十四話
一日かけてバロッサの町へ戻ってきた二人は、早朝、まだ人気のない通りを抜けて我が家へと帰り着いた。鍵を開け、玄関をくぐり、誰もいない居間へ向かう。白み始めた外の気配が窓の隙間から暗い部屋に差し込んでいる。それを頼りにカインツはランプを手にして、そこに明かりをともした。瞬間、ふわっと光が広がり、二人の姿を浮かび上がらせる。フードを外し、外套を脱いだ偽者は、それを椅子にかけ、座る。カインツも向かいの椅子に、両腕を机に置いた姿勢で座った。互いにうつむき、黙り込んでいた。時折、目覚めた鳥の声が聞こえてくるだけの、静まり返った時間はしばらく続いた。
エレミアスに協力を頼まれた二人だったが、すぐに答えることはできなかった。少し考えさせてほしいと保留し、こうして家へ帰ってきたのだった。その胸にはまだ衝撃の余韻が残っていた。自分達、二人ともが偽者であったという事実――自分こそが本物と信じて疑わなかった二人には、あまりな現実だった。ここまで歩んできた人生が、まるで嘘のように思えて、全身は虚脱感に覆われていた。偽者は人間ではなく悪魔だというすり込まれた常識が、さらにそれを強め、二人を無口にさせていた。
「……私は、ただ人殺しをしていただけなんだろうか」
ランプの火を見つめながら、ようやく声を出したのは偽者だった。
「騎士の任務と称して、仲間を捕らえ、殺して……私のやってきたことは、何だったのか……」
うつむく偽者をランプ越しに見やると、カインツは言った。
「そう考えるのは早くないか」
「……どういうことだ」
わずかに顔を上げた偽者がカインツを見つめる。
「これまで排除してきた者達が仲間だとなぜ思うんだ」
「なぜって、団長は偽者である我々こそが人間だと――」
「確かにそう言ったが、その根拠は示していない。すべては、異説からの推測でしかないんだ」
「じゃあ、お前は自分が悪魔だと認めるつもりなのか」
強い口調で聞いた偽者から顔をそらしたカインツは、ふうっと息を吐き、言った。
「……そんなことは、どうでもいい」
怪訝な顔になる偽者を見ず、カインツは続けた。
「私は双神を信じ、その騎士として仕えてきた。その間、間違ったことをしていた意識などない。双神のために働き、任務を全うできることは誇りだと思っている。お前はそう感じていなかったのか?」
「自ら騎士になったんだ。私にだって誇りはあった」
「だったら簡単なことだ。それを胸に、これからも同じように任務を全うすればいい。そうじゃないのか?」
同意を求めるカインツだったが、偽者は怪訝な表情のまま言った。
「……違う。それは事実から目をそらしている」
じろりと見たカインツを偽者は見返す。
「私達はもう知ってしまったんだ。自分達が偽者だと知ってしまったんだ。これまでのようにはいられないんだよ。目をそらしたって、事実を知る前には戻れない。どうしたってな」
「私が、現実逃避をしているとでも言いたいのか?」
「残念ながら、私はお前でもあるんだ。その心の内は嫌でも理解できてしまうし、同じものが私の心にもある。自分が偽者であると認めたくない、受け入れたくないという思いがな……。しかし、一度浮かび上がった事実は消えない。あがいても逃れられない。正面から向き合うしかないんだ」
「私は逃げていない」
「そう思うのか? ではなぜ今まで通りの生活を送ろうとする? 任務を全うする誇りを語った? 私にはお前がそう言った気持ちがよくわかる。正当化したいだけなんだ。偽者でありながら、それを排除してきた自らの行動を、誇りを、否定されたくないんだ。それは裏を返せば、自分が人間でないかもしれないという不安を抱いている証拠だ。どうでもいいなんて言っても、私にはすべて手に取るようにわかる」
偽者に図星を指され、カインツは閉口した。口では平静を装ってみても、心の動揺は奥深くにまで達している。自分の気持ちはごまかしようがなかった。
「……そうだ。私は偽者という事実に立ちすくんでいる。呆然としている。一体どうすればいいのか、視界のきかない霧の中に放置されたような心地でいる。私にはわからないんだ。これまで教えられてきた双神と、団長が明かした異説の双神……どちらかが真実なのか、それとも、どちらも真実ではないのか……」
「団長のおっしゃるように、私達が真の人間であるなら、騎士としての任務はすべて神にあらがう行為だったことになる。逆に、常識通り偽者が悪魔だとするなら、私達の存在は否定されることになる……どちらにせよ、私達が安堵できることは今後なさそうだ」
はあ、と偽者の溜息が響いた。その向かいで背中を丸めたカインツは机を見つめてうつむく。早朝の涼しかった部屋は、夏の太陽が昇り始めた外の空気に次第に侵食され、室温を少しずつ上げていた。だが偽者がいる中で、通りから見える窓を開けることはできない。手のひらにうっすらと汗を感じながらも、二人は動くことはなかった。帰宅するまでまともな食事もしておらず、空腹でもあったのだが、抱える問題はそんなものをすっかり忘れさせていた。
「団長への協力は、どうする」
不意に偽者が聞いた。
「まとめられない心境で返事などできない」
「そうだが、あまり長く保留もできないだろう」
カインツは、あの村でエレミアスが話していたことを思い返した。
「……仮に、協力すると答えたら、団長はどうなさるのだろうか。仲間を集め、異説を人々に明かすとおっしゃっていたが」
「本当にそんなことをすれば、各地に混乱が広がるかもしれない。仲間の規模にもよるが、下手をすれば全騎士団員、教皇、国王陛下まで相手にする可能性も出てくるだろう」
「内乱、か……団長はこの国の基盤に切り込む覚悟なのだろうか」
「この世界を神の元へ戻すとおっしゃっていた。それを生半可な覚悟と見るかどうかだ」
「団長は異説を信じておられた。さらには偽者の自分達こそが人間だとも。その言葉のどこを取っても、生半可な要素は見当たらない。……団長は、神に仕える騎士として、本気でやるのだろう」
「じゃあ私達は部下として、もしくは同じあざを持つ者として、それに加わるべきか?」
問う偽者にカインツは聞き返す。
「お前はどう思うんだ」
「お前と同じだ。わからない。自分が偽者であるという事実以外はな」
そう言って偽者は椅子の背もたれに寄りかかり、暗さのたゆたう天井を見上げた。
「団長は、信じたいものを信じ、行動しようとされている」
「私達は何を信じる? 何を信じられる?」
「私達は……」
私達は、何を信じればいいのか――二人にはその答えが見えなかった。自分達が偽者だったと知った衝撃は、それまでの物事の見方や価値観を一変させた。騎士、排除任務、双神への信仰……それらの信じていたものは、明かされた事実と説でぐらついている。神を疑うなと多くの者は言うが、二人の中には今やそれだけしかなかった。ずっと祈りを捧げてきたものは、果たして神だったのか、悪魔だったのか。自分達は、何を排除し、何を残し、そして信じ続ければいいのだろう――それを見極めようとすればするほど、二人は迷路のような思考に迷い込んでいった。
ランプだけがともる部屋の中を静寂が覆っていた。椅子に座ったままの二人は微動だにしない。一点を見つめ、それぞれ答えを探し求めていた。締めきった窓の外からは次第に人の気配が感じられた。太陽が昇り、住人達が動き始める時間のようだった。だが二人のいる部屋だけは未だに目覚めないかのように、しんと空気が止まっている。そんな状態が長く続いていた時だった。
ガチャリと玄関から音がして、二人は同時に顔を上げた。扉を叩く音がしなかったことから、どうやら普通の客ではなさそうだった。カインツは椅子から立ち上がると、偽者に隠れていろと目で伝え、静かに玄関へと向かった。
「……誰だ」
ランプの明かりが届かない、薄暗い玄関に呼びかける。と、そこには荷物を持つ人影がうごめいていた。カインツの声に顔を向けた人影は、少し驚いたように言った。
「ユリウス、いたのね。もう仕事に行ったのかと……」
「カタリナ……!」
目を丸くするカインツに、歩み寄ってきたカタリナは笑顔を浮かべた。
「ただいま」
その表情や口調に体調の悪さはうかがえない。療養してすっかり治ったようだったが、カインツはそれでも聞いた。
「もう、体は大丈夫なのか?」
「ええ。見ての通りよ」
「実家から、一人で帰ってきたのか?」
「そうだけど……?」
「何で連絡しないんだ。そうすれば私が迎えに行ったのに」
語気が強まったカインツをカタリナはまばたきをして見つめる。
「ユリウスには、仕事があるから――」
「仕事よりカタリナのほうが大事だ。途中で体調を悪くしたらどうするつもりだったんだ」
「治ったから帰ってきたのよ? もう、心配しすぎだわ」
カタリナは苦笑し、荷物を持って居間へ向かう。が、目の前に現れた姿に足を止める。
「……カタリナ!」
嬉しそうに呼んだのは偽者だった。そのもう一人の夫をカタリナはじっと見つめる。カインツはこの状況に、咄嗟に偽者をどけようと手を伸ばす。何しろカタリナが体調を悪くした原因は、偽者の判断を迫ったこの状況なのだ。せっかく治ったのに、帰ってきた場所がまだ何も変わっていないのでは、再び寝込ませることになりかねない。そう思い、カインツは偽者の腕をつかもうとしたのだが、カタリナはそれをさえぎるように言った。
「よかった。まだもう一人、いてくれたのね」
まるで安心したかのような笑顔を見せるカタリナを、カインツは怪訝に思いつつも言った。
「もう、カタリナは何も、何も考えなくていい。判断もしなくていい。これは私達二人で何とかして――」
「実家にいる間、ずっと考えていたの。二人のことを……」
これに、カインツの動きが止まる。
「それで、やっと心が決まったの。私は、どうしたいのだろうかって……」
カインツは息を呑んで聞いた。
「私達のどちらかを、決めたのか?」
カタリナは微笑んだ。
「……座って話しましょう。荷物も置かないと」
手に提げたかばんを示されて、カインツは慌ててそれを持つ。偽者も居間へ戻り、椅子を引いてそこにカタリナを座らせた。
「窓が閉め切ってあったから、ユリウスはてっきり仕事に行ったのだと思ったけど、そうじゃなかったのね」
「すまない。少し暑いだろうけど、外から見られるわけには……」
「わかっているわ。このままで平気よ」
荷物を居間の隅に置いたカインツはカタリナの向かいに、偽者はその隣に座る。三人の間にあるランプは、それぞれの影を作り出しながら表情を浮かび上がらせていた。そして、二人の夫を見据えたカタリナは、おもむろに口を開いた。
「まずは、迷惑をかけて、ごめんなさい。いろいろと大変だったでしょう?」
「何でカタリナが謝る。迷惑だなんて感じたことはない」
「そうだ。大変な思いをしたのはカタリナで、そうさせてしまったのは私達なんだ」
気遣う二人にカタリナは薄く笑む。
「ユリウスはこうして、いつだって優しい言葉をかけてくれるわ……どちらか一人が偽者だなんて、私には想像もできなかった」
これに、二人はどきりとした。どちらか一人ではなく、二人ともが偽者なのだ。それを言ったら、カタリナは一体どんな顔をするだろうか……。だが、そんな告白ができるほどの勇気と覚悟を二人はまだ持ち合わせていない。吐き出せない事実に心が締められる感覚を覚えながら、二人はカタリナの声に耳を傾ける。
「深く、深く考えようとしていたの。そうすれば正しい判断が下せると思って。でも、苦しいだけでまったくできなかった。結局、自分の体を壊しただけだったわ……。だから、ベッドの上で改めて考えてみたの。判断が下せない、私を苦しめる理由は何だろうって」
すると、カタリナの緑の目が、ふっと細められた。
「そうしたら、とても簡単なことだと気付いたの。はなから私には、そんなこと決められなかったのよ。本物と偽者の区別がつかない私にとって、二人は愛するユリウスでしかない。少なくとも、私の目にはそうとしか見えない。どっちも、共に生きると誓った夫なの。そのどちらかが排除されるなんて……ユリウスなのに殺されるなんて、とても耐えられない。愛する人が苦しむ姿を想像すると、私も同じように苦しくなるの。だから……」
細められたカタリナの目は、わずかに潤んでいた。
「誰にも判断をさせないで。ずっと私の側にいて……」
妻が出した答えに、二人は呆然とした眼差しを向ける。
「カタリナ……君は――」
カインツが聞こうとしたのを、カタリナはすぐに制して言った。
「ごめんなさい。騎士の妻なのに、こんなことを言って……。失望、したわよね。双神を信じながら、それに背いているんだもの。私を軽蔑してもいいわ。自分のことしか考えない女だと思ってもいい。だけど――」
カタリナは二人の手を取ると、強く握りながら言った。
「私は、ユリウスが死ぬところなんて見たくない。たとえ偽者だろうと、二人は確かに、私の愛するユリウスだから……!」
感極まったカタリナの右目から小さな雫がこぼれ落ちた。机の上で弾け、ランプの明かりがそれを輝かせた。うつむくカタリナは二人の手を握ったままでいる。その細い指は小刻みに震えていた。それを見ただけで二人にはカタリナの苦悩が手に取るようにわかった。神に背く行為でも、どちらが偽者であろうとも、カタリナにしてみれば二人とも夫であるユリウスなのだ。その本性は関係ない。愛する者の姿をした男が排除されることが、ただ耐えられず、心を苦しめるのだ。そこにはユリウスへの純粋な愛しかない。神への信仰心よりも、カタリナはその愛を優先すると決断したのだ。
「……カタリナ」
カインツは手を握り返し、呼ぶ。すると潤んだ瞳が上目遣いに見つめてきた。
「失望も軽蔑もするものか。それがカタリナの見つけ出した答えだと言うなら、私達の嬉しさはどれほどだと思う?」
「喜んで、くれるの……?」
カインツは偽者と目を合わせると、強くうなずいた。
「当然だ。……でも、一つ聞いておきたい」
言って真剣な眼差しで聞いた。
「偽者と知ってかくまうことは罪になる。この先のことを考えると、今まで通りの生活とはいかないかもしれない。最悪、見つかって捕まることも……。カタリナはそんな危険を覚悟できるか?」
これに上目遣いの表情は緩く微笑んだ。
「捕まったっていいわ。ユリウスがずっといてくれるなら……私は怖くない」
この一言で、二人の中の迷いは吹き飛んだ。双神でも異説でもない。信じられる唯一の存在、それはカタリナしかいないのだ。そんなことはとっくにわかっていたはずだったが、迷いに翻弄された頭はいつしか忘れてしまっていた。だがそのカタリナが気付かせてくれた。自分の中の素直な思いに従えばいいのだと。騎士であることも、偽者であることも取っ払い、ただ目の前の、大事な存在だけを愛おしめばいい――二人の答えは、それだけの単純なことだった。
「カタリナ……君を危険には遭わせないと約束する。私の手で守ってみせる」
椅子から立ったカインツはカタリナの側へ行くと、その細い体を包むように抱き締めた。
「私達の暮らしは、誰にも邪魔させない。絶対に」
偽者も同じように立つと、カインツの反対側からカタリナを抱き締める。二人の夫に挟まれるように抱き締められたカタリナは、少々困惑しながらも、その顔に笑顔を浮かべた。
「同時に二人に抱き締められると、ちょっと苦しいわ。でも……すごく嬉しくもある。不思議ね。こんな状況に幸せを感じるなんて……」
「それでいいんだと思う。私達は、もう……」
覚悟を決めたのだから――カタリナを抱き締めたまま、カインツは視線を上げる。すぐ前には同じ顔がこちらを見ていた。じっと、意思を伝えるように……。声はなくても、その言葉はカインツにはっきりと伝わっていた。カタリナの、この幸せを守ることが自分達の新たな任務なのだと。そして、そのためならあらゆる手を尽くし、手段を選ばないということを。些細な可能性でも、危険ならば排除する――二人の群青色の目は、その意思を静かに確認した。
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