス様のお連れか。驚いた……。それなら僕達の村の場所はお知りなんじゃ……?」


 これに、全部下達の視線がエレミアスに注がれた。


「……団長、この男とは知り合いのようですね。それならそうと言ってください。しかし、なぜこの辺りに村があることを教えてくれなかったのですか? 殺人犯がそこへ逃げ込んだ可能性も考えられるというのに」


 部下のとげとげしい口調はエレミアスを完全に追い詰めた。あとは最後の一撃を食らわせるだけ……。だが、その前にエレミアスはやれるだけのことをしておきたかった。自分だけ助かるつもりは毛頭ない。全員とはいかなくても、助けた命を逃がせるだけ逃がしてやりたい――そう覚悟を決めると、エレミアスは力を込めた両手で手綱を引いた。


 ヒヒィーンといなないた馬の前足が勢いよく持ち上がり、その大きな体は周囲の者達を威嚇するように動き回った。突然のことに驚く部下達は暴れる馬に蹴られないよう一斉に後ずさっていく。それを見てエレミアスは突っ立っていた男に大声で言った。


「逃げろ!」


 しかし男は状況が呑み込めないようで、きょとんとしていた。


「村へ戻って皆を逃がせ。早く!」


 これで理解したのか、はっとした表情を浮かべた男は慌てて踵を返すと、山菜の入ったかごを放り出し、森の奥へと駆けていった。


「あいつを逃がすな!」


 誰かが叫び、数人の部下が男を追いかける。だがエレミアスはその前に素早く立ち塞がった。


「どういうつもりですか、団長」


 睨み付けてくる部下達を見て、エレミアスは小さく笑った。


「ふっ……下手な芝居はもういい。お前達の目的は私だったのか」


 誰も、何も答えない。そこには前日までの団長を慕う態度は見られない。すでに部下ではなく、追う者と追われる者――そんな現実に一抹の寂しさを覚えるも、エレミアスはそれを振り払い、手綱を操って森の奥へ猛然と馬を走らせた。


「何でもいい、止めろ!」


 部下の声が言った。その直後、エレミアスの体をかすめて矢が飛んできた。風を切り、ヒュンと鳴りながら何本も放ってくる。それをかわそうと姿勢を低くして走るが、次の瞬間、馬が驚いたように声を上げた。


「くっ!」


 急停止した馬は甲高く鳴きながらじたばたと暴れ始める。その力にあらがえず、エレミアスの体は地面に転げ落ちた。背中を強く打ち付けるも、しかしすぐに立ち上がったエレミアスは、また馬の手綱を握ろうとする。だが見れば馬の後ろ足には矢が刺さり、そこからは細く血が流れ落ちていた。


「追え!」


 弓を持った部下達が走って向かってくる。馬を諦めたエレミアスは自分の足で駆けた。この先には助けた偽者達の住む村がある。だがまだ向かうわけにはいかなかった。あの男が村に着き、皆を逃がすまでは時間を稼がなければ――そう考えていた矢先だった。


「……!」


 走る前方に誰かが座り込んでいた。木に背中を預け、地面に足を放り出す姿勢でうつむいている。その服装から確認するまでもなかった。それは先に行ったはずの男に違いなかった。通り過ぎ様にエレミアスはちらと見る。胸には大きな赤い染みが広がっていた。殺されている……だが誰に? 部下達は後ろから追ってきている。他にも潜んでいる者がいるというのか。


 しかし今は犯人を捜している場合ではなかった。男が殺されたということは、村にはこの事態が伝わっていないのだ。今も住人達は普段通りに過ごしている。早く知らせなければ。一人でも多く逃がさなければ……!


 部下達に追われながら走り続けたエレミアスの前方に、ようやく村の民家が見えた。そこにはまだ何も知らず、思い思いに仕事や立ち話をする住人達の姿があった。切れそうな息で村に入ったエレミアスは、ほど近いところにいた女を捕まえて言った。


「逃げろと、皆に、伝えるのだ」


「……エレミアス様? 一体どうされたのですか? ものすごい汗の量ですけど」


 心配そうに顔をのぞきこもうとする女の肩をつかむと、エレミアスは声を張り上げて言った。


「早く逃げるのだ! この村が見つかった! 殺される前に急いで――」


「きゃああああ!」


 耳をつんざく悲鳴にエレミアスは視線を移す。そこには村に入り込んでくる部下達の姿があった。


「ここにいる者は、全員排除しろ」


 号令に騎士達は剣を引き抜くと、村の中へ散っていく。最初は何が起きているかわからなかった住人達も、剣を片手に向かってくる騎士を見て、驚きと恐怖に目を見開き、やっと逃げ始めた。だがそれも遅すぎた。早く走れない高齢の者はあっさり切り捨てられ、逃げそびれた女達は家の中に隠れるも、簡単に引きずり出され、胸を貫かれた。若い男達は仲間を守ろうと手近なものを武器に抵抗を試みるが、鍛錬を積んだ騎士に敵うはずもなく、その命を奪われていく。怒声と悲鳴が響き渡る光景は、まさに地獄のようだった。助けた者達が次々に殺されていく様を、エレミアスは成す術もなく見つめることしかできずにいた。


「何て……ことを……」


 怒りと悲しみに、握った拳が打ち震える。その横では、声をかけた女がそれ以上に震えていた。


「エレミアス様……これは……何なのですか? 私も、殺されるの、ですか……?」


「そうはさせない……私が逃がす。今の内に――」


「どこへ行くのですか、団長」


 視線を上げると、そこには部下の一人が立っていた。


「ロンメル……」


 まだ二十代と若い部下だったが、剣の腕は申し分なく、頭もよく切れることから、時期副官候補として評価を得ていた男だった。エレミアスもその能力を買い、面倒を見てきたのだが、こちらを向く眼差しには、幻滅の色がありありと浮かんでいた。


「どこかへ行かれては困ります。団長には聞きたいことが山ほどありますので。……でもその前に、その女を排除させてください。話を聞くには目障りなので」


「どうやってこの村のことを知ったのだ」


「密告があったのですよ」


「密告だと?」


 エレミアスは思わず表情を険しくさせた。


「その反応からして、やはり情報は真実なようですね。この村は偽者が住む村……間違いありませんね?」


「彼らは……人間だ。偽者でも悪魔でも――」


「嘘をついても無駄です。過去の排除記録を調べれば、偽者かどうかはすぐに判明することです。……団長、どうなのですか?」


 問い詰められ、エレミアスは眉間にしわを寄せ、奥歯を噛み締める。


「……答えないということは、認めたと判断します」


 するとロンメルはエレミアス越しに目で合図を送った。直後、女の体ががくっと揺れ、その目が驚いたように見開いた。


「な……何を!」


 エレミアスは女の肩を支える。視線を落とした先には、腹を貫いた剣先が見える。それがぐっと引き抜かれると、女の腹からは鮮血が吹き出し、長いスカートをどす黒く染めていった。


「エレ、ミアス、様……」


 焦点の合わない目で呼ぶと、女は力を失い、地面に静かに倒れた。その背後には血で汚れた剣を握る部下が女を見下ろし、泰然と立っていた。


「お前達……!」


 エレミアスはロンメルを睨み、腰の剣に手をかける。


「偽者を排除したまでです。騎士の任務を遂行することが我々の責務でしょう? 何を憤ることがあるのですか。それとも、この者達が人間だと、まだ嘘をつき通すつもりですか」


 ぎりぎりと歯ぎしりするエレミアスの額からは、幾筋もの汗が流れ落ちていく。


「……その密告とやらは、私のことを何と言っていたのだ」


「騎士団長という立場でありながら、密かに偽者を助ける活動をしていると。さらにはそんな者達を集めた村を作り、かくまっているとも……。それを聞かされた時、我々は到底信じられませんでしたよ。多くの者が模範とする団長がそんな真似をするはずはないと。だから今回の作戦を立てるのは、正直言ってとても辛かったのです。我々は団長を疑いたくはなかったですから。ここまで来る間も、皆ずっと半信半疑だったのです。ですが……山林に踏み入ってからの団長の様子に、密告は真実だったと認めざるを得ませんでした。そして、この隠された村……我々はあなたに、深く失望しています。部下の信頼を、マイツェルト騎士団の誇りを、あなたは踏みにじったのです!」


 ロンメルの声はわずかに震えていた。いくつもの感情が噴き出すのを懸命に抑えているようだった。だがその目は鋭く団長を見続ける。


「とても残念としか言いようがありません。誰であれ、偽者をかくまった罪は免れない……団長、あなたを捕らえさせてもらいます」


 エレミアスは小さく息を吐くと、剣に置いていた手をゆっくり下ろした。


「そうか……わかった。もう何も言うまい。だが私を捕らえる前に、一つだけ教えてくれ。 その密告とは誰が、誰にしたものだ」


「我々が知るのは、まず教皇の側近に伝えられたものだったというだけで、密告した人物については何も聞いていません。しかし、たとえ知っていたとしても、あなたに教えることはできませんが。……話は帰ってからにしましょう」


 そう言うとロンメルはエレミアスに近付いてくる。


「武器を預からせてもらいます」


 右手を伸ばし、エレミアスの腰の剣に触れようとした瞬間だった。


「!」


 ロンメルの眼前を閃光が横切った。咄嗟に右手を引っ込めるも、気付くとその手のひらからは真っ赤な血が滴り落ちていた。切られた――そうわかって視線を上げた目の前では、エレミアスが自分の剣を引き抜いて構えていた。


「団長……この期に及んであらがうつもりですか」


「お前達を傷付けたくはなかったが、邪魔をするなら手加減はできない」


「あなた一人で我々全員は、さすがに相手に出来ないと思いますが」


「ここにはまだ二人の部下しかいない」


 エレミアスは構えた剣でロンメル達を牽制すると、そのまま森のほうへ後ずさり始める。


「逃げるのですか」


「確かめたいことがあるのでな。そこを動くなよ……」


 二人から十分距離を取ったエレミアスは、くるっと向きを変えると森の中へ勢いよく走っていった。


「追ってくれ! 俺は皆を集める」


 手の傷をかばうロンメルに言われ、もう一人の部下がエレミアスを追っていく。こちらも若い騎士で、体力があれば足も速い。エレミアスの背中をとらえるのも大して時間はかからなかった。


「……来たか」


 背後の様子をちらちらとうかがいながら、エレミアスは追ってくる部下との距離を測る。すでに汗だくで体力の減っている状態では、追い付かれるのは目に見えていた。


「団長! 止まってください!」


 部下はすぐ後ろまで来ていた。先ほど女を刺した剣は腰に納まり、右手は走る背中をつかもうと前に伸ばされていた。ここと見たエレミアスは剣を握る手に力を入れると、素早く体を振り向かせた。


「はっ……!」


 突然向きを変えた相手に面食らった部下は一瞬動きを鈍らせる。その隙にエレミアスは剣を横薙ぎに振った。刃は止まりかけた部下の足を切り裂き、赤い飛沫を散らせた。ううっとうめき、かがみ込んだ部下をいちべつし、エレミアスは再び森の中を駆けていく。


 追っ手がいなくなり、周囲には静けさが戻った。自分の足音と息遣いだけを聞きながら、エレミアスはこの事態を招いた密告者を推理してみる。ロンメルの話でまず引っ掛かったことは、密告を教皇の側近にしたということだった。教皇は双神の教えを広め、聖職者達を統べる立場であり、騎士団とは関わりが薄い。団長であるエレミアスの問題を密告するなら、騎士団を統べる修道会総長にするのが道理であるように思える。それをわざわざ教皇の側近に伝えるということは、その人物は聖職者なのか……。


 しかしとエレミアスは考える。総長は同じく、偽者を助ける活動をしていた。密告者がそれを知っていたとしたら……? エレミアスのしていることを伝えても無駄だとわかっていた。だからわざわざ教皇の側近に伝えたのだとしたら――疑いはどんどん胸の中を圧迫していた。


 ロンメルの話では密告者は偽者の村の存在と場所も知っていた。この二つを知る者は限られている。自分と総長、そして村に住む住人達だ。総長が助力していることは住人達も知っている。まさかその中に密告した者がいるのでは――だが、とエレミアスは思い直す。そんなことをすれば村が悲惨な目に遭うことは簡単に想像できるはずだ。住人は世間的には排除された身であり、唯一安心して暮らせる村を失えば、もうどこにも行き場はなくなる。密告して得することなど一つもないはずだ。


 走り疲れたエレミアスは木の陰に体を隠すと、頭上の木漏れ日を見つめながら息を整えた。住人が密告者とは考えにくい。もちろん総長でもないはずだ。では他に村の存在と場所を知る者などいただろうか――しばらく思考を巡らせていると、エレミアスの脳裏にふと男の顔が浮かび上がった。同じ騎士である、地区隊長の男……。


 あ、と声にならない声が漏れた。森の景色を見つめながらも、意識は自分の考えに集中する。あの男にはすべてを話していた。総長のこと、村のこと、偽者の見分け方まで。自分達がその偽者と判明して、村に住むよう勧めたが、まだ返事は受けていない。活動の協力についてもだ。だから排除記録はまだなく、世間的には彼の偽者は現れていないことになっている。あの男なら、すべてつじつまが合う気がした。しかしそこに密告する動機が見えなかった。自身も偽者だというのに、それを助ける者達を裏切るような行為をして、一体誰のためになるというのか。やはり彼ではない? しかし他に密告できる者など、思い当たらない……。


 がさ、と背後から物音がして、エレミアスは反射的に木の陰から離れ、振り向いた。そして目の前に現れた姿に目を見張った。


「君は……」


「団長、こんなところでどうされたのですか」


 今まさに思い浮かべていたカインツが、雑草を踏み締め、そこに立っていた。騎士らしく防具を着け、腰にも剣を下げている。しかし、偶然に会ったという割に驚いた様子はない。無表情な目はじっとエレミアスを見つめてくる。


「何か、あったのですか?」


 そう言ってカインツはゆっくりと近付いてくる。ざく、ざく、と雑草を踏み潰しながら……。エレミアスはその雰囲気をどこか異様に感じた。そしてカインツの姿を凝視して気付く。鉄の胸当てに赤い点が無数に散っている。もちろん模様や装飾なはずはない。その色は明らかに血の色――


「止まれ」


 エレミアスの声にカインツは足を止めた。


「……何でしょうか」


「誰を殺したのだ」


 カインツは首をかしげる。


「何のことですか?」


「胸に付いた血のことだ。まさか鹿狩りをしていたわけではあるまい」


 指摘され、カインツは自分の胸当てを見下ろす。


「ああ……拭き取るのを失念していました」


 口の端がわずかに歪んだのを見て、エレミアスは確信した。


「……お前が、密告者か」


 これに、カインツは視線を上げて見据えた。


「よく、お気付きで」


 すると、ためらいのない動きでカインツは腰の剣を引き抜いた。


「警戒心を持たれる前に排除しようと思っていたのですが……もう無理なようですね」


「なぜそんなことを……お前も偽者ではないか。我々の側の人間ではないか」


 強く問うエレミアスを、カインツは表情を変えることなく見つめ、言う。


「私が人間だろうと、悪魔だろうと、どちらでもいいのです。双神も、あなたの言った異説も信じないのですから。私が信じられるのは愛する妻だけです。妻だけが私を導いてくれる……」


「信じる妻のために、村の皆の命を犠牲にしたというのか? 一体どういう関係があるというのだ。我々がお前の妻に何をした」


「何もしていませんよ。今は……。ですが、あなた達の存在を放っておけば、いつかこの国に争いが起こるかもしれません。私はそれを望まない。しかもあなた達は偽者の見分け方を知っている。限られた者だけというが、争いが起これば、仲間集めのためにそれを公表することも考えられます。そうなれば私も無縁ではいられない。妻と引き離されるかもしれないのです。そんな状況には絶対にしたくない……だから、密告したのですよ」


「馬鹿な。まだ起きてもいない争いのために、罪のない者達を犠牲にしたというのか」


「確かに争いは起きていません。ですが、その種は確実に育っています。それがあなた達だ。ひとたび芽が出れば、村の住人とは比べものにならないほどの人数が犠牲になるでしょう。そんな災難を被るなど、私はごめんです」


 一貫して冷めた口調のカインツを、エレミアスは怒りを込めた目で睨んだ。


「我々は、ただ争いを起こしたいのではない。この国の間違いを正したいのだ。偽者であるがゆえに命を奪われる不条理を止めるために! 同じ偽者でありながら、なぜそれが理解できないのだ。これは、将来のお前のためにもなることなのだぞ!」


「将来に何を望むかは私が決めることです。そして、私は妻との平穏な時間を望んでいます。それを阻むものは、たとえ些細なことだとしても、徹底的に排除するつもりです」


「自分達さえよければ、偽者が殺されることなど、どうでもいいというのか」


「私が信じているのは妻だけ……妻を幸せでいさせることが、私の最重要任務ですから」


 エレミアスはカインツを睨んだまま、剣を胸の前で構えた。


「お前のことは信用できるものと思っていたが、見誤ったようだ。ここまで無関心で勝手な男だったとは……。これ以上、邪魔をされるわけにはいかない。引導を渡してやる」


 殺気を放つエレミアスを見て、カインツも構えた剣を握る手に力を入れる。


「邪魔をされたくないのはこちらですよ……覚悟してください」


 二人は間合いを取りながら、牽制する視線をぶつけ合う。エレミアスの表情は殺意を感じさせながらも、冷静さを保っている。だが一方のカインツは、冷静を装ってはいるが、表情の端々を若干こわばらせていた。エレミアスは四人いる騎士団長の中でも、一番と言われるほどの剣の腕の持ち主であり、カインツも昔、その剣さばきを直に目撃している。その強さは末端の騎士など相手にならないだろうことは、切り合う前からわかっていることだった。だがエレミアスは絶対に排除しなければならない存在だ。どんな手を使おうとも、必ず仕留めなければ――恐怖心を押し殺し、カインツは勢いよく一歩を踏み込んだ。


「はあっ!」


 気合いの声と共にカインツは剣を素早く振り下ろす。が、エレミアスはほぼ同時に振り上げた剣で、それをあっさり弾き返した。ガンッと鳴って弾かれた剣は、カインツの体ごと後ろへよろめかす。そのあまりに強い腕力は、カインツを一瞬だけ怯ませたが、すぐに体勢を戻し、再び切りかかる。


 しかし、剣はエレミアスをとらえられない。弾き返され、避けられ、カインツは空を切るばかりだった。


「お前の腕では、私には、勝てない!」


 そう言ったエレミアスの一撃が頭上から振り下ろされた。咄嗟に剣を出したカインツは攻撃を受け流す。だがまたすぐに正面から剣が突き出された。


「うっ……」


 エレミアスの剣先がカインツの首筋をかすめ、赤い糸のような傷を刻んだ。これに動きを鈍らせたカインツを、エレミアスは見逃さなかった。一度攻撃をかわすと、その力の入り切っていない剣の動きを見て、エレミアスは思い切り自分の剣をぶつけた。


 ギンッと割れるような高音を響かせて、剣はカインツの手から弾き飛ばされていく。しまったと胸の中で叫び、飛ばされた剣を取りに行こうとするが、それをエレミアスの剣が容赦なく阻んでくる。防ぎようのない連続する攻撃を、カインツは必死に避けていく。自分の剣はすぐそこに落ちていたが、エレミアスの攻撃はそれとは違う方向へ追い詰めていく。飛び退き、後ずさって、ぎりぎりの状態を続ける。しかし次の瞬間、後ろへ下がったカインツの足は木の根に引っ掛かり、その体はぐらりと大きく傾いた。


「くっ……!」


 後ろ手を付き、歯を食い縛って、どうにか尻もちをつくことはなかったが、不利になってしまった体勢から脱しようと視線を上げると、すでに至近距離でエレミアスは立ち、冷酷な目でカインツを見下ろしていた。


「こんな結果を招いてしまったことは、真に残念だ……さらばだ」


 エレミアスの振った剣が眼前で閃く。それをカインツはまばたきせずに見つめた。


 だが直後、エレミアスの腕は宙で動きを止めた。そして小さく震え始める。その表情は何が起きたのかを理解していないようだった。


「……な……な、に……」


 かすれた声を漏らすと、エレミアスの口の端からは血の筋が流れ落ちた。二、三度咳き込めば赤い飛沫が地面に飛び散る。剣を持つ手がだらりと下ろされると、体はよろよろとふらついて、その場に膝を折った。


 動けなくなったエレミアスを見ながらゆっくり立ち上がると、今度はカインツが見下ろした。


「残念なのは、あなたのほうでしたね」


 青白くなったエレミアスの顔を、カインツは感情のない眼差しで見つめる。そのエレミアスは、自分を排除する者を確認しようと、最後の力を振り絞って体を振り向かせた。そうして目に映ったのは、血の付いた剣を片手にたたずむ、もう一人のカインツ――


「なる、ほど……始めから……一対一、で、勝つつもり、など……」


 最後まで言い終える前に、エレミアスは目を閉じると、そのまま意識を失い、地面にばたりと倒れ込んだ。うつ伏せの背中には深く突き刺された傷があり、血が流れ出るそれを二人は見下ろしながら、エレミアスが息を引き取るのを確かめた。


「正直、冷や冷やしたぞ。お前に裏切られたかと一瞬よぎった」


 カインツは落ちている自分の剣を拾い、鞘に納めながら言った。


「見殺しにするはずがないだろう。私達のどちらが欠けても、カタリナは悲しむんだ」


「そうわかっているなら、私が追い詰められる前に片を付けてもらいたいものだな」


「あんなに動き回られては狙いなど定まらない。一撃必殺を狙うなら、あの時しか――」


「おい、物音がしたのはこっちか!」


 遠くの森から男の声が聞こえ、二人はそちらへ視線を移す。まだ姿は見えなかったが、おそらくエレミアスを捜している騎士達に違いなかった。


「そろそろ来そうだ……引き上げよう」


 二人は周囲の気配に警戒しながら、静かに森の中へ姿を消した。その後に残されたのは、木漏れ日を浴びる、誰に殺されたのかわからないエレミアスの亡骸だけだった。

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