十一話
熱を出したカタリナを医者に見せたカインツだったが、偽者の言う通り、やはり風邪ではなかった。精神的なものであれば、時間経過でよくなる可能性もあったが、このまま家で看病を続けるわけにはいかなかった。何せ熱を出させた原因はカインツ達なのだ。その側に置いていたら治るものも治らないかもしれない――そう考えた末、二人はカタリナを実家に帰すことを決断した。バロッサの町からかなり距離が離れているので、頻繁に様子を見に行けないのが残念ではあったが、カタリナを思えば、それが最善の方法だった。
カインツは体調不良を理由に休職すると、馬車を乗り継いでカタリナを実家まで送り、夜もふけた遅い時間にようやくバロッサの家へ帰ってきた。
「ただい……」
言いかけてカインツは口を閉じる。待っているのは偽者だけなのだと気付いて苦笑を漏らした。入った居間には、椅子に座って腕を組む偽者がいた。
「無事、送り届けたか」
「ああ……」
小さな返事をして、カインツは向かいの椅子に腰を下ろした。偽者と向き合い、改めて不思議な光景だと思った。鏡でしか見たことのない自分が目の前に存在している。一体この男は何なのだろうか――カインツがそんなことをぼんやり考えていると、偽者はおもむろに口を開いた。
「さて、これからどうする」
「さあ……判断をしてくれる者はもういないからな」
沈黙が流れる。これからどうすればいいのか、二人には何も見えてこなかった。
「このまま私を物置に隠して、お前は暮らすつもりか?」
「どうだろうな。それがいいことなのか、私にはわからない」
「それなら一日物置で過ごしてみろ。少しはわかるかもしれないぞ」
「代わりにお前が仕事へ行き、買い物や家事をするのか? ……時々入れ替わってみるというのも面白いかもしれないな」
カインツは冗談めかして笑う。
「……いっそ、決闘でもしてみるか」
物騒な偽者の提案に、カインツは首をかしげた。
「殺し合いで、本物を決めるのか?」
「そうだ。判断を下してくれる者がいないなら、自分達で決めるしかない」
これにカインツは、以前偽者の首を絞めた時のことを思い出した。自分の手で、自分自身を絞め殺そうとする奇妙さと恐ろしさ。あの感覚は今も胸の奥に残っていた。偽者は得体の知れない、カインツにとっては邪魔でしかない存在だが、今度こそ殺せと言われても、あの感覚が残っている限り、やり切る自信はカインツにはなかった。
「私は、できない。お前は排除したいが、この手でとなると……」
「騎士らしからぬ言葉だな。それとも、ただ自分に甘すぎるだけか?」
鼻で笑う偽者をカインツはじろりと見やる。
「お前にはわからないことだ。好きに言え。ただし、その提案は却下だ」
「ではどうするんだ。何かいい案でも出してくれるのか」
再び沈黙が流れる。机に置かれたランプが照らす居間には、夏の虫のかすかな声と、偽者が吐いた溜息だけが響いていた。
「……お前は、カタリナとの思い出を持っているのか?」
おもむろに聞いたカインツに、偽者は呆れた視線を送る。
「愚問だ。カタリナは私の妻なんだぞ。答える気にもならないな」
「そう言って、かわしているんじゃないのか?」
偽者は、むっとした表情になった。
「ならば聞け。答えてやる。出会ったきっかけでも一緒に訪れた場所でも、何でも」
質問に身構える偽者を、カインツは見据えて聞いた。
「では、結婚前、二人で出かけた時にカタリナが体調を悪くしたことは知っているか?」
「ああ。そんなことが一度あったな。湖畔に集まる野鳥を見に行った時だ。今とは違い寒い時期だった。カタリナの様子に気付いて、私はすぐに引き返し、近くの店で温かいスープを注文した」
偽者がすらすらと語る内容は、すべてカインツの記憶と合致するものだった。自分とカタリナだけの思い出のはずなのに、それをまるで体験したかのように話す偽者……。あまりに淀みない口調に、カインツはふとすると、自分の記憶を疑いそうになる。頭にあるのは、本当に自分が経験した記憶なのだろうか。正真正銘、本物のユリウス・ディエトリック・カインツのものなのだろうか――そんな不安に陥りそうになる気持ちを抑えながら、カインツは正面に座る偽者を見据え続けた。
「幸い、カタリナの体調はすぐに回復してくれたから一安心だった。……そう言えば、あの湖畔へはあれ以来、行っていないな。他に一緒に行ったのは――」
「見世物小屋に行った」
「あれは結婚後の間もない時期だ。結婚前では……カタリナの実家近くの小川によく行っていた気がする」
「夏は決まって蛍狩りをしていたな」
「そうだった。あの小川にはたくさんの蛍が飛んでいた。両手で包んで簡単に捕れるほどに」
「帰る時は虫かごに入れた蛍を一斉に放した。あの光が舞い散っていく光景は何とも幻想的で美しかったのを憶えている」
「今頃、小川の周りはきらめく光で溢れているだろう。カタリナの部屋から見えているだろうか……」
実家にいる妻にしんみりと思いを馳せる二人だったが、ふと視線が合うと、同時に我に返った。
「……やめだ。お前と思い出に浸って何の意味がある」
背もたれに寄りかかり、偽者は不愉快そうに言った。
「だが、お前と私の記憶は細部まで同じだとわかった。それは偽者の特徴であり、大きな証拠だ」
「おい、そう言うならお前も偽者に当てはまるんだぞ。いい加減、本物面はやめろ」
「そっちこそ、自分が本物だと思い込むのはやめろ。どちらが本物かは、もう決まっている」
「自分だと言いたいのか? ふん、笑わせるな」
「お前の記憶も経験も、すべては偽りだ。存在のようにな」
「お前の言葉こそ偽りだ」
「いいや、私は自分が本物だと知っている」
「自信過剰もほどほどにしろ。そんなものはすぐに打ち砕かれる」
「誰が打ち砕くと言うんだ。お前か?」
カインツに睨まれた偽者は椅子から立ち上がり、鋭い視線で射る。
「そうしてほしいのなら、そうするが?」
これにカインツも勢いよく立ち上がった。
「やる気か?」
机を挟んで、二人は一歩も引かず、まばたきもせずに睨み合う。無言の威圧でお互いを牽制するが、どちらも手を出す気配はなかった。こういう喧嘩はもう何度目だったか。相手を否定しながらも、二人はこの喧嘩が何も生まないことをどこかでわかっていた。一時の感情を吐き出してしまえば、頭はこれが無意味な行為だと冷静に判断した。
「……私達だけでは、もう限界なようだな」
「そうらしい。一時休戦だ……」
どちらからともなく視線を外した二人は、力が抜けたようにまた椅子に座った。
「お前と話していても、本物だ偽者だと怒鳴るだけで答えは出ないだろう。やはり、第三者が必要なんだ」
そう言った偽者を、カインツは険しい表情で見た。
「……聖堂へ、行くと言うのか」
「それしかない。始めからそうしておけば、カタリナを苦しませることもなかったんだ」
「だが、お前は他人の判断を信じられるのか? どうやって決めるのか、方法もわからないんだぞ」
「もちろん疑念はある。だが私達は双神に仕える騎士なんだ。同じ立場の司祭を疑うべきではないし、疑えば、これまでの騎士としての自分の行いを否定することにもなる」
「騎士の自分を否定しないために、お前はその疑いを無視するというのか」
「無視はしていない。妥協だ。騎士である以上、決められたことに従うしかないだろう」
「本当に、それで納得できるのか?」
「できないだろうな。だが他に方法がないんだから仕方がない。それとも、お前が何か提案してくれるのか?」
聞かれてカインツは黙り込む。偽者の言う言葉はカインツの心境とぴったり重なっていた。自分が騎士であるにもかかわらず、疑いを抱いているという後ろめたさ。それは偽者の排除任務の否定であり、自分がしてきたことの否定にもつながる。判断を下す司祭を疑うべきでないことはわかっている。だがそれに自分の命が懸かっていると思うと、カインツはどうしても疑心を拭えなかった。しかし、このままの状況を続けることもできない。自分達でどうにもできないのなら、少しでも信用の置ける者に頼むしか方法はないのだ。まだ抵抗のある気持ちを頭で理解させながら、カインツは眉間にしわの寄った顔で言った。
「……わかった。私も、妥協する。聖堂へ……司祭に判断を貰おう」
しんと静まり返る中で、カインツと偽者は真っすぐに視線を交わす。
「覚悟はできているのか」
「できていようといまいと、こうする他ないんだ」
二人はお互いの表情から決心を確かめると、そろって外出の準備を始めた。服装を整え、戸締まりをし、ランプを消す。家から出て玄関に鍵をかけたカインツは、丸めて持ってきたものを偽者に手渡した。
「聖堂までこれを着ろ」
広げて見ると、それはフードの付いた外套だった。防寒用なのか、使われている生地は分厚く重い。
「……お前が着ればいいだろう」
偽者が返そうとするのを、カインツは突き返す。
「夜警中の部下と出くわしたら、私のほうが対応しやすい。聖堂までの辛抱だ。それくらいの暑さは耐えろ」
少し不満そうな表情を浮かべつつも、偽者は仕方なさそうに外套を着てフードをかぶる。その目深にかぶったフードは偽者の顔半分を隠し、さらには夜の暗さで影を作り出している。誰かに見られたとしても、すぐにはわからないだろう。通りに出た二人は、辺りに視線を配りながら、町の聖堂へ向かって歩き始めた。
夜が更けたとは言え、まだ明かりのついた家はちらほら見えた。しかし通行人の姿はさすがに見えず、すれ違ったのは道端で寝込む酔っ払いだけだった。幸い見回る部下にも出くわさず、カインツ達は町の中央に建つ、バロッサ聖堂に到着した。
石の門をくぐり、墓地に隣接する庭を進むと、白い石で造られた建物が見えてきた。町の聖堂なので大きさはあまりないが、そびえる三角屋根やステンドグラス、壁に施された装飾はなかなか立派に出来ている。
入り口の前に立ったカインツは、静寂が広がる中で扉をドンドンと叩き、呼んだ。
「夜分に申し訳ない。どなたかおられますか」
しばらく待っていると、脇の窓にほのかな明かりがともり、玄関のほうへ人影がやってくるのが見えた。そして扉が静かに開いた。
「何のご用で……あなたは、確か……」
燭台を片手に出てきたのは若い修道士だった。同じ神に仕える職業柄、カインツは仕事でも時々聖堂へやってくることがあったが、どうやらこの修道士はカインツのことを知っているようだった。
「シュライアー司祭にお会いしたいのだが、いらっしゃるだろうか」
「お急ぎのご用ですか? 今はお休みになられているのですが……」
「偽者に関することだ。できればすぐに呼んでいただきたい」
「ああ、そういうことでしたか。少々お待ちください。ただいま呼んで参りますので」
一旦扉を閉めた修道士は奥の部屋へ戻った。そして二分後、脇の窓に再び人影が見えると、扉はゆっくりと開いた。
「……おお、カインツ隊長、夜間の任務ご苦労様です」
白い寝巻姿に燭台を持ったシュライアーは、眠そうな顔もせず笑顔でカインツをねぎらった。
「お休みのところを邪魔して申し訳ない」
「いえ、任務なのですから構いませんよ。……それで、偽者とその当人はどちらに?」
聞かれてカインツは、後ろにいた偽者をシュライアーの前に立たせた。
「見極めていただきたいのは、私達です」
え? と首をかしげたシュライアーに、偽者はかぶっていたフードを取って顔を見せた。その途端、シュライアーの表情は驚きに変わり、そしてその目は二人を確かめるように交互に動いた。
「……カインツ隊長、自身……なのですか」
驚きを隠せない司祭を、カインツと偽者は覚悟の目で見つめる。
「お願い、できますか?」
静かな口調で言うカインツに、シュライアーは表情を緩めて言った。
「よく、ここへ来てくださいました。葛藤なさったでしょう」
二人の様子だけでシュライアーは、その決断するまでの苦悩を感じ取り、優しく言葉をかける。そんな親身になってくれる司祭を、他人だからと疑っていたことに、カインツは自分を恥じ、目を伏せた。
「私達を、拘束してください」
大人しく身を差し出す二人を、シュライアーは微笑んで見つめる。
「こちらでは拘束などいたしません。カインツ隊長だからではなく、通常そうなのです」
「え……では、私達の扱いはどのように?」
「客人と同じです。聖堂内の一室で、判断を下すまで過ごしていただくことになっています。ですがこれは表向きで、お二人には会っていただきたい方がいます」
「どういう、ことですか? 表向きって……」
言っていることがよくわからないカインツだったが、シュライアーは表情を変えずに続ける。
「その方をお呼びするには数日かかるので、とりあえず、今夜からはここにお泊まりください。ご案内します。……よろしいでしょうか?」
いろいろ聞きたいことはあるが、二人は司祭に従い、小さくうなずいた。それを見て聖堂内に招き入れたシュライアーは、暗く静まり返った廊下を進み、ある部屋に案内する。
「狭くて申し訳ないのですが、ここでお休みください」
見せられたのは、左右の壁際にベッドが置かれた二人用の小さな部屋だった。正面には丸い机とランプ、その上には格子の付いた窓があるだけの質素な部屋だ。
「ここに、いればいいのですか?」
「はい。数日の間だけですので」
振り向いたカインツは聞いてみた。
「あの、一体どなたですか? 私達に会わせたいというのは」
「それは、その方がここに来てくださった時に……。では明日の朝にまた……」
シュライアーは扉を閉めて去っていった。部屋に残された二人は聞けなかった疑問を抱えながら、ベッドで休む他なかった。
それから数日間、カインツ達は聖堂内で過ごすことになった。外へ出なければ行動は自由で、それぞれ散歩や読書など、室内で気ままに過ごしていた。本物か偽者かの判断を待っていることを忘れてしまいそうなほど、二人への対応はごく普通だった。だがシュライアーは相変わらず何も教えてくれず、一体誰が来るのかわからないまま、一日、また一日と過ぎるのを待った。
そして、そろそろ二週間が経とうとした頃だった。
「お二人とも、お食事はもうお済みでしょうか」
昼下がり、昼食を終えて食堂から出てきたところで、カインツ達はシュライアーに声をかけられた。
「食べ終えたところですが、何か」
「そうですか。ではこちらへ来ていただけますか。先ほどご到着しましたので」
「誰がです?」
「お二人に、会わせたい方です」
はっとした二人は、お互いの顔を見合わせた。司祭が教えてくれなかった人物がやっと現れた――歩き出したシュライアーの後を、カインツ達は不安や期待の混じる気持ちで黙って付いていった。
通されたのは応接間で、扉を叩き、失礼しますと声をかけたシュライアーが開けると、窓から差し込む陽光で溢れる部屋の中が見えた。
「お連れしました」
これに、中央の椅子に背中を向けて座っていた人物は静かに立ち上がり、扉のほうへ体を向けた。カインツ達を見ると、その精悍な顔にわずかな笑みを浮かべる。
「また会ったな」
「……エレミアス団長……!」
撫で付けた茶の髪に紫の瞳、頑丈そうな体の横には立派な剣――カインツは自分の目を疑って頭からつま先までを凝視するが、その姿は紛れもない騎士団長で、どういうわけかそこに立っていた。
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