十話
「――って言ったんですけど、隊長はこれについてどう思います?」
不意に話しかけられて、カインツは我に返った。
「……ん、悪い。もう一度言ってくれ」
ヘルベルトは話していた同僚達と怪訝な表情で顔を見合わせてから聞いた。
「隊長、どうかしましたか?」
「どうって、何がだ」
「最近、様子がおかしいですよ。今日も巡回の道を間違えていましたし」
カインツ達は普段の仕事である町の見回りを終えて、今は詰め所へ戻るところだった。日が傾いた夕方、辺りには家路につく人々が多く見られ、カインツも詰め所で日誌を書けば、今日の仕事は終わり、帰宅する予定だった。
「少し、気を緩ませていた。明日からは気を付ける」
カインツはわずかに苦笑いを浮かべた。
「何か、心配事でもあるんですか?」
「いや……どうして?」
「時々、遠くをぼーっと眺めているので、そんなふうに見えただけなんですけど……僕の思い過ごしでしょうか」
心配そうに聞くヘルベルトに、カインツは笑みを作って見せる。
「疲れが溜まっているだけだ。何もない」
「それなら、いいですけど……」
どこか納得していないヘルベルトの表情を見て、カインツは話題を変えようと明るい口調で聞いた。
「それで、さっきの話は何だ?」
「あ、はい。隊長に聞いたのは――」
詰め所までの道のりを、カインツは部下達の話に耳を傾けながら帰っていく。だが、そこにカインツの意識はなかった。頭の中を占めるのは、自宅にいる偽者の自分ばかりだった。
地下の物置部屋に偽者を閉じ込めてから数日が経っていた。その間、カインツは何事もないように騎士として任務を務めていたが、その胸には常に不安が漂っていた。偽者が扉を蹴破っていないだろうか。カタリナによからぬことを言っていないだろうか――考え出せば切りがなく、任務中も増していく不安に、カインツの注意力は散漫になっていた。ヘルベルトの言う通り、その原因は家にいる偽者への心配だが、そんなことを正直に言えるはずもない。ただ不安を抱えながら任務をこなし、何事も起こしていない偽者に安堵、そしてまた不安を抱えて任務……と、そんな日々を繰り返すしかなかった。
仕事を終えて、夜番の部下達に見送られて詰め所を出たカインツは、脇目も振らずに自宅へと向かう。おそらく、今日も偽者は変わらず物置に入っているはず。しかし、万が一抜け出していたら――そう思うと、帰る足は自然と速まっていく。閉じ込めてからそんな素振りは見せていないのだから大丈夫だと、頭の片隅では思っているのだが、それを覆うほどに偽者への不安は大きかった。自分とそっくりな存在、それがいる限り、カインツの中の不安は消えることはないのだろう。
「ただいま。……カタリナ?」
帰宅し、玄関の鍵をしっかりかけると、カインツはいの一番にカタリナの姿を捜す。
「……お帰りなさい」
台所から出てきたカタリナは微笑みを浮かべて出迎えた。その様子に安堵したカインツは、その細い体を抱き締め、頬に口付ける。
「何もなかったか?」
「ええ。何も……。もう少しで夕ご飯ができるから」
「そうか。じゃあ着替えてくるよ」
体を離し、カインツは二階へ上がる。楽な服に着替え、再び一階に戻り、夕飯の支度を手伝う。居間の机に料理が並ぶと、二人は向かい合う席で食事を始めた。カインツは部下の話をし、カタリナは近所の友人の話をする。会話は弾み、笑いも漏れる。こんな時間だけが置かれた状況を忘れさせてくれる。だが、そんな一時の幸せはすぐに過ぎ去ってしまう。
「……ごちそうさま。今日も美味しかった」
「どういたしまして。明日は何が食べたい?」
「カタリナが作るものなら、肉でも野菜でも構わないよ」
「じゃあ、ユリウスの嫌いなカブを使った料理にしようかしら」
空になった食器を片手に、カタリナはいたずらっぽい眼差しを向ける。
「それでもいいさ。私が食べられるかどうかは、カタリナの腕次第ってことだ」
「私を試すつもりなの? それならカブ料理はやめて、ユリウスの好きなものにするわ」
「そのほうが私もいいと思うよ」
カタリナはにこりと笑い、台所へ食器を下げていく。それに続き、カインツも自分の食器を持って台所へ向かった。
流しに汚れた食器を重ねながら、視界の隅に見えるものにカインツは目をやる。調理台の端には、今食べ終えたばかりの料理が一人分、皿に盛られて置かれている。もちろん、余ったものではない。
「ねえ、今日は私が持っていっても――」
「駄目だ。カタリナはあいつに近付いちゃいけない」
「どうしてなの? 暴れてもいないし、静かにして――」
「あいつの世話は私の役目だ。カタリナは夕食の片付けを頼む」
盆に料理とフォーク、水の入ったコップを手早く載せて、カインツは地下室への階段を下っていく。そして首から紐でぶら下げた鍵を手に取り、扉の鍵穴に差し込んだ。
「……起きているか。夕食だ」
暗く狭い中に声をかけると、床に片膝を立てて座り込む偽者の顔がゆっくりとカインツに向けられた。その目は反抗的な光を宿しているが、殴りかかってくる様子はない。料理を差し出すと、偽者は素直にそれを受け取り、フォークを握って食事を始めた。
「もう、わめかないのか」
開いた扉に寄りかかってカインツは聞いた。
「……無駄なことをする気はない」
「だが、この状況は不服なのだろう?」
偽者は上目遣いにカインツを見やった。
「当然だ。監禁されて喜ぶ者などいない。だが無闇に声を上げれば、カタリナにも迷惑がかかる。だから大人しくしているまでだ」
水を一口飲み、偽者は料理を口へ運ぶ。
「永遠にここにいるわけじゃない。カタリナが判断してくれるまでの辛抱だ」
「……そのカタリナは、判断をしてくれそうなのか?」
聞かれたカインツは腕を組み、うつむく。
「どうだろうな。まだどちらにも決めていない様子だが……」
「決められると思うか」
偽者の率直な質問に一瞬言葉に迷うが、カインツは言った。
「……決めてもらうしかない。私達は、カタリナだけを信じているのだから」
これに偽者は何も言わず、黙々と食事を続ける。同じ気持ちだということが聞かなくともわかった。もう、他の道を選択するつもりは二人になかった。後はカタリナの下す言葉を待つだけ……。
五分ほどで料理をたいらげた偽者は、盆に食器とコップを戻し、カインツに手渡す。
「じゃあ、行くぞ」
偽者を立たせたカインツは、物置から出るよう促した。動き回れない生活で少しなまったせいか、偽者は鈍い足取りで歩いていく。こいつこそが偽者だと確信しているカインツだが、それはカタリナが決めることで、それまでは人としてひどい扱いをしないことをカインツは約束している。なので風呂に入れたり歯磨きもさせれば、着替えもさせる。だが、カタリナに会わせることはなかった。大事な人に悪魔を近付けさせるわけにはいかない――夫としては当然の心境だった。だから偽者の世話は、いくらカタリナがやると言っても頑として断り、カインツはこうして一人で世話を続けていた。
この時も、いつも通り浴室へ連れて行こうとしたカインツだったが、階段の上をふと見上げると、そこにはゆっくりと下りてくるカタリナの姿があり、カインツは驚きに目を丸くした。
「カタリナ! どうして来たんだ。世話は私がやると――」
「それは、わかっているけど……」
「戻っているんだ。ここに来ちゃいけない」
そう言うも、カタリナは聞かずにカインツの前までやってきて足を止めた。その表情は憂いに満ちている。
「……判断を下してくれるのか?」
偽者が聞くが、カタリナは首を横に振る。
「違う。まだ判断は……」
「じゃあ何だ。私に用でもあるのか?」
カインツに聞かれ、伏し目がちにためらいながらも、カタリナは口を開いた。
「……ユリウス、もう、閉じ込めるのはやめない?」
思いも寄らない提案に、カインツはまばたきを繰り返す。
「何を言って……」
「だって、もう一人のユリウスは何も悪いことはして――」
「もう一人のユリウスなんて呼び方はやめてくれ。私は、ただ一人しかいないし、こいつは偽者で悪魔なんだ」
「それはこちらのセリフだ」
偽者がぼそりと呟いたのをカインツは視線で黙らせると続けた。
「カタリナに悪魔を近付けさせるわけにはいかない。ここに閉じ込めておくことが今は最善なんだ」
「私は、そうは思わない……私には、二人とも夫でユリウスなんだもの。どちらか一方を閉じ込めるなんて、心苦しくて……」
表情を歪めるカタリナに、カインツは静かに言う。
「そういう優しさがカタリナのいいところだ。でも、偽者に優しさはいらない。そうだろう?」
これにカタリナは問う眼差しを向けた。
「ユリウス……あなたが偽者でないと、私は断言できない。それなのに、あなたが閉じ込められていないのはなぜ?」
見つめられたカインツは呆然と妻を見返した。
「……カタリナ、私を疑っているのか? そんな、やめてくれ……」
「違うの。疑っているわけじゃ……。ただ、今の私にはどちらも本物のユリウスとしか思えなくて、一方を閉じ込めるのは抵抗を感じるの。二人には同じだけの可能性があるはずでしょう?」
同じだけの可能性――つまり、見分けのつかないカタリナには本物、偽者である可能性が同等にあるのだ。そこに扱いの差はつけるべきではない、と……。カタリナは疑っていないと言ったが、偽者を物置から出すということは、カインツが本物でないかもしれないと疑っているも同然だった。本物の本人であるのに、疑われる余地などないはずなのに――カインツにとっては理不尽に思える疑いに、語気を強めて反論したいところだったが、カタリナの身になれば、そんなことはとてもできなかった。偽者の出現に困惑しているのはカインツだけではないのだ。見分けのつかない二人の夫に、本物を判断するよう迫られているカタリナのほうが、その心中は複雑なのかもしれない。
しばらく悩んだ末、カインツは口を開いた。
「……カタリナが言いたいことはわかった。でも、やっぱり出すことはできない」
「なぜなの? 私には二人の違いなんて――」
「そういうことじゃない。自由にさせれば人目がある。それは避けないといけない」
「それなら……それなら人目の少ない夜だけでも。いいでしょう?」
「外出はさせない。家の中だけなら……」
妥協したカインツに、カタリナはようやく表情を緩ませた。
「わかったわ。……それと、もう一つだけお願いが」
カインツは不安を押し隠し、カタリナを見つめる。
「物置部屋の鍵を、私に預けてほしいの」
「なっ……なぜ? カタリナには必要ないだろう?」
「呼ばれているのに無視したり、扉越しに話すのは辛くて……」
初めて聞いた偽者の様子に、カインツは背後に振り向く。そこには平然とした表情が待っていた。
「自分の妻を呼ぶことの何がおかしいんだ」
思わず怒鳴りそうになったカインツだったが、その前にカタリナが言った。
「昼間はもちろんここにいてもらうわ。でも、最近は暑くなってきたし、ずっと扉を閉めたままだと体調を悪くするかもしれないから……」
お願いと言わんばかりの視線がカインツを見つめてくる。本心を言えば、鍵を渡すなど言語道断だった。自分の知らぬ間に二人が話していたことすらカインツは許せなかった。カタリナは自分の妻で、唯一愛し、守るべき人なのだ。しかし、そんな大事な人に疑われていると知った今は、それを避けようとする気持ちから強く否定することができなかった。
「気は、進まないが……カタリナが心配だと言うなら……」
「ありがとう、ユリウス」
ほっとした表情のカタリナに、カインツは首にさげていた物置の鍵を取って手渡した。
「まだ十分とは言えないが、この床板のベッドからは解放されそうだな」
溜息混じりの偽者の言葉に、カインツはすぐさま反応し、鋭い目を向けた。
「誰が寝室で寝かせると言った。偽者に与える寝床などない。そんなものは自分で探せ」
「ユリウス……」
カタリナは眉根を寄せて悲しげな表情を見せた。言わなくとも何を訴えたいのかはわかる。だがカインツもこれだけは譲れなかった。
「カタリナには近付けさせない。悪いが、それだけは守ってもらう。いいね?」
「でも……」
何か言いたそうなカタリナに、カインツは強い口調で言った。
「一緒にいさせたら、君の身が危険なんだ。そんな状況にはさせられない」
「でも……あなたといても、何も危険なことは起こっていないわ」
「私は偽者じゃないからね。だがこいつは違う」
「おい、何も起こっていないから偽者じゃないという理屈は何だ。そんなものがあるなら言ってみろ」
偽者はカインツを睨み据えて言った。
「お前自身が胸に手を当てて考えろ。悪魔め」
「どっちが悪魔だ。私のカタリナを好きにできると思ったら大間違いだ!」
「気安く名を呼ぶな。その口を今すぐ塞いだっていいんだぞ!」
お互いの鼻が付きそうなほど顔を近付け、二人は睨み合う。このままだと殴り合いでも始まりそうな険悪な雰囲気に、カタリナは慌てて二人の間に割って入った。
「やめて、落ち着いて! 私が判断することなんだから、あなた達が喧嘩してもしょうがないわ」
胸を押され、左右に離されたカインツと偽者は、ぐっと奥歯を噛み締め、いきりたつ気持ちを抑えた。
「……そうだな。決めるのはカタリナだ」
「ああ……私達はそれを待つだけだ。無用な争いは控えるべきだな」
「そうよ。だから……いがみ合わないで。お願い……」
静まりかけた二人の空気だったが、それをカインツはすぐに振り払うように言った。
「だが、お前が寝室に入ることは絶対に認めない」
するとカインツはカタリナの腕を引き、階段を上がっていく。
「ど、どこへ行くの?」
「カタリナはもう休むんだ。後は私が全部やっておくから」
一階に戻ると、カインツは二階への階段を上がるよう促した。
「ユリウスと、もう少し話を――」
「あいつの面倒を見たらすぐに行く。先に休んでいるんだ」
有無を言わせない力強い口調に、カタリナは戸惑いを見せつつも渋々二階へ上がっていった。
「偽者に面倒など見てもらう必要はない」
地下から上がってきた偽者はカインツをいちべつすると、自ら浴室へ向かっていった。
「それは助かる。私も偽者の世話などやきたくないんでな」
言い返された言葉を無視し、偽者は淡々と入浴を始める。それをカインツは居間で待ち、不審な動きがないかを監視した。ほどなくして着替えも終えた偽者は、椅子に座るカインツに不快な表情で言った。
「そこをどけ。私の寝場所だ」
目を丸くしたカインツは偽者を不思議そうに見ながら席を譲る。
「随分と素直だな」
「お前とまた言い争って、カタリナを心配させたくないだけだ。……言っておくが、私は納得していないからな。カタリナの横にいるのは、本来は私なんだ」
「そう思うのは自由だ。だが、行動に移したら容赦しない。覚えておけ」
ぶつかる視線にわずかな火花を散らせると、カインツは階段を上がり、寝室に入った。
今日は普段より早い就寝時間だったが、二人で寝ているベッドには寝巻を着たカタリナが静かな寝息を立てている姿があった。その肩や枕に金の長い髪が流れているのを、カインツは指先で愛でるように撫でた。偽者になど渡さない。渡してなるものか――妻が自分を疑う事実、そしてそんな彼女が下す判断への不安は、カインツの心をひどく揺らしていた。それを鎮めようと、上掛けをめくり入り込んだカインツは、背中を向けるカタリナを後ろからぎゅっと抱き締めた。
「……ユリウス?」
頭が動き、小さな声が呼んだ。
「ごめん。起こしたか」
「いいのよ。……もう一人のユリウスはちゃんと寝ているの?」
これに、抱き締めるカインツの手に、思わず力が入った。
「ここであいつのことは話さないでくれ。私は、ここにいるんだ」
背中越しでもカタリナが戸惑っているのが伝わってきた。だがカインツは構わず、愛する妻の温もりをその手に感じ続けた。やがて自分の心が静まることを期待して……。
しかし、日が経つにつれ、カインツの心はさらなる不安に覆われていった。
「――隊長、隊長?」
窓の外、夏の日差しが照る町並みを眺めていたカインツは、自分を呼ぶ声に気付いて振り向いた。
「ああ……何だ」
狭い執務室の机の向こうには、怪訝な顔のヘルベルトが立っている。
「先ほど知らせがありまして、二週間後に予定していた地区隊長会議は、議長の都合で来月に変更するということです」
「そうか……わかった」
返事はするものの、明らかに口だけの様子に、ヘルベルトは眉間にしわを寄せてカインツを見つめる。
「……どうかしたか」
「どうかしているのは隊長のほうではないですか? 僕がここに入ってきたのに気付きました?」
カインツは思わず口ごもる。
「……やっぱり気付いていなかったんですね」
「すまない……」
「いえ、謝られることはないんですけど……隊長、最近ますます様子がおかしいですよ。本当にどうされたのですか?」
「何も……私は普通だよ」
「下手な嘘はやめてください。少し前からぼーっとしていましたけど、最近はそんな時間も多くなって、僕のからかいにも付き合ってくれないじゃないですか。それだと新人達が怯えますよ」
「新人が、なぜ怯えるんだ」
「隊長は普段、その口調も相まって怖く思われがちですから、もう少し柔らかい印象を与えないと新人達が畏縮しすぎるんです。ですから、それを防ぐために僕は隊長に奥さんのことを聞いたりして、別の面を引き出す努力をしているんですよ。……もしかして、ただのからかいだと思っていました?」
「ああ、そうとしか思っていなかった」
これにヘルベルトはがっくりとうなだれた。
「そうですか、残念です。わかってもらえていなかったことは……。これでも僕は副官ですから、隊の中ではいろいろと目を配っているんですよ。まあ、そんなことはいいんですけど……」
ヘルベルトは表情を真剣なものに変えた。
「隊長、何か問題を抱えているのなら、僕がお力になります。できることであればですけど」
「問題など……そんなものはないよ」
「しかし、隊長の様子は明らかにおかしく思えるんですけど……体調不良ですか?」
「違う。私は至って健康だ。気にしないでくれ」
「遠慮せずに言ってください。隊長がそんなですと、他の者達にも――」
「だから、何も問題はないんだ! 何も……」
声を荒らげたカインツに、ヘルベルトは一瞬表情を引きつらせた。それを見て、カインツはすぐに取り繕う。
「……心配してくれるのはありがたいが、私を、気遣う必要はない。大丈夫だから」
「そう、ですか……何かあれば言ってください。僕はいつでも相談に乗りますから」
「ああ、ありがとう」
かすかな笑みを浮かべたカインツに見送られ、ヘルベルトは静かに執務室を出ていった。再び独りになったカインツは、椅子の背もたれに体を預け、また窓の外を眺める。だがその目は何も見ていない。と言うより、何も見えてこない。町の喧騒も、鳥や虫の声も聞こえない。それらをすべてさえぎっているのは、偽者への強い不安。ただそれだけだった。
カタリナに物置の鍵を渡してから、カインツは部下にもわかるほどに仕事への集中力を欠いていた。その脳裏に浮かぶのは、家にいるカタリナと偽者の姿。鍵を渡した今、扉はカタリナの手で自由に開けられ、偽者に触れることさえできる状況だ。そう思うと、カインツはたまらない気持ちだった。偽者に対する不審、苛立ち、嫉妬……湧き上がる不快な感情は仕事をするカインツの意識を縛り付けた。何をしようとどこにいようと、頭の中は家にいる二人のことばかりを考え続けていた。
そしてこの日も、はやる足で帰宅したカインツは、玄関を開けていつものように妻の名を呼んだ。
「カタリナ、今帰った」
居間へ行くが、姿は見当たらない。夕食の準備をしているはずの台所も、浴室にもいなかった。地下の物置部屋をのぞいてみると、その扉は開け放たれたままで、誰の姿もない。カタリナと共に偽者までいないことに、カインツは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
「カタリナ……!」
二階への階段を見上げると、カインツは急いで駆け上がる。そして閉まっている寝室の扉を勢いよく開けた。
「!」
思わず息を呑んだカインツの目に飛び込んできたのは、ベッドに横たわるカタリナと、その傍らに腰を下ろして寄り添う偽者の姿だった。
「……帰ったか」
顔を上げた偽者はカインツをいちべつすると、そう言ってまたカタリナに視線を戻す。その素っ気なく、こちらには無関心な態度が、カインツをさらに激昂させた。
「貴様……偽者が!」
恐ろしい形相でつかみかかってきたカインツに、偽者は瞠目しながらも言う。
「誤解をするな! 私はただ――」
「ただ、何だと言うんだ! 悪魔め! この場で絞め殺してやる!」
「落ち付け! 見ろ。カタリナをよく見てみろ」
もみ合いながら、カインツは横目でベッドの上のカタリナを見やる。すると、その苦しげな表情に気付き、カインツは偽者をつかむ手から力を抜いた。
「……どういうことだ。カタリナに何をした!」
偽者はカインツの手を振り払ってから言った。
「だから私はただ、カタリナの介抱をしていただけだ」
「介抱……?」
カインツはカタリナの横にかがむと、その汗の滲む顔を見つめる。それを後ろから眺めながら偽者は説明した。
「私がいた物置に、カタリナが昼食を持ってきてくれた時のことだ。受け取った私はカタリナの顔色がすぐれないことに気付き、聞いたんだが、本人は平気だ、暑いだけだからと言って戻ろうとした。しかしその途中、体がよろめくのを見て、私はすぐに寝室へ運んだ。すでに熱を出していたが……これは、風邪ではないと思う」
カタリナは両目を硬く閉じ、半分開いた口で早い呼吸を繰り返している。額や首筋には玉の汗が流れ、見ているだけでもその苦しさが伝わるようだった。カインツは熱のこもったカタリナの手を握ると、背中越しに聞いた。
「風邪でないなら、何か心当たりでもあるのか」
「心当たりなら、お前にもあるはずだ」
これにカインツは振り向いた。見下ろしてくる偽者と視線が合う。その自分と同じ群青色の目は、痛切な色で見つめていた。
「カタリナは虚弱体質だ。身体的にはもちろんだが、精神的に弱っても体に影響が出る。もうわかるだろう。カタリナは連日悩んでいた。私達の判断を任され、どう決めればいいのかを。ここまで追い詰めたのは私達だ。苦しめている原因は、私達なんだ」
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